第2話 影に魅入られて

 闇の中に一人の少女が浮んでいる。その姿は闇に溶け込み、シルエットでしかなかった。

 でも、どこか懐かしい感じがして、どこかご主人に似ている気がした。

「生への執着。貴女には選択の権利がある」

 シルエットの少女が、私に直接語りかけてくる。それは念話としか形容のしようがない、奇妙な感覚だった。

「痛みと恐怖を祝福として、この生の宵闇に溶けるか。それとも、憎悪と怨嗟を呪いとして、血と肉の煉獄を生きるか」

 少女は二つの扉を差し出した。

 一つは命が終わること。このどうしようもない感情の濁流を抱えたまま、なかったことにする。

 もう一つは、呪いを撒き散らす存在へと堕ちる代わりに、現世での生を与えられる。

 迷いはなかった。なぜなら、このご主人に似た少女が、ご主人への復讐を望んでいるから。

 この空間において理解は必要ない。それが最初にあるのだから。

 最後の最後に私を捨てたご主人よりも、今際に寄り添い、願いを理解し、手を差し伸べてくれた、ご主人に似た少女の方が私には心地よかった。

「信仰は理を歪める。現実は泡沫の認識を重ねた幻想。貴女は、誰もが恐れる呪いになった」

 少女が私に手を伸ばす。そこから溢れ出したのは、闇よりも暗い、黒い影。

 闇を覆う闇。それが私を覆った時、私は二度目の生を授かった。




「あれ? 着信だ」

「勤務中に見ちゃダメでしょ。まったく……」

「電源切ってたと思ったんだけど……もしもし?」

「私メリーさん。今あなたの目の前にある、焼却炉の中にいるの」

「えっ!? あなた……何言ってるの!?」

「私メリーさん。今あなたの隣にいる、人の首に乗ってるの」

「ひっ……紫織……首っ、血が……」

「私メリーさん。今あなたの後ろにいるの」



 目の前に転がる二つの血に塗れた新鮮な死体を見て、たったいま自分が成したことを理解する。

 もはや私が子どもと一緒に遊ぶ人形ではなくなったと、納得せざるを得ない惨状を、自分の手で作り上げたのだから。

 こうなるとどこかで感じながら、憎悪に支配された私は、あの深い闇の底で、無抵抗でこの呪いを受け入れた。

 軽薄だった。人形でなければ、大粒の涙を流し、呼吸がままならないほどの嗚咽を漏らしていたであろう、激しい後悔が襲う。

 それでも止まらない衝動的な殺意。あの闇の主としか思えない少女を受け入れた時点で、私の運命は決まっていた。

 呼吸と同じくらいに、根付いた殺意を満たさないと、私は渇きで死んでしまう。

 いやだいやだいやだ。これ以上呪いを撒き散らしたくない。

 そう願いながら、溺死寸前の人間が僅かな空気を求めるのと同じように、臨界点に達した殺意を満たすため、側に転がる死体を口に含む。

 口に広がる血のほのかな風味が、頭をぼんやりとさせる……こんなにも人間の血液が美味しいとは思わなかった。

 新鮮なお肉の食感も、嫌悪感を催すその見た目も、ご主人を殺めたいという欲求をささやかながら満たしてくれる。

 そして、人形としての私は、人を欲望のままに喰らうことのおぞましさに、目を背けていた。

 

 人を二人も手にかけ、その死体を喰べても、根本的な殺意が満たされない。

 解消したい……このどうしようもなく、気が触れてしまいそうな、耐えることなんて到底不可能な飢餓感を……

 その為に手にした能力を直感的に理解している私は、職員だった物の手に握られた携帯を手に取る。

 身長の半分近くある、それの扱いに苦労しながら、アドレス帳を隅々まで確認する。

 誰を殺せば自分が最も満たされるか……そんなの決まっている。この世界で最も愛おしくて、恨めしくてたまらないご主人だ。

 見ず知らずの他人のアドレス帳から、血眼でご主人の名前を探す……そこに望んだ名前は存在していなかった。

 そのことで、とても落胆する自分に気付いて、人格が塗り替えられて、もう戻れないことを思い知らされた。


 あの深い闇の世界で私が得た力を、私は理解していた。人が呼吸の仕方や、鼓動の刻み方を生まれながら知っているように。

 私に与えられた呪い……それは無限の殺人衝動と、ご主人の元へ戻りその亡骸を手にするという使命にも似た原始的な欲望。

 その手助けとして得たのが、人々が抱える都市伝説への恐怖を元に実現した超常の呪力。

 電話を媒介にすることで、通話相手の場所へ向かって一定距離を移動する空間跳躍能力と、背後を取った相手を無条件で呪殺する能力。

 この二つが私の渇きを癒す為に齎された手段だった。


 力を得た私が真っ先にしたことは、ただ耐えることだった。

 血糊で濡れた床の上で、膝を抱えてうずくまり、耐え難い飢えを耐えた。

 衝動を抑えきれなくなると、床にこびり付いた血で、舌先を濡らして、渇きを凌ぐ。

 これ以上の戮殺は、楽しく子どもと一緒に遊ぶ人形としての本能と理性が許さなかったから。

 か細い、でも確かに残された人形としての良心で、これ以上の殺戮を犯さないよう、本能的な殺人衝動を抑えつける。

 ……でも、刹那を永劫のように感じさせるほどの膨大な苦痛を前に、心が一秒と持たず折れそうになる。僅かな血液だけでは決して癒せない、拷問めいた飢餓感。

 身体の横に転がる携帯の連絡先を辿り、その過程でたくさん無関係の人を欲望のままに殺して、殺し倒して……それからご主人を手元に手繰り寄せ、四肢を削ぎ、首を捥ぎ、その時に浮かべるであろう苦悶の表情を見下ろせたなら、どれほどの悦楽だろうか……

 それは植えつけられた呪物としての本能と野性が見せる、甘美な夢。そこに向かって進みたい呪物としての私。

 それがこれ以上ないほどの悪夢だと理解して、必死に抗う人形としての私。

 それらの相反する欲望を、永劫の時が過ぎたと感じるまで耐え続けたる……

 

 

 足音と共に数人の人間が、ゴミ処理場に入ってきた。

 目の前に突然現れた、新鮮な血と臓物が詰まった肉袋。

 既に限界を遥かに超えて乾いていた私は、刹那も堪えきれず、喉元にむしゃぶりつき、溢れ出る鮮血を一心不乱で啜った。

 生きたままの人間から、死ぬまで生き血を吸うと、仰け反ってしまうほどの快感が全身に迸った。

 乾いて乾いておさまらない喉を潤しながら、最悪の怪物に堕ちた自分の姿に慟哭した。

 それでもなお動かなくなった肉塊を喰い破り続け、プラスチックの瞳から血が溢れても、まだまだ、まだまだ血を啜り続ける。全身の綿が人の血で赤黒く染まって、溢れても、足りない、足りない。全然足りない。


 最初の二人と、追加の四人……これだけ殺して、嬲って、貪っても、呪われた人形は満たされなかった。

 苦しい……人を殺したくて、殺したくて……殺せないこの一瞬さえ苦しくて。

 人を苦しめている瞬間だけは、この苦しみから逃げられる。人を喰らう瞬間だけは、圧倒的な快感で、罪悪感まで忘れられる。

 だけど、そんな絶頂感は瞬きする間に過ぎ去ってしまう。

 恒常的に満たす方法を一つしか知らない。ご主人を殺すしかない。

 でもそのためには、手元にある携帯からいくつも連絡先を辿らないといけないだろう。

 ここがどこかもわからない。いったいどれだけの人間を手にかけることになるか、想像もつかない。

 唾棄すべき選択肢だと理解しながら、体が動き出すのを止められない。

 胸の奥から湧き上がる、ご主人への怨嗟。こんな私にした元凶であるご主人への底なしの憎悪。

 こんな負の感情は嘘偽りで、自分のものではないのに、容易くそれに支配されそうになる。

 四人も殺した直後なのに、殺す前と同じか、それ以上の渇きに苛まれる。

 流れることのない涙の代わりに、吸った血が瞳から溢れ出る。

 歪む視界が捉えた時計は昼過ぎを指していた。

 ここに横たわる人間は、昼休みになっても姿を現さない最初に手をかけた二人を心配して呼びにきたのだろう。

 そして理解した。私が耐えていた、永遠に続いたあの耐え難い責め苦が、たったの十数分に過ぎなかったのだと。

 私は耐える苦痛と無為に、今度こそ完全に心が折れた。

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