花癇
幕間慶
花癇
腹が立って仕方ないのよ!
そう叫んで彼女は椅子に深く腰掛けたまま右足の靴の踵を踏み鳴らした。それからもう片方の足も同じようにどんと打ち付ける。彼女は均等を好むのだった。彼女の履く靴はほとんど白色のような薄いピンク色で、エナメル加工がてかてかと光っていた。円柱の形をした踵は太く、少し高い。
「何にそんなに怒っているの」
「知らないわ」
彼女の斜め向かいに腰掛けて紅茶を啜る青年は眼鏡のレンズ下から興味深く彼女を観察した。彼にとっては彼女は未発見の生物と同じ位置づけにラベリングされていた。彼の眼鏡のレンズフレームは細い金属が満月の形を描いていて、レースカーテンに濾過された初夏の陽射しを冷たく弾いた。
彼女が踵をこつこつと打つたびに無地の白いワンピースの裾が柔らかく翻っては踝が覗いた。裸足に踵の高い靴を履くせいで、彼女の足の甲と踵には靴ずれが絶えない。彼女は傷の治りが遅く、肌はいつまでも柔らかいままで、進化と適合を忘れた身体だった。足の皮が剥けて赤くなって組織液が滲んでもそれをやめないので、彼女の白い靴にはいつも独特の汚れが染み付いている。手入れ係がいくら毎夜拭っても、翌朝目を覚まして朝食を終えた彼女がまた新たな汚れを同じ箇所へ作るのだ。手入れ係はある日嫌気がさして手入れをやめてしまったが、翌日の昼には馘首になっていた。
彼女のワンピースのポケットには鈴蘭が一輪挿してあって、本来ならば毎日取り替えられる筈が彼女はごみ箱から拾ってでも同じ花を挿し続けるのだった。最初は口喧しく咎められたそれは、ある時から諦めと共に誰もが見て見ぬ振りをするようになった。すっかり茶色く枯れてついに形を保つのが難しくなって、ポケットの中で粉々に砕け散ってようやく彼女は新しい花を手に取る。枯れた花は花の形をしていないので、彼女にとってはごみ以下のものであるらしく、脱ぎ捨てたワンピースを逆さに降って窓からその枯花の残滓を撒き散らしてしまうのだ。彼女の家で三階から下に蠢いている人間たちは彼女の枯れた花を肺に取り込みながら生きている。
「動かないでよ」
「動いていないよ」
「動いてるじゃない。あなたの頭が動くとその眼鏡の光がちらちらして目が痛いの。動かないでよ」
「残念、それは難しい」
「どうしてよ」
「僕は生き物だから」
「じゃあ死ねば」
「そうすると君は次の僕を探してこのサンルームへ引き込むというわけだ」
「ええ」
「それはいつになったら終わるのかな?」
「どうして終わらなければならないの?」
「言い方を変えよう。君はどうなれば満足できるのかな?」
ガラスの天井を手入れされた十数本の蔦が這い、肘置きに置かれた彼女の手首にその影が落ちていた。外はふとしたように薫風が流れ、彼女に巻き付く影もそれに合わせてゆらめいた。ガラスの温室の外ではブーゲンビリアが赤い花を群れさせている。青年の目にはその赤の塊は美しさよりも苛烈な下品さの方が際立って映った。彼女の口から零れていく怒りが花の形を取ってあそこに山盛りになっているに違いないと思った。
「腹の底がむかむかするのよ。何かが私の中でふつふつと煮えているの。この熱を下げてはいけないと思うのよ。もっと薪を焚べたいの、もっとその炎で燃やしたいの。私を生かして動かすのはこの炎なのだわ。もっと燃やして、口から火を吐いて、私、何かを――融かしてしまいたいのよ。きっと」
夕方になるとイランイランが香り始める。遠い国の燃える夕暮れを思わせる深い芳香は、傍を通り過ぎるものの袖を引くように項に纏わりついてくる。その花の下へ椅子を持ち込み、月の明かりと共に一晩眠った勝手場の女は、翌朝仕事にならないと部屋へ追い返された。女は双子を生んだ。イランイランを嗅がせると料理番の長の鼻がばかになってしまうと言って、以来勝手場で働く者たちはあまり近くを通りたがらない。
「あのブーゲンビリアを燃やすといい。きっと君の怒りという油をよく吸ってよく燃えるだろうよ」
「それで私は満足できるのかしら?」
「さあ。それは僕の知ったところじゃないね。だって僕は君じゃない」
「じゃあやってみるしかないわね」
彼女は目を細めて微笑んだ。長い睫毛が白い頬にひそやかに落とす影を青年は密かに気に入っていた。薄赤く色づいた唇よりも、艶々とした豊かな髪よりも、愛らしいと褒めそやされる顔立ちよりも、彼女の瞬きのたびにちいさな魚が泳いでいるように見えるその睫毛の影が何よりも好ましかった。青年がこのサンルームの藤椅子に腰掛ける理由は、一つは珍しい紅茶がいつも出ること、そしてもう一つは彼女の微細な部分が作り出す影を眺めることができるからだった。
彼女は立ち上がり、マッチ箱を手にとった。一本を取り出して箱の側面で何度か擦るうちにぽっきりと柄が折れてしまう。それを床に捨てて新たに一本を取り出す。箱の中身が尽きるまで彼女はそれを繰り返し、木パネルがタイル状に敷き詰められた床には折れたマッチ棒がピンク色の小さな靴を囲むように散らばっていた。
「ああ、だめね。私、ライターを取ってくるわ」
彼女は青年の返事も聞かずに靴音を高く鳴らしながら扉を開けて出ていった。彼女が床を踏み、その下でマッチ棒が擦れ合い、火花が弾ける音に彼は目を閉じて聞き入っていた。
「君の怒りはいつまでも満たされないね。君は怒ることで生きているのだから」
温室は毎日夜になると磨き油でうつくしい艶めきを取り戻す。靴の下で土汚れを受け止める床も例外ではなかった。折れたマッチの遺骸の山が小さな火達磨を生み出し、床を蛇のように這い、温室の木枠を舐め上げる。青年は冷たくなった紅茶をすべて飲み干した。紅茶が元の温かさを取り戻すまでに青年の気管が爛れてしまうだろうと思ったからだった。革の爪先が踊る炎とタップダンスを楽しむ音は爆ぜる火の花の中に埋もれてしまう。膝上の文庫本の表紙は熱に煽られて徐々に変形していく。頬を炙られるのは、まるで初恋のようであった。
青年は藤椅子に深く腰掛けたまま、蜃気楼でゆらめく赤い花の群れをぼんやりと眺めた。どうしてだか、温室の周りにはいつも赤い花ばかりが植わっていた。ブルーデージーかラベンダーがあれば、きっと青年は安らかな午睡を得られたはずだが、一度たりとも見ることはなかった。
「おめでとう。可哀想に。そのことを知った時が君の絶望の始まりで、君という人間の誕生日だ。幸せに生きるには、頭を止めて気が付かないことだ」
そして僕たちはみんな同じ生き物だ。
燃えるレースカーテンが青年に向かって泣く女のようにゆらりと伸びる。彼はそれを見上げて微笑んだ。
青い花を植えようと言い出さなかったことが彼の致命傷だった
炎の腕に抱かれて、幸いにも心臓を燃やす寸前、彼はようやくそのことを悟ったのだった。
花癇 幕間慶 @qF7tBz
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