星撃ちて

幕間慶

星撃ちて

 人の頭の上には星が在る。

 無数の星々が、それよりも少ない無数の人々の頭のずっとずっと上に在る。人間なんてぽこぽこ死んでぽこぽこ生まれる、けれども無数なんて言ってみたって数えられるのだから有限である。ふらっとコンビニに買い物に出た夜道で見上げた夜空の星なんて見えるものはごくごく少なくって、よほど人間の方が多く思えたりするけれど、それでも多分事実としては星の方が人間なんかよりずっと多くて、無限とは言わないけれども数え切れない無数なのだ。宇宙の端はどんどん広がり続けていて、星もどんどん生み出されていると聞いたことがある。そのまた逆も聞いたことがある。誰も確かめようがないのなら、一番賢そうで夢のある話を本当だと信じていたくなるものだ。

 だから、星も人も無数で、星は人よりもずっと多い。星はまだまだ人を受け入れられる。

 きっと星が人の数よりも少なくなったときが、人がじっくりゆっくりと滅び始めるときなのだ。

 星と人は結びついている。


 病院の庭には沢山のベッドが並べられている。雨や陽避けの屋根もあるし、風避けもあるし、夏には大型扇風機が、冬には工場用の電気ストーブが幾つもベッドの間に並び立つ。天気の良い五月晴れの陽など、清潔な白いシーツがぴんと張られたベッドが芝生の上にずらりとあって、その上で寝ている人や見舞いの人がいて、幼い頃は日光浴ができる楽しいところだと思っていた。高台を走る電車の窓からそれを見下ろして、私も彼処に行きたい、と母に言った気がする。私たちは祖母の病院へ見舞いに行くところだった。

 母は私の手を繋いだまま、そんなこと言うんじゃないと小声で叱った。電車は緩やかなカーブを曲がろうとしていて、少し車体が傾いた。私は母がそう言った理由を斜めになった空を透かす窓の向こうに悟る。空高くから、雲の間を真っ直ぐに光の線が貫き落ちてくるのを見た。雷よりも静かでゆっくりとした、けれど絶対の眩い光線。それが私がさっき指差した日向ぼっこの右端の辺りへすとん、と突き刺さった。あれは日向ぼっこなんかじゃなかった。星が自分の運命を探しやすいように、そしてみだりに病室の窓やら壁やらを壊されないように、もうじきに死ぬだろうという患者を外へ並べていたのだ。

 星の矢は大きな街ほどよく降り注ぐ。ぱらぱら、ぱらぱら、少し高いところから眺めていれば、小さな子供が強く握って砕いてしまったクッキーの欠片を指の隙間から零すように、星は降ってくる。

 自分が降るべき場所を目指して真っ直ぐに線を引いて落ちてくる。落ちてきたらもう逃げられない。自分の頭を粉々に砕いてしまうそれをただ待つしかないのだ。泣いたって喚いたって怒ったって叫んだって笑ったって別にいい、誰にも咎められやしない。どうせすぐに星と一緒に砕けてしまうのだから。

 その昔、天罰、という言葉があったらしい。

 古語辞典なるものを引くと載っている。「天のくだす刑罰」とある。はて、星のことだろうか、と初めてその言葉を読んだ私は思った。けれど星は罰ではない。人が死ぬ為に落ちてくる、ただそれだけなのだから、盗みをたくさん働いても、会社の金を横領しても、それを理由に星が降ることはない。たとえ人を殺そうとしたって、星が降るのは殺される側にだけだ。此の時、私はまだ知らなかったのだ。はるか昔、星が人に降ることがなかった時代のことを。人が星以外によって死ぬことができた時代のことを。

 人にはその人の星がある。その人だけの星だ。人がその星の為に生まれるのか、星がその人を選ぶのかはわからない。確かなのは、その星が燃えて落ちてくるとき、その人の生命も共に終わるということ。それはもう決まったことなのだ。色々な人たちが色々な方法を必死で考えて、足掻いて、けれども最後には星が降ってきた。もうとっくに根付いて久しい当たり前のことだ。空に星が輝く限り生きている人がいて、生きている人がいる限り星は遥か遠い空でじっとその時を待っている。

 人が星以外のことで死ぬ時代があったなんて、想像ができない。包丁で刺された傷から血溜まりが緩やかに広がっていくのを眺めながらじっくりと死に、トラックに撥ねられ吹っ飛んで落ちたアスファルトでぐしゃっと死に、銃で頭の真ん中を撃ち抜かれたらずどんと死に、投薬をやめた病院のベッドの上ですうっと死ぬ。そういう時代があったと聞く。どんな人の体も星によって金平糖みたいな欠片になって消えたりしない、冷たく重たい、その人の形のまま、ただ息をしなくなっただけの物になるなんて、私は見たことがない。星に当たればその人は五分もすれば金平糖みたいに砕けて、さらさらと跡形もなくなり、風に紛れて消えてしまうのに。デスクで心臓発作を起こしたサラリーマンの書類は、十五分後にはあーあとため息をつく事務の子が回収してゆく。「急に死なないでほしいよね、仕事回すのこっちなんだから」「窓も割れちゃったねえ」なんて会話の合間を、星と一体になってさらさらと崩れたサラリーマンが通り抜け、通風孔や割れた窓から世界へ放たれていく。

 二年ほど前だったか、こういった人の死と星の落下がまったく無関係だった時代の頃の記録がまた一つ見つかったとニュースになっていた。それは学術的というよりも他愛のない当時の歓楽の一つを示したものだったけれど、なんとその時代、星が降ることは人々を喜ばせていたのだという。流れ星、といって、空に星が尾を引くときに願い事を三回唱えれば叶うだとか。流星群、といって、星が沢山降る夜はわざわざ山のてっぺんの冷たい空気の中でそれを「綺麗だね」と微笑み合いながら見ていただとか。

 皆々とても驚き、理解できないと首を振り、恐ろしいことよと慄いた。

 流星群だなんて、それは私達にしてみれば人がたくさん、たくさん死ぬと言うこと以外のなにものでもない。不吉の象徴。あの中に己の星が交じっていないことを手を硬く握りしめ、目を血走らせながら祈るのだ。争うほど、疫病が流行るほど、飢えが広まるほどに星は次々に忙しなく降り注ぐ。

 私が生まれる少し前、遠い国境線で一晩中、大きな組織同士がぶつかりあった事件があった。そこに夜は無かった。絶えず星が落ちてゆく。国境のあちら側とこちら側へ、数え切れないほどの星が途切れることなく降ってきて、その星の明るさで空は一夜の間ずっと明るかった。星光の白い夜に人々は恐れ怯えた。私もその映像を見たことがあるけれども、悪夢というに相応しい。

 星は自分の運命を間違えない。

 天から下る運命の糸だ。これもまた昔、それこそ「天罰」という言葉が使われていた頃に書かれた小説を読んだことがある。天から蜘蛛の糸が地獄へ垂らされる話だった。それは極楽への救いの糸だったのだけれど、結局人間の強欲、そして狭量によって糸は切れてしまい、亡者は再び地獄へ堕ちてしまう。その光景を想像して、私は、この作者はもしかして未来を知っていたのだろうか、と思った。でも私たちに降る糸は絶対に切れない。むしろ私たちは糸が途切れることを切望しているけれど、光の糸は絶対に狙いを外さないし、そうなったら最後、星と共に砕けるしかない。百発百中だ。

 いつか私たちの前にお釈迦様みたいな人が現れるとしたら、それは私たちに星ではない、普通の死を齎してくれる人だ。首を絞めたり、心臓を刺したり、頭を潰したり、水に溺れさせたり、毒を飲ませたり、全身の骨を折ったり、ガスを振り撒いたり、致死率百パーセントの病に冒されたり、何だっていい、星以外のことで死ねるなら、何だっていい。星が降らないままに、冷たく重たい、その人の形のまま、ただ息をしなくなっただけの物になりたい。自分が跡形も残らないなんて、嫌だ。

 私が生きたってことがすべて消えてしまうなんて、嫌だ。

 私たちはもうずっと、遥か天遠いところに輝く運命という絶望に疲弊して、うんざりしているのだ。

 星なんて触れたこともないものに私を握られて堪るものか。私は私である為に生きて、私が死ぬべき時に私のままに死にたいのだ。私は私、いつだってそう叫びたい。実際は夜空の奥深くから虚ろに私を見張っている、どれかもわからないちっぽけな光に情けなく縮こまっている、けれども、背をぐっと反らして、臆病を吹き飛ばして、ちかちか瞬く運命を嘲笑ってやりたいのだ。

 ざまあみろ、私は私、一人で死ぬぞ! と。

 星は勝手に燃えて、いつかたった一人で何処にでも落ちてしまえばいい。

 私たちを在るがままに死なせてくれる存在が現れたらと、包丁の背を撫でながら願って止まない。そうやって、何かに頼ろうとしている私自身の脆弱さが恥ずかしくてたまらなくて、死んでしまいたくなるけれども、今星を降らせるわけにはいかないから、死ねない。

 星が降らないいつかの日に死ぬ為に、今は死なない。

 生きている間だけは、私が私で在れるのだ。

 いつか私のままに死ねる日が来るまで、私は私の為に生きるのだ。

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