第15話・聖女と騎士と竜にまつわるてんまつ・2


 森からやってきた、とんでもないまいごが砦を揺るがせた次の日のこと。


「またここか」

 しおり代わりの紙切れをいくつもはさんだ本を広げ、苦い顔で腕を組み何やら考え事をしているギルバートの姿に、レオは呆れかえる。

 一昨日こしらえられたたんこぶの借りを返そうと、練習用の剣を手に昼下がりの書庫へと乗り込んだ少年の足元では、いずれ母の名を継ぎ深き緑の玉座に登るであろう白銀の姫君が、尻尾を振りながら愛する許婚に付き添っている。

 修道士じゃあるまいし、何が悲しくてじっと座って本なんか読まなくちゃならないんだと公言しては、そのつど爺やを嘆かせてばかりいたものだが。武芸の稽古と乗馬と遊びにばかり明け暮れていたわがまま侯子も、近頃は大いに方針の転換を迫られつつあるようだ。

「ギルバート、お弁当です」

 端に薄紅色のリボンを結んだ籠を手にしたダウフトが、中庭に続く入り口から顔をのぞかせて、騎士が座す席まで近づいてゆく。うかつに近づいたばかりに、読書中の男から返り討ちにあった異形はレオが数えるだけでも両手の指に達しようとしていたが、さすがにみずからが守りを務める娘を魔物と見誤ることはないらしい。

「パンにチーズ」

 何やら気になった記述でもあったのか、紙面にペンを走らせながら応じたギルバートに、

「はい、どうぞ」

 じつに手際よく、騎士が求めたものをこしらえて手渡す村娘。短い礼とともに一口パンをかじった騎士が、何か気づいたのか漆黒のまなざしをダウフトへと向ける。

「チェダーのチーズです。ギルバート、好きでしょう」

 嬉しそうに話すダウフトに、ああと一言だけ応じたものの。黒髪の騎士はどうにもきまりの悪そうな顔で食事を進めていく。そんなに詰めこまなくてもと言いながら、ダウフトがあたたかなスープなぞ差し出すさまときたら、妙にほんわかとした雰囲気をかもし出していたものだから。

 こほんとひとつ―傍目にはたいそう大きな―咳払いをして、レオはずかずかと閲覧席へと足を踏み入れた。

「いらっしゃい、レオ」

 少年の姿を見とめたダウフトが、いっしょに食べませんかと笑いかけてくる。

「そうする」

 ちょうど空腹だったしなと素直に応じると、わがまま侯子は自分を一瞥したギルバートにはおかまいなしにダウフトのそばへ陣取った。その際、あたりをさっと見まわしたのは、どうやらレネを警戒してのことらしい。

 血筋をたどれば、いにしえの王家にも父祖の名をつらねるデュフレーヌ侯家。その唯一の世継ぎたるレオからみれば、町の子供たちに読み書きを教え日々の糧を得るような貧乏貴族の娘など、取るに足らぬ存在であるはずなのだが。

 世事にはとんと疎い父を支え、幼い弟たちの母親代わりとなってきた金髪娘のたくましさを前になすすべのない若君を見て、ありゃ間違いなく<狼>のならわしに従うなと、周りの大人たちからは早くも悲観的な見通しがあがっている。くらき理に息づくものに臆することを知らぬ男たちも、思い人や細君の尻に敷かれてはどうにも抗えぬものであるらしい。

 そんなことはつゆ知らず、魔物よりも怖ろしい娘がいないことにほっと安堵の息をついたレオに、ダウフトが微笑みかけた。

「何にしましょうか。おいしいハムもありますし、黒すぐりのジャムも」

「木いちごのやつがいい。この間、ダウフトが作っただろう」

 もちろん、パンは白パンだぞとわがままぶりを遺憾なく発揮する若君に、くすくすと笑いながら村娘は望み通りのものを差し出す。

 それを見て、わたしもいるのにとさみしそうに鼻を鳴らした仔狼だったが。ギルバートが黙って差し出した鶏の焙り肉にたちまち目を輝かせ、遠慮なしにかじりついている。

「よかった。木いちごのジャムはこれでおしまいです」

「なんだ、もうないのか」

 不服そうに応じたとき、壺ごと食らいそうな奴がいたなという淡々とした声を耳にして。じろりとレオが睨み返した先では、エクセターのギルバートが涼しい顔で素焼きの杯を傾けている。

「こんどは壺三つぶんくらい作ってもいいぞ、ダウフト」

「あら、全部レオが食べてくれるんですか」

「材料は自分で調達してくるそうだ」

 腕によりをかけなくちゃと張り切る村娘と、容赦のない言葉を放つ騎士のまた何と対照的であることか。

「デュフレーヌの果物は最高なんだぞ」

 林檎以外はと心でつけ足して、レオはたっぷりとジャムをはさんだパンにかぶりついた。口いっぱいに広がる甘酸っぱい味わいを堪能しながら、黄金のとねりこが誇る豊かな実りの数々を、いかに早く砦に届けさせようかと頭をめぐらせる。

 木いちごに黒すぐり、梨に杏に葡萄に桃にまるめろ。彩りにあふれたみずみずしい果物たちは、きっとダウフトも気に入ることだろう。そういえば、海を臨むまちシシリーのオレンジが祖母から届けられたとき、奥方とダウフトとアネットがたいそう喜んでいたことを思いだし、あれも用意させようと決めたときだ。

「ギルバート、育児書には何て書いてあったんですか」

 ダウフトの口から飛び出した、信じがたいことばにパンを詰まらせる。

「甘やかしすぎず、厳しすぎずだ」

 仏頂面で応じたギルバートを凝視しながら、スープの注がれた杯を手に取り中身を一気に口へ流し込んだ。

 どうにか窒息の危機を免れたわがまま侯子が面を上げてみれば、村娘と騎士は、広げた本をはさんで何やら話しこんでいるではないか。

「結局、リシャールの持ってきた本がいちばん分かりやすかった」

 それをあやつに言うのも癪だとぼやくギルバートを、いい本を薦めてもらったんですからとダウフトが諭している。何なんだ育児書ってと喉元まで出かけた少年の叫びは、続く村娘のことばに打ち砕かれた。

「きっとやんちゃな子になります。いたずらはほどほどにするようにしつけておかないと」

「まずは火の始末と、力加減だな」

 下手をしたらしつけも命がけになると渋面をつくった騎士を、ほんのちょっぴり睨みながらダウフトが釘を刺す。

「喧嘩のしかたなんて教えないでくださいね、ギルバート」

「言っただろう。力ふるうことの意味を、身を以て伝えるのがエクセターのやりかただと」

 エイリイの裔は、代々そうしてきたんだと主張する北の騎士だったが。綴り名にいのちを託せし南東のオード、その最後の娘も譲らない。

「女の子だったらどうするんですか。わたしは絶対に、アネットの二の舞になんてさせませんから」

 いじめられっ子のちびすけを、砦いちのお転婆へと変貌させた騒ぎを口にした娘に、まだどちらかも分からないだろうと騎士はやり返す。

「力をふるうことに男も女も関係があるか。あれが本気で暴れたら、半刻ともたずに砦が全壊するぞ」

 ギルバートが口にした言葉など、聞いてはいなかった。

 男か女かって、アネットの二の舞ってと、生きながら塩の柱と化したレグニツァの住人のごとく硬直したレオの青い眼が、机に広げられている本へととまった。

「……名前のつけかた」

 つらねられた文章を目で追っていくうちに、いくつもの言葉が書きとめられた紙片へとたどり着く。

 白いタンウェン太陽エオル――古き王国のみやびやかなことばを残すデュフレーヌにはない、どこか遠い響きを宿した北の古語をしばし呟いて。


「あ、あの。レオ?」

「早まるな、ダウフト」

 緑の瞳を丸くする村娘の手をしっかと握りしめ、とねりこ舘のわがまま侯子は身を乗り出さんばかりにしてことばを続ける。

「お祖父さまのお気に入りに、アンリという騎士がいるんだ。格好いいし洗練されているし女の子にもやさしいし、叔母さまがたや館の侍女たちからも人気がある」

「きっと、リシャールさまみたいな方ですね」

 感心するダウフトに、そうじゃなくてとレオは言いつのる。南の宮廷とも称されるとねりこ舘で、貴婦人たちの心をときめかせている評判の美丈夫も、村娘にはいまひとつぴんとこないらしかった。

「デュフレーヌのほうがオードには近いんだぞ」

「ええ。広いデュフレーヌの端っこに、オードがちょこんと乗っているようなものだとガスパールさまが」

 はじめて地図を見せてもらいましたと、どこまでものんきな村娘のいらえにたまりかねて、違うとレオは叫ぶ。

「いくさが終わったら、お祖父さまにお願いしてダウフトが住める家を探してやる。何も好きこのんで」

 遠くて寒いうえに、林檎と羊と雪しかないようなエクセターなんかに。そう言いかけたレオの、くるりときれいなくせを描く金髪にめり込んだのは本の角だった。

「何をするッ」

 涙目でわめくレオを、『沈黙は金』なる本を手にしたギルバートがやかましいと睨む。

「ヘンリーだ何だと、騒ぐなら出て行け」

 よくもまあ、ぬけぬけと言えたものだこの男は。今このときほど、せめて自分がダウフトと同じ歳かすこし上―ついでに身の丈も―であればよかったのにと思ったことはない。

「よく考えた方がいいぞ、ダウフト」

「ええと、家をですか?」

 わかっていない。ダウフトはちっとも分かっていない。

 村娘のいらえは、わがまま侯子を苦悶させるばかり。エクセター卿の無愛想にいつもがっかりしてばかりいるじゃないかと思いながらも、当の朴念仁がダウフトにとって、何人にも代えられぬ守りであることもまた事実。それが少年には、たいそう腹に据えかねることではあったのだけれど。

「だから、エクセター卿に」

 真面目なだけがとりえの、がちがちのかぼちゃ頭なんかの所にと言いかけたレオのまなざしが窓辺に釘づけになる。


「まあ、エフィル」

 ふわりと笑いかけたダウフトに、甘えるようにみぎゃと鳴いたのは大きな緑の顔――竜の仔だった。

「お昼寝はおしまいなのね」

 椅子から立ち上がり、窓辺へと近づいたダウフトにやさしく撫でられて、幼い聖獣は嬉しそうに目を細める。鶏肉との格闘に勝利を収めた森の姫君も、仲良しの来訪に歓迎の一声をあげてそばへと駆け寄って行く。

「でかぶつ」

 思わず呟いたレオを、でかぶつじゃありませんとダウフトはかるく睨む。

「エフィルって名前があるんですから。ちゃんと呼んであげてください」

 南では、春を意味することばを耳にして。このごつい奴がかと、雄牛ほどもある仔竜を胡乱げに見つめ、

「……緑色だから?」

 単純だと呟いたレオに、ご名答と応じる声がした。見ればギルバートが、北の古語を綴った紙を手に不本意そうな表情を浮かべている。

「生命の息吹あふるる、緑萌ゆる春という思いつきはいい。だが俺には、どうも女の子の名前にしか聞こえん」

 仮にも聖獣なのだから、もう少し威厳というものをとぼやいた騎士に、いいんですとダウフトは頬を膨らませる。

「ギルバートの考えた名前は、どれも大げさすぎます」

「大げさなものか。エクセターの古語から取った由緒正しい名前だぞ」

 ちび竜だの、かわいい緑ちゃんだのでかぶつだの。砦の皆がそれぞれ呼びたいように呼ぶものだから、森から来たまいごは自分の名前がたくさんあると思いこんで、たいそう戸惑っていたらしい。

「そら、親としての最初の務めだぞ」

 からかってきたサイモンを三秒で沈黙させた後、黒髪の騎士は育児書を広げるかたわらで、仔竜の名前をあれこれと考えていたというわけだ。

「おぬしがエフィルと呼ぶから、すっかりその気になっている」

 男だったらどうするとぼやいた騎士に、いいんですとダウフトはあくまでも己が主張を貫くかまえを見せる。

「オードでは、男の子にだってつける名前なんですから」

 堅物男の理屈など、村娘にはまるで通用せぬらしい。ねえエフィルと笑いかけられて、幼い竜は嬉しげに太い尻尾をびしびしと石の壁に叩きつけている。あれで横っ面なぞ張られたら、人間ごときはひとたまりもないだろう。

「つまり、その」

 しつけとか火加減とか、男か女かとか。村娘と騎士が繰り広げていた驚天動地の会話は、すべてこの大きなちびすけを指していたというわけで。

 言いしれぬ脱力感に襲われて椅子にへたり込んだレオを、あら大変とダウフトがのぞきこむ。

「疲れに効くお茶をもらってきましょうか、レオ」

「いやダウフト」

 そうじゃなくてと留める間もなしに、村娘は軽やかな足どりで書庫から出て行こうとする。どこへ行っちゃうのとばかりに鳴いた仔竜に、エフィルのご飯を持ってきてあげますと明るい声が返ってきた。

「今日こそ人参を食べてもらいます。残したらだめですよ」

 嫌いな野菜の名を耳にして、仔竜はいやいやと首を横に振る。だが、いつもならばやさしく撫でたり抱きしめてくれる娘は、どういうわけか今日に限ってちょっと厳しかったりする。

「好き嫌いなんかしていたら、りっぱな竜にはなれませんよ。レオも」

 くるりと振り向いた村娘の、真摯なまなざしに思わず姿勢を正す。

「エフィルと一緒に人参を食べましょう。きっと疲れも取れます」

「嫌だっ」

 即答とともに、椅子ごとすばやく後ずさった。どうして僕にでかぶつのとばっちりが向くんだと言いかけたとき、視界の端に心底呆れかえっているギルバートの姿が映った。

「伸びんぞ」

 あっさりと、ひそかな禁忌に触れられて、

「背なんか高ければいいってもんじゃないッ」

 激昂したレオに賛同するかのように、仔竜の叫びがしばらく書庫じゅうを満たしたものの。

「まあ、セレスは好き嫌いなんてしないのに」

「もともと肉しか食べないじゃないか、セレスは」

「いいえ、ちゃんと人参も南瓜も食べています」

 お腹の調子が良くなるからと、アネットがゆでた野菜をあげているんですと言い切ったダウフトに、もはや抗うすべなどありはしなかった。


「決めました。ノリスさんにお願いして、当分レオとエフィルのおかずは人参づくしにします」

 村娘の宣言に、いやだそんな仕打ちはとそろって泣き崩れたわがまま侯子と幼い聖獣の姿に、

「……エクセターでなくてよかった」

 まん丸い金の双眸で自分を見上げて、尻尾を振ってくる狼姫にぼそりと呟いて。黒髪の騎士は、どうやら日の目を見そうにもない名前の数々を綴った紙を、そっと本の間にはさむのだった。

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