第11話 緑なす 梢のむこうに・6



 広く深い緑の森を、ほんの少しだけ揺るがした騒ぎから二日のちのこと。


「今年は、皆ずいぶんと張り切りましたこと」

 あたりに漂うこころよい香りの中、手伝いそっちのけでおしゃべりに興じる娘たちにやんわりと注意を与えながら、いくつもの籠を満たす森の恵みに奥方イズーは満足げにうなずく。

 戦い済んで日が暮れて、長い冬にたまった鬱屈とか能天気な部下たちにそこはかとなく感じる苦悩とか、情知らずの娘に逃げられたやるせなさだとかを魔物相手に思う存分晴らした猛者たちが引き上げてきた後。奥方や古参の侍女たちの指揮のもと、砦じゅうの婦人が総出でジェムベリーや香草の仕込みにいそしむことになった。

施療院せりょういんへ寄付するものはこちらへ。薬にするものはイドリス殿へ届けなさい」

 ジャムに蜜漬けに乾果、貴重な漿果を少しでも長く保たせるための方法は数あれど、それでも紅くあまい彩りはなお余るほどだ。もしかすると、今年は砦に住まう者たちすべてにベリーの恩恵が行き渡るかもしれない。

「これならば、ノリスも腕の振るいがいがありましょう」

 ひときわ大きな一粒を手に取って、奥方は微笑む。厨房をあずかる男が、みずから仕込んだ最高のパイ生地を前に、奇跡の果実がやってくるのを待ち受けていたことを思い出したからだ。

「厨房からは、それはもう香ばしい匂いがしておりますわ。奥方さま」

「わたくしたち、さっきまでダウフトさまと一緒に焼き上がりを待っておりましたのに」

 そう言いながらも、何かを思い出したらしいレネとマリーがそろって笑い出す。何かあったのですかと問うた奥方に、

「あと少しというところで、エクセター卿がお見えになったのです」

「子供じみたことをするなと呆れられて、そのままダウフトさまを引きずっていっておしまいになられました」

 相変わらずのご様子ですわと呆れる娘たちに、どうやらそちらの収穫はまるでなしであったらしいと知って砦の母は溜息をつく。

「せっかくの好機に、何とふがいないこと」

 立ちはだかる敵を容赦なく噛み裂く狼の牙も、咲き初めたばかりのやさしき野の花にはまるで形無しであるらしい。いちおう奮闘しようとしたものの、種々の事情により涙を呑むはめになった若い騎士のてんまつを知らぬせいもあったのだが――我が息子ならば決して砦の門をくぐらせぬものをと、奥方はやきもきせずにいられない。

「花に惹かれて、集うてくる者とておりましょうに」

 ランスの若き市長からは月ごとに、剣抱く聖女への熱烈な崇拝ぶりを綴った手紙がしゃれた贈り物とともに砦へ届けられてくる。今はやんちゃばかりが目立つとねりこの侯子とて、五、六年も経てば十九、二十歳の若武者だ。知らぬは狼ばかりなりというわけだが、唯一の救いときたら、当の花が狼のほうへとそよいでいることくらいだろうか。

「誰ぞが花に近づいても、花がそよぐ向きを変えても心安くはないものを」

 ならば昔日の我が殿のようにかたく腕に抱えてと呟きかけ、奥方はきょとんとして自分を見つめている娘たちに気がついた。

「な、何でもありませんよ」

 歳を取ると、独り言が多くなっていけませぬと上品に笑ってみせる。花とか狼とか何のお話ですかと問うてくるレネに、さあさおしゃべりもよいけれど、日が暮れぬうちに手も動かすのですよと奥方は慌てて娘たちを促すのだった。



              ◆ ◆ ◆



「ああ、またかッ」

 <狼>たちの詰所、ぼろぼろに噛まれた革手袋を手にした騎士の声が響き渡る。

「何事だ」

 自慢の戦斧を振り回し、魔物たちを心ゆくまでなぎ倒したまではよかったが。興味深い騒動の数々を見逃したと知り、たいそう悔しがったウルリックに事の次第を詳しく――ただし、彼なりの解釈と脚色をたっぷりと加えて語っていたリシャールが、小さな災厄に見舞われた仲間の一人を見やり、気の毒そうに呟いた。

「クロードで五人目か」

「五人目?」

 怪訝そうな顔をする髭面の巨漢に、いいから見てみろと琥珀の騎士は促す。

「おい坊主、許嫁のしつけくらいちゃんとしておけ」

 石畳に寝そべって、誰かの靴を噛んでいた月牙狼の仔を、手袋の持ち主たる騎士が呆れた顔で抱え上げてみせた。夢中になって遊んでいた所を、無理やりおもちゃから引き離された仔狼は不満げに鼻を鳴らす。

「だれが許嫁だッ」

 左頬にぺたりと貼られた膏薬と、己の失言が招いた金髪娘の報復もまだ鮮やかに顔へ残したまま、憤然と振り返ったのはレオだ。

 ひとたび動けば騒ぎを起こすと評判のわがまま侯子が、魔物のおやつになりかけていた子犬を拾ってきたことは、その日のうちに砦じゅうに知れ渡ることになった。

 森への畏れを抱く者たちに動揺が広がることを懸念して、白い仔の正体については騎士団長により箝口令が敷かれたものの、はてさてどうはなしが混ざりあったものやら。わがまま侯子が狼を嫁にする気らしいという噂が、城壁に立つ兵士から砦じゅうを駆け回る子供たちにまで広がっていると知り椅子から転げ落ちた少年は、事実無根を訴えるべく奔走しているというわけだ。

「何言ってやがる。あんな獲物、じいさんの土地でもそうそうお目にかかれんだろうに」

 幼い我が子をレオに託した、女王シルヴィアからの贈り物はそれはみごとな一頭の牡鹿。エーグモルトの同業たちも、こんな逸品を大公さまにお出ししたことはありますまいと、料理人の血を沸き立たせたノリスが包丁をぎらつかせて嬉しそうな笑みを見せたものだ。今晩あたり、<狼>たちの食卓を彩るであろう肉料理のいちばん美味なところを、婿殿候補に供してやるがよいと騎士団長までもが言い出す始末だ。

「姫君を泣かせてみろ、魔物より怖い姑殿が森からがぶりと噛みつきにくるぞ」

「勝手にひとの姑にするなッ」

 だいたいジェフレ卿がいい加減なことをと言いかけて、愛する許婚の姿をみとめて嬉しげに尻尾を振った姫君にレオは呆れかえる。どこかで穴掘りでもしてきたらしく、鼻先から尻尾まですっかり真っ黒けというありさまだったからだ。

「ああ、きのうアネットに洗ってもらったばかりなのに」

 何やってるんだと、騎士の手から小さな身体を取り上げてレオは白い仔を軽く睨む。どうやら未来の戦乙女とも仲直りしたらしいと察して、リシャールはそっと安堵の笑みをうかべる。


 戦乙女たる者、いつまでもすねているものではありませんよと奥方やマリーたちに諭されて、森から戻ってきた一行をしぶしぶ出迎えたアネットだったが――兄ちゃんとは口を利かないという誓いは、じつにめざましいレオの姿にもろくも崩れ去ったらしい。

 わあわあと泣きながら少年にしがみついたアネットの目の前に、ひょっこりと現れたのはまん丸い金の月。ぽかんとする幼子に、おみやげと照れくさそうに呟いたレオが腕に抱えた白い仔を差し出してみせたというわけだ。

 セレスと名付けられ、レネご自慢のリボンからとっておきの一本を首に結んでもらったまではよかったが。ひとの王侯すらうらやむほどの、古く尊い血筋を引くやんごとなき身であらせられるというのに、森の姫君はアネットに勝るとも劣らぬおてんばであるようだ。

 手袋や革靴にベルト、果てはマントにサーコート。<狼>たちの詰所で、セレスの牙にかからぬものはなかったし、中庭へ薬草を摘みにやって来た若い学僧が、いつの間にか掘られていた穴に足をとられて見事に転び、助けを求めていたというはなしもあるくらいだ。

 ただ、向かうところ敵なしのやんちゃ姫にも怖いものはいるらしく――砦に来て早々に、灰青の毛並みもうるわしい雌猫ヘンルーダの洗礼を受けることになった。日だまりで優雅に寝そべっていた<厨房の貴婦人>に、加減を知らぬちょっかいを出そうとして手痛い一撃を叩き込まれたのだ。

 鼻に赤い三本線をこしらえた仔狼を抱き上げて、女の子なのにと呆れたダウフトに、痛みで分かることもあると応じたのは副団長だ。そこではしゃいだセレスが老騎士にじゃれついたのだが――威圧に満ちた一瞥を受けるやいなやマントの端から口を離し、尻尾を丸めてすごすごと引き下がっていった。どうやら幼いなりに、この世には決して逆らってはならない者がいることを学んだようだ。

 そんなこともあったものの、肝心のアネットとは日々篤い友情を培いつつあるらしい。

「アネットがレオ兄ちゃんのけらいになるんだから、セレスはアネットのけらいになるのよ」

 ひとの言葉を理解しているのかいないのか、元気よく鳴いてみせた仔狼へアネットはじゃあお手と命令する。傍目にはかわいい子犬と戯れる無邪気な幼子、その実は伝承の聖獣をしもべ扱いする怖いもの知らずという微笑ましい光景を前にして、とねりこの小僧よりも末恐ろしいかもしれんと年長の騎士たちが苦悩まじりに呟いたことは秘密にされている。


「いいか坊主、女房というのは最初が肝心だぞ。でないとああなる」

 手袋の件を一時忘れて、騎士は真剣な面持ちで離れた所を指してみせる。言われるままにレオが目を向けてみれば、そこにはウォリックのサイモンの姿があった。死地に赴くかのような表情で行ってくると告げた彼に、仲間たちが代わる代わる背や肩を叩いて励ましている。

「ロザリー殿の薫陶を、しっかり刻んでくるんだな。いや身体か」

「何なら、膏薬をそろえておいてやろうか? 医務室の寝台も開けておくぞ」

 <狼と牝鹿>亭のエリサ、酒場の美人女将をサイモンが熱く口説いていたというはなしをパン屋の跡取り娘が耳にしたのが七日前。砦の御用聞きに向かう徒弟に伝言を託し、後で自らの許へ出頭するようにと西の騎士に厳命を下したのが教練の前日というわけだ。リャザンに産する火酒ヴォトカよりも強烈だという町娘の平手を、これからじっくりと堪能するであろう仲間の命運を思いやり、騎士たちがそれぞれに<母>への慈悲を請うしるしを切ったときだ。

「身から出た錆ってやつだろ、あれは」

 仲むつまじい父と母の姿を幼心にしっかりと焼きつけていたためか。それとも十四の齢ゆえ、男と女の機微というものにまだ疎いためか。率直きわまりないわがまま侯子の言葉にサイモンがくずれおれるさまを見て、あまり追いつめるなとリシャールはなだめる。

「そのうち、坊やも分かることだ。大目に見てやれ」

「ジェフレ卿ッ」

 <帰らずの森>で魔物の頭を相手どり、<狼>たらんとする者にふさわしき牙を閃かせてみたというのに。相変わらず子供扱いばかりしてくる琥珀の騎士に、レオが反論しようとしたときだ。

「まこと、ジェフレ卿の仰せの通りでございますぞ。若さま」

 厳しい声とともに、レオの前に立ったのはトマス爺だった。

「何がだ、爺」

「何が、ではございませぬ」

 たいそう苦い面持ちで、老人は若君を見やる。

「レネ殿からお聞きしましたぞ。仮にもうら若き乙女御に向かって、じゃじゃ馬とは何たる申されようでありますことか」

 栄えある黄金のとねりこを継がれる身にあるまじきおふるまい、もはや黙っているわけには参りませぬと息巻く爺やに、あいつの鼻息が荒いのは事実だぞと返しかけたレオだったが、お黙りなされいとの一喝に身をすくめる。

「亡きお父上とお母上がご覧になりましたら、何とお嘆きになることか。かくなる上は、ご婦人への気遣いというものを、ぜひジェフレ卿よりご教授賜らねば」

 唐突な老人の言葉に、さすがのリシャールも続く言葉を持たなかったらしい。

「い、いやトマス殿。それは」

「何とぞお願い申し上げまする、ジェフレのリシャール殿」

 皺深い顔にはらはらと涙を伝わせて、わがまま侯子に仕える老人は平身低頭する。

「どうか、やつがれ最後の頼みと思うてお聞き届けくださいますよう」

 いくさ場でも子守りとは難儀なことだな、とギルバートをからかった報いかこれは。そんな考えが騎士の頭をよぎる。

「いや、大抵のことはエクセターのギルバートが」

 遠回しなリシャールの断りにも、重々承知の上でございますとトマス爺は応じる。

「騎士たる者の心得につきましては、エクセター卿より篤い薫陶を賜っておりますれば。なれどダウフトさまへのおふるまいを拝見するかぎり、ただ一点に関してのみあの御仁は」

 ご老体にすら、堅物ぶりを案じられてどうするかぼちゃめが。八つ当たりだと分かってはいても、いまこの場にいない幼馴染の仏頂面に思いつく限りの言葉を並べ立てたくなってくる。

「さりとて、節度を欠いて御方さまの怒りを買ってばかりでは」

 悪評高いエノー伯のごとく、幾人もの妾を抱えた挙句にお子さまがたの跡目争いを招くようなことだけはと苦悩するトマス爺に、大きくうなずいたのはウルリックだった。

「適材適所というわけですな、トマス殿」

「ウルリック」

 思わず振り返ったリシャールに、よいではないかと鷹揚に笑ってみせると、<熊>殿はトマス爺へと向き直った。

「確かに、武芸と忍耐と子守りならギルバートが適任だが、ご婦人のことはこやつに任せたほうがはるかにましというもの」

「冗談ではないっ」

 子守りは一人で十分だとうなるリシャールだったが、半ば鬼気迫る老人の勢いに気圧されてつい椅子ごと後ずさる。

「デュフレーヌ家の御為に、どうか何とぞ」

「無茶いうな、爺」

 止めようとしたレオだったが、振り返った爺やの形相にセレスを抱きしめたまま立ちすくむ。

「そもそも、若さまの軽率がもとでかような噂が立ったのです。確かにたっときお血筋の姫なれど、狼を嫁になどと」

「だから嫁じゃないと言っているだろうがーッ」

 主従を中心に次第に広がってゆく騒ぎを、ぽかんと見つめる者に煽る者。

 ささジェフレ卿お返事を、いや子守りは俺の不得手で、何事も試して見るがよかろうにだからおぬしが口を出すなウルリックと人間たちが騒々しく言い合うさまを、面白い遊びだととらえたのか。わがまま侯子の腕に抱えられた白銀の仔は、嬉しそうに吠えてみせるのだった。



                 ◆ ◆ ◆



 砦の主塔、一階の奥にある執務室。

 重厚な樫の扉の両脇にたたずみ、入り口を守っていたふたりの兵士は、中から聞こえてきた哄笑にぎょっとする。はて、殿は何をなさっておいでなのかと顔を見合わせたものの、開けて確かめてみようという勇気は彼らにはない。

 なぜなら今は、ボウモアのナイジェル殿が教練の報告に訪れている。砦の鬼に平然と口答えをするどこかの小僧ではあるまいし、へたに騒いで雷でも落とされてはたまったものではない。

 扉の向こうから響いてくる、あるじの笑いはたいへん気になったものの――この際聞かなかったことにしようと互いにうなずきあうと、兵士たちは扉の前を通りかかっては、何事かと興味を示す小間使いや下働きの男たちに、あまり気にしないほうがいいぞと手振りで示すのだった。


「いやはや、難儀なことだったな。ナイジェル」

 どうにか収めようとしたものの、こらえきれずにまた肩を揺らした騎士団長に、笑っている場合かと苦虫を噛み潰したような顔で副団長は応じる。

「ひよこと子犬の世話を任された覚えはない」

 春がめぐるたびに行われてきた砦ならではの祝祭は、騒々しさのうちに幕を下ろすことになった。討ち取った魔物は大小あわせて二、三百頭ばかり。そのうちの十分の一ほどを、リキテンスタインのウルリックと彼愛用の戦斧が占めているのだが、

「卿の勲はかねがね存じあげておりますが、もう少し手加減というものを」

「ダウフトさまならともかく、我々があの方についていくのは並大抵のことでは」

 <熊>と魔物が繰り広げた肉弾戦の巻き添えを食って、あちこちに痣やたんこぶをこしらえた兵士たちからそろって陳情が寄せられた時には、一度は落ち着きを取り戻した胃の腑がふたたび悲鳴を上げはじめた。ジェムベリーと薬草に至っては十分といえる量を確保したまではよかったが、口だけは一丁前な騎士見習いが引き起こした騒動のために、教練に参加した年長の騎士たちがそろって疲労困憊するというありさまだ。

「ネヴィルが休暇を申し出ているぞ。今回の騒ぎで相当まいったようだ」

 およそ常識的な人となりのボース卿にとって、わがまま侯子のお守りは相当な重荷であったに違いない。まことイズー殿の仰せ通りと、疲れ果てた表情で奥方へ語っていた同僚をナイジェルは思い出す。

「おぬしや小僧と違って、ネヴィルは図太さというものを持ち合わせておらぬからな」

 鷹揚に答えると、<狼>たちの長は執務机に置かれたボース卿からの休暇願を受理する旨を署名する。

「エクセターはどうした。子守りはあれに任せたのではなかったのか」

 問いかけるヴァンサンに、若造がかの地の生まれということを失念しておったわとナイジェルは応じる。

「力ふるうことの意味を、剣とともに幼きものへ。偉大なる王を守りまいらせし戦乙女エイリイが裔だ」

 どうやら、デュフレーヌのレオが魔物の頭と一騎打ちを演じるはめになったのは、子守りの方針も一因であるらしい。なかなか、わがまま侯子のあしらい方を心得ておるではないかと<狼>たちの長はまた笑う。

「それはそうと、増員はいつ到着する」

 灰色の双眸を向けたナイジェルに、どうやらまた横槍が入りそうでなとヴァンサンは少しばかり眉をしかめてみせた。

「使者どもめ、はじめ五百名などと大風呂敷を広げおったくせに、実際は百名に足りるかどうかという所らしい。よほどおぬしらの足を引っ張りたい輩がおるようだと、アモーリ猊下にも呆れられたわ」

 その人徳でアーケヴにあまねく名を知られる老司教は、各地で魔物の脅威とじかに対峙する辺境伯や騎士たちと並ぶ<狼>の理解者だ。話にならんとうなる副団長に、まあ増員をよこしてもらえるだけでもましではないかと騎士団長は肩をすくめる。

「数が多いほど、身動きが取りにくくなろうし諍いも生じよう。下手をすればイグザムのように、町へ逃げ込んできた者たちを魔物どものただなかへ追い返すような真似をはじめかねんからな」

 鳴り物入りでエーグモルトから遣わされたものの、敗色濃い戦況に追いつめられた守備隊が、自分たちだけは生き延びようと身を守るすべも持たぬ者たちに始めた凄惨な仕打ちをヴァンサンは口にする。

 足手まといは出て行けと、泣き叫ぶ女子供や老人、病人たちを城門の外へと追いやろうとする者と、それを阻止しようと敵に見舞うはずだった剣や槍を同胞へ向けた者と。

 ひとがそのさがゆえにみずから数を減らしてゆくさまを、イグザムを包囲した魔族たちは冷ややかに見つめているだけでよかった。そうして機が熟した頃、ほとんど抵抗する者のいなくなった町へと軍を進めることで、かの地はたやすく彼らの手に落ちたのだから。

「この地を、イグザムの二の舞にするわけにはいかぬ」

 <帰らずの森>とふもとの町。あるじに棄てられ東へと流離った<狼>が、ようやく見いだした安住の地だ。

「儂の代でそのような事態を招いては、御旗のもとに生命を賭した先達がたに申し開きが立たぬからな」

 笑う老友に、何を格好つけているとナイジェルは呆れかえる。名だたる諸侯司教たちが、取りすましたうわべとは裏腹にさまざまな権謀術数を繰り広げる宮廷から、こやつを追い払ったのはある意味正しかったのかもしれんと思いながら。

「イグザム守備隊のごとく、民を見棄てた卑怯者の汚名を着るか。王都防衛に当たった名もなき男のごとく、ひそかに後の世に伝えられるか。どちらもおぬしの柄ではなかろう」

 せいぜいが、能天気な<狼>どもを率いるにふさわしいたわけ者と笑われるくらいがちょうど良いわとうそぶく友に、そやつと四十年も付き合ってきた大たわけは誰だとヴァンサンはやりかえす。更に応じようとした副団長の目が、執務机の上に散乱していた書きかけの手紙へととまった。

「イズー殿へか」

 今度は何をやったと問う友に、いや昨冬にシロスで催した狩りのことなのだがと、騎士団長はしどろもどろに説明を始める。

「アロルドめ、魔物退治に終わってしまったのがよほど口惜しかったようでな。翌々月に催す鹿狩りにエクセターを連れてこいと誘ってきおったわ」

 奴に目を留めた姫君がたから、相当にせがまれたようでなと笑おうとした<狼>の長だったが、

「おぬし、それをイズー殿に話したのか」

 冷徹な問いに、返ってきたのは重苦しい沈黙。しばしの後、こっくりとうなずいた騎士団長に、腐れ縁がまたも同じ失態をやらかしたことを副団長は悟る。

「何と仰せだ」

「……去年こぞの雪は、たいそう深うございましたわねと」

 よよと執務机に突っ伏した老友に、泣き崩れる暇があったら手紙を綴れとナイジェルは叱咤する。

「まずはアロルドに宛てろ。来月のランス出撃に備え、鹿狩りは丁重に辞退申し上げると」

「いや、儂は是が非でも参加を」

「おぬしなぞどうでもいい、エクセターの若造だッ」

 それともイズー殿からの三行半を選ぶかと、容赦のない友の言葉に鞭打たれ、あっ何ということをと返しながら<狼>たちの長は涙をぬぐいペンを手にとるのだった。



               ◆ ◆ ◆



「うわあ、すげえ」

 西の城壁に近い場所にしつらえられた厩舎のほど近く。親方夫婦が住まう小さな住まいの片隅で、ひとりの少年が歓声を上げた。

「聖人さまのお祭りだって、こんな菓子見たことないや」

 卵のプディングに、とろりと甘い洋梨の砂糖煮、乾果とスパイスをふんだんに練り込んだパン・デピス。卓に並べられた菓子の数々を目の当たりにして、寝台から身を乗り出さんばかりにはしゃぐモリスを、ほらまた熱が上がりますよとダウフトはそっとたしなめる。

 今だけは武骨ないくさ姿をすっかり解いて、年頃の娘らしい明るく清潔な装いに身を包んでいる。首筋のあたりでぷつりと切りそろえられた髪だけが他の娘たちと異なっていたが、それが逆に、うなじから鎖骨にかけての意外な優雅さを強調することを知るものは少ない。

「ジェムベリーのパイは少し待ってくださいね。モリスがもっと元気になったら、厨房からもらってきますから」

「本当」

「いいんですか、ダウフトさま」

 すまなそうに見つめてくる厩舎の親方に、大丈夫ですと剣抱く娘は笑う。

「ノリスさんとの約束も、ちゃんと果たしましたから」

 砦じゅうが教練の準備に慌ただしく駆け回っていた時に、突然寝込んだ馬丁見習いの子供。見舞いに何かおいしいものをと厨房を訪れ頼みこんだダウフトだったが――それなら籠一杯のジェムベリーと引き替えですよという料理長の条件をのむことになった。

 次から次へと巻き起こる騒動に一時はどうなることかと思ったが、何とかノリスを満足させるだけのベリーを届けることはできたようだ。丹念に仕込まれた菓子を前に、レオよりもずっと幼い少年がにこにこと嬉しそうにしているさまについ微笑みを誘われる。

「さあさ、はしゃぐのもいいけれど。あんたの仕事はまずこれだよ」

 恰幅のよいおかみが差し出した素焼きの杯、そこになみなみとたたえられた薬湯に一瞬だけ顔をしかめたモリスだったが、意を決したように杯を受け取って一気に中身を呑みほした。

「うう、苦い」

 でも効くとぼやく子供に、いい薬ほどまずいんだよとおかみは笑う。

「うちのおばあちゃんも、同じことを言っていました」

 笑って応じながら、そういえばサイモンさまが薬湯を飲んでひっくり返ったことがあったけれど、あれは何の効き目があったのかしらとダウフトはひそかに首を傾げる。

「さっさと病気を治すんだね。でなきゃ、お薬をくださった甲斐がないってもんさ」

 数日の間、熱にうなされていたモリスに薬湯を煎じたり、汗を拭いたりと看病を続けていたおかみはほっとした表情だ。戻ったら休んでいた分だけこき使うからなと言いながらも、どうやらおかみ以上に親方のほうが安心したらしい。

「奥方さまにお会いしたら、よくお礼を言っておくんだよ」

 いくさのため、親きょうだいとはぐれて砦に保護された子供たちに、奥方が何かと目をかけていることはダウフトも知っていた。

 馬泥棒の小僧など放っておけばよいのですと訴えた家令を、その口を閉じるかわたくしが縫うかのどちらかを選びなさいと黙らせると、貴婦人は供も連れずに薬草や衣類を携え厩舎を訪れたのだという。いかなる理由があろうとも、寄る辺なき子が辛い目に遭うのを見過ごすことができぬ砦の母君であったけれども――そこに、黒髪の騎士が深く沈めたかなしみと同じものを感じるのはなぜなのだろう。

「わかったかい、モリス」

 おかみの言葉に、わかったよと赤髪の子供は返事をする。

「ちゃんとギルバートさまにも言っておくからさ。大丈夫だって、おばちゃん」

 意外な言葉に目を丸くするダウフトに、えへへと子供は照れくさそうに笑ってみせる。

「この薬、ギルバートさまだろ。奥方さまがくれたものとはちょっと味が違ってるからさ」

「こら、モリス」

 ダウフトさまに向かって何て口のききかたをと睨む親方をそっととどめて、

「どうしてそう思ったんですか、モリス」

 聞かせてくださいと微笑みかけたダウフトに、簡単だよと馬丁見習いの子供は胸を張ってみせた。

「匂いがしたんだ」

「匂い?」

 これだよと、モリスが見せたのは一本の小枝だった。こころよい香りを放つそれは、少年へ菓子を届けようとした村娘に、まだ薬が要るだろうと言いながら森で騎士が摘み取った薬草と同じものだ。

「おとといの晩、ギルバートさまが厩舎に見えたんだ。親方と何かしゃべってたけど、俺うとうとしてたからよく聞こえなかったんだ」

 でもそのときに、この薬草の匂いがしたんだよと笑うモリスに、ダウフトはようやく昨日起きたささやかな不思議の正体を悟る。

 <帰らずの森>から戻った後、いくさ姿を解き、髪や身体についた汚れを落して安堵したせいだろうか。ギルバートから預った蔓編みの籠もそのままに、夕食もそこそこに寝入ってしまったのだ。

 ところが翌朝目覚めてみれば、ジェムベリーを潰さないようにとそっと添えられた薬草の束だけが籠からすっかりなくなっていた。どこに行ったのかとレネやマリーにたずねても、きっといたずら好きな妖精ピクシーの仕業ですわと、笑いながらはぐらかされてしまったのだ。


「俺、砦に来た理由が理由だろ。いっぱい恩返ししたいんだよ」

 馬泥棒たちの下っ端として砦へ潜りこんだものの、ブリューナクに振り落とされてひとり捕まったモリスは話す。

 たとえ子供であろうとも、盗みは厳罰に処するのが当世のやりかたではあったのだが、黒鹿毛のあるじの処断は少しばかり異なっていた。家令のアルトワなどはいまだにこの件で、何とまあ寛大な御仁であられることよとギルバートを皮肉ってさえいる。

「そりゃまだ、ブリューナクにはブラシもかけさせてもらえないけどさ。でもいつか、あいつが喜ぶような世話をしてやるんだ」

 意気込む少年に、半人前がえらそうな口をたたくんじゃねえと返しながらも、厩舎の親方はいつの間にか小さな見習いを誇らしく思いはじめているらしい。

「だったら、さっさと横になってしっかりとお休み。粥も残さずちゃんと食べるんだよ」

 あまいお菓子はその後だからねと告げるおかみに、はあいと返事をして馬丁見習いの子供は毛布にくるまった。それを機に親方とモリスへ暇を告げると、ダウフトはおかみの見送りを受けて戸口まで歩いていった。

「すみませんね、お二人に何のお礼もできなくて」

 頭を下げようとするおかみに、そんな必要はありませんとダウフトは首を横に振った。

「ギルバートは、モリスがしてくれることに気づいています。鞍がきれいに磨かれていたり、ブリューナクの調子をみて、いい餌をもらっていることも」

 あんまり顔には出しませんけれどと笑った娘に、あの方ももう少し愛想がおありならねえとつられておかみもうなずく。

「そうすれば、ダウフトさまだって嬉しいでしょうに」

「いえ、にこにこしているギルバートなんて想像もできませんから」

 言葉とは裏腹に、娘の表情が本音を物語っているさまを見て、それならダウフトさまが笑わせてさしあげればいいんですよとおかみはふくよかな身体を揺らす。

「アルトワの奴が、モリスのことでまだ嫌みったらしく騒いでますけどね。あたしゃあの方のなさったことは間違っちゃいないと思っていますよ」

「ロレッタさん」

 目を見張るダウフトに、馬たちの母親代わりをつとめる女はここだけの話ですよと右の人差し指を口元にあててみせる。

「そうでなきゃ、モリスがブリューナクの世話をしようと何度も藁の山から這いだしてくるわけがありませんもの」

 おかみの細く小さいまなざしに通うあたたかさに、なんだか自分がほめられたかのように嬉しさがこみ上げてくる。

「臍曲がりのピクシーですから」

「ピクシー?」

 きょとんとするおかみにいえ独り言ですと慌てて返し、ダウフトはまた来ますねと手を振って厩舎を後にした。流行りの歌を口ずさみながら、端に薄紅のリボンを結んだ籠を手にしばし歩き――主塔に通じる入り口にたたずむ者の姿に気づいて駆け寄っていく。

「お待たせしました、ギルバート」

 モリスがとても喜んでくれましたと、勢い込んで話そうとする娘をとどめて、

「菓子を届けるだけにしては、ずいぶんと時間を食ったようだな」

 相も変わらずにこりともしない黒髪の騎士に、ええちょっとだけと微笑んでみせる。

「ピクシーのはなしをしていました」

 薬草を引き取りに、婦人部屋まで訪ねてきたものの。籠の主がぐっすり眠り込んでいると知るや、あるじを起こさずに薬草だけを取ってきてはもらえまいかと、応対したレネやマリーに頼んでいたに違いないひねくれ者。

 こっそり厩舎を訪れて、親方とおかみに薬草を渡したまではよかったものの。部屋の隅にしつらえられた寝台でまどろんでいたモリスに、話し声を気づかれていたとは思ってもいないうっかり者。

「ひとに見つかるのは大嫌いなのに、肝心のところで間が抜けるみたいですね」

「何のことだ?」

 怪訝そうな顔をするギルバートがおかしくて、つい笑いだしてしまう。空になった蔓編みの籠からかすかにたちのぼる緑の残り香に、遠い日に幼かった彼へこの薬草のはなしをしたであろう亡きひとの姿をダウフトはそっと思い描く。いくさが終わったあかつきには、騎士が心からの笑みを見せてくれることを願いながら。


「ギルバート、もう一度厨房に行きましょう」

 きっとパイが焼けているころですと誘ったダウフトに、いや甘いものは別にと断りかけて、黒髪の騎士はふいに何かを言いたそうな顔をする。

「どうしたんですか?」

 案ずるダウフトから視線を逸らし、しばし逡巡したあとでようやく腹を決めたらしい。娘に向き直り、その姿を漆黒の双眸でとらえたギルバートに、もしかして新しく仕掛けたいたずらがばれたのかしらとダウフトが冷や冷やしたときだ。

「玉ねぎのタルトのほうがいい」

 祖母や母たちをはじめ、今はなきオードの女たちが代々受け継いできた家庭の味。ギルバートが放った思わぬ言葉に、しばしぽかんとしていたダウフトだったが、主塔ではなく厨房へと通じる方角へと歩き出した騎士を慌てて追いかけはじめる。

「ギルバート、あれは口に合わなかったんじゃ」

 この間書庫で出したときには、何も言ってくれなかったのにと訴える娘に、

「嫌なら三切れも食べるか」

 歩みをゆるめることもなく、振り返ることもせず、口にするのはそっけない言葉ばかりだけれど。

「二切れめを取ったとき、レオに思いきり睨まれた」

 ぼそりと答えたギルバートに、まあとダウフトは声を上げる。もし騎士が振り返っていたならば、<帰らずの森>での失態を取り戻そうかと心揺らいだかもしれない、やさしき花を思わせる笑みとともに。

「じゃあ、ベリーの仕込みが落ち着いたらすぐノリスさんに竃を貸してもらいます」

 声を弾ませるダウフトに、レオの分も作っておけとギルバートは返す。

「また睨まれるのはごめんだ」

 ジェムベリーのパイに玉ねぎのタルト、そろって欲しがるのだから欲張りなはなしだと言う騎士に、だってレオは食べ盛りですものと村娘は応じる。少年が聞いたならば、ダウフトまでそんなことを言うのかと、たいそう悔しがったに違いなかったが。

「今度は、生地か中身にタイムをすこし混ぜてみますね」

「好きにしろ」

「玉ねぎとベーコン、どっちを多くしましょうか」

「ベーコン」

 目の前を通り過ぎてゆく村娘と騎士のやりとりを耳にして、おやまた始まったなとそれぞれに興味を示したものの、回廊を行くふたりの距離がいつもよりほんの少しだけ近いことに気がついて。

 南の城壁塔へ通じる入り口を守る、父子ほどに年の離れた兵士たちが、顔を見合わせてそっと微笑んだことをふたりは知らない。



 さて、その後。

 奥方の言いつけで、厨房の竃や鍋からつぎつぎと運び出され振る舞われた、ジェムベリーのパイやジャムに砦じゅうの者が舌鼓を打つ一方で、ふもとの町にあるパン屋通りからは、血も凍るような叫び声が轟いたとの報告が砦へともたらされた。緊張した面持ちで執務室へと報告に駆けつけたひとりの兵士は、あふれる涙をぬぐいながら手紙をしたためる騎士団長と、腕を組んでそれを見張っている副団長の姿に呆然と立ちつくすことになる。

 さらに夕刻、詰所の<狼>たちへ供された豪快な鹿料理を前に苦悩するレオを、そら婿殿しっかり食えよと騎士たちが煽りたてた。

 細くてちびっこい背丈もウルリックぐらいにはなるかもしれんぞという突っ込みに、誰がちびだと騒ぎかけとたころ、片耳を塞いだギルバートが我関せずとばかりに食事をはじめた姿にかちんときたのか。

 背丈だけが取り柄の腰抜けどもなんか追い抜いてやるッ、と宣言してのけたわがまま侯子に、うまい食事と酒精の勢いも手伝ったか。おうその心意気だ、鹿を食え鹿をと<狼>たちが大いに盛り上がるさまに、やっぱりご飯はにぎやかなほうが楽しいわとダウフトが顔をほころばせた。

 その足元で、乙女に同意するかのように尻尾を振った森の姫君は、セレスもお食べと切り分けてもらった骨付き肉に目を輝かせ、えいとかぶりついてみせるのだった。


 <帰らずの森>をほんの少し、東の砦を大いに揺るがせた緑の祝祭は、まだしばらくその余韻を残しそうだ。


(Fin)

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