第11話 緑なす 梢のむこうに・5
何匹目かの魔物が、悲鳴を上げてレオの前から逃れていった。
「ウォリック卿」
剣を手に振り返ったレオに、放っておけと槍を繰り出しているサイモンの声が飛ぶ。
「深追いなぞしている場合か、急ぐぞ」
足元でもがく小鬼にとどめを刺し、ウォリックの男はあとどのくらいで北の茂みに着くのかとレオに問うてくる。
「あと少し、ジェムベリーの群生が見えれば」
ところが、そのあと少しになかなかたどり着くことができない。
サイモンと来た道を戻ってみれば、行く手を阻むのは小鬼たちの群れだった。取り逃がした獲物を追う途中に出くわした二人が、彼らにはたいそう邪魔であったらしい。威嚇の声を上げ牙を剥いた小鬼に、あいにくと俺はおやつじゃないぜと軽口を叩いたサイモンの槍が一閃した。
エクセターのギルバート、ジェフレのリシャール、ウォリックのサイモン、リキテンスタインのウルリック。
東の砦に来た二十人のうち、四人だけが生き残った六年目の騎士、死せる同胞の生命と<おもい>を背負った一人のわざを十分に見る暇もなく、レオは自分めがけて飛びかかってきた小鬼の腹を剣で思い切りなぎ払った。
断末魔の悲鳴と、辺りにたちこめた血の臭いが合図となったのか。敵意もあらわに襲い来る小鬼たちを屠りながら、わがまま侯子は西の騎士とともにひたすら北を目指すことになった。
知らなかったとはいえ、月牙狼の仔をダウフトに委ねたのはレオだ。いまだ力及ばぬ身とはいえ、やさしい面影を留めた村娘の側にいようと決めた自分が、死の影をもたらしてどうするというのか。
それに、レネやヴァルターもだ。
絹の服を着たからっぽ瓜だの、猪の生まれ変わりだの、多彩な表現にあふれた辛辣な言葉はたいそう頭に来るものの、後になってみればどれもがレオの正すべき点を突いていることがわかる。
そうした人間ほど、レオには得難いものだった。黄金のとねりこにおもねろうと近づいてくる輩は掃いて捨てるほどいたが、まともに彼の目を見つめて言を口にする者などごくわずかだったから。
じゃじゃ馬娘の横暴に耐えかねて反乱の狼煙を上げるものの、そのつど容赦のない鎮圧に遭うことも。うんざりするほどに真面目で、何かにつけてぶつかってばかりいるヴァルターが対等の実力を持っている―ついでに、自分よりもちょっぴり背が高い―ことも。
認めるには、矜持の高いレオにとってたいそう不本意なことではあったけれども。ふたりが、彼と道を同じくすることができるかもしれない者であることは確かなのだ。
脚にまとわりついてくる、枯木のような腕を斬り払った。
悲鳴を上げてのたうち回る小鬼が、たちまち同胞に襲いかかられ喰いちぎられてゆくさまに、同じ末路をたどった屍食らいを思い出し、そんな場合じゃないと形の良い唇を引き結ぶ。
とねりこの侯子が行く道を妨げるとはいい度胸だと魔物たちを睨みながら、一方で己の調子を顧みずに走りすぎたらしいことにレオは気づく。ぎょろりとした目を、残酷にぎらつかせて飛びかかってきた小鬼の爪を剣で受けたまではよかったものの、思わぬ膂力の前に押し返して更に踏み込むことができない。かろうじて食い止めるだけで精一杯だ。
「押し返せ、坊主ッ」
そう叫ぶサイモンは、既に二匹の敵と渡り合っている。とても助力など頼める状況にはない。無理だと返そうとして、正面から生臭い息を吹きかけてくる魔物がにたりと嗤ったことに気づく。余裕がないことを見抜かれたと知り、双眸に悔しさをたちのぼらせたときだ。
甲高い悲鳴を上げて、小鬼がレオから飛びすさった。そのまま逃げだそうとしたところを、流れるような鋼の一閃に屠られる。
「たいそうな腕前だな、ふたりとも」
緊迫した場には何とも似つかわしくない、飄々とした声に顔を上げれば、業物に付いた血を振り払いながら琥珀の騎士がたたずんでいる。
「笑っていないで助けろ、リシャール」
睨むサイモンに、そうしいたのはやまやまだがというのんきな答えが返ってくる。
「乙女たちへと襲いかからんとする、不届きな輩を相手にするのが俺の務めだからな」
「じゃあ」
思わず声を上げたレオに、琥珀のまなざしをおかしそうに細めて、
「助っ人をお待ちかねだぞ」
リシャールの言葉も、耳に届いていたかどうか。行かせてなるものかとばかりに立ちはだかった小鬼を蹴り飛ばし、レオは琥珀の騎士が指し示した低木を目指して駆けていった。
近づくなり、騎士たちのそれとは違う剣戟の音が響いた。うひゃあ、と時折上がる情けない声はヴァルターのものだ。恥ずかしい奴めと顔をしかめたものの、今は気弱な少年ひとりに頼るしかないであろう娘たちと月牙狼の仔を思い出し、レオは低木の茂みを払いのけて踏み込んだ。
「ダウフ――」
口にしかけた言葉は、そこで途切れる。
清らなるながれを守護せしは、堅牢なる石の砦。
遠い北の地が、いにしえの王によってそう名付けられたのは、ゆるやかに流れる河沿いに建てられた、今は朽ち果てた城壁からだとか。
普段の勝ち気さはどこへやら、辺りを囲む魔物たちを泣き出しそうな顔で見ているレネと、小さな身体で精一杯に威嚇の声を上げている月牙狼の仔と。
近づいた小鬼を、鞘に収めたままの<ヒルデブランド>で追い払おうとするダウフトの腕を取り背後にかばったのは、エクセターのギルバートだった。
こちらを伺っていたリシャールと目が合う。そういうことだとうなずいてみせた琥珀の騎士に、先刻の副団長の言葉がよみがえり、レオはまなざしをギルバートへと戻す。
情知らずの娘に振り回され、仲間たちの旺盛なる好奇心の前に手痛い敗北を喫しようとも、騎士はダウフトの側から離れてはいなかったのだ。
まあ、魔物相手に八つ当たりをしていた情けない事実はあるにせよ、それも守るべき者が今どこにあるのか、魔物がどんな動きを取っているかを把握した上でのこと。角笛が鳴り響いた時、能天気にも本陣へ向かったレオとは逆に、騎士は北の茂みへと向かっていたのだろう。
それが証拠に、何だよこっちに来るなってえええぇと騒ぎながらも、不測の事態に弱いヴァルターがそれなりに敵を迎え撃っている。おそらくはギルバートが来るまで、気づかれぬように娘たちを見守っていたリシャールの援護もあってのことだろうが。
ひとりだけなのだと、改めて思い知らされる。
黒髪の騎士よりも、はるかに武勇に優れたもののふはいるだろう。無愛想と言葉足らずでダウフトをがっかりさせることもない、やさしく細やかな心遣いを見せる者も。もしかすると、アーケヴじゅうの乙女たちが頬を染めうっとりと眺めやるかもしれない美丈夫も。
望まないだけだ。たとえ、すべてを兼ね備えた騎士のなかの騎士が現れようとも、ダウフトがエクセターのギルバート以外の誰かを護り手に選ぶことは決してない。
<聖女の騎士>。
その名を背負うことが許される者は、不器用きわまりない男ただひとりなのだ。
今までも、これから先も、いのちを天なる<母>に返したあとでさえも。
「レオ」
たたずむ少年に気づいたダウフトが駆け寄ってくる。大丈夫ですか、怪我なんてしていませんかと問いかけてくる娘に、このくらい何てことはないと胸を張ってみせた。
「こんな雑魚どもに、僕がやられるわけがないだろう」
本当を言えば、さっき魔物に蹴られた脇腹と背が痛い。明日にはさぞ派手な痣になっていることだろう。口にするのはたやすかったが、森と同じ色の瞳を案ずるように向けてくる娘の前で、弱音など吐きたくはなかった。
「じゃじゃ馬とちびすけは?」
問いかけたレオの足元で、無邪気な声が響く。嬉しそうに尻尾を振っている白い仔に無事だったかと返そうとする間もなく、凄まじい力に襟元を掴まれた。
「どこで油を売っていたのよ、この考えなし」
あんたが本陣に行ってからが大変だったのにと、鳶色の瞳に憤怒を燃え立たせたレネが鎖かたびらの襟元をぐいぐいと締め上げてくる。放せ、と身振り手振りで示してもおかまいなしだ。
「ギルバートさまとリシャールさまが来て下さらなかったら、どうなったと思っているの」
それに誰がじゃじゃ馬ですってと、魔物も尻込みする勢いでまくし立てる金髪娘を、だめですレオが窒息してしまいますとダウフトが大慌てで止めている。あの、俺もいたんだけどなというヴァルターの主張がまるで通じていないことを、遠のきかけた意識の中で多少哀れに思ったときだ。
「レネ殿。気持ちはお察しするが、まずはそのくらいに」
静かな声音に、はたと我に返った金髪娘がまあ嫌だわわたくしったらと頬を染めて少年を放りだす。気管にどっと流れ込んできた新鮮な空気を懸命に吸っては吐くレオの目に、呆れたようにこちらを見ている黒髪の騎士が映った。
さっきまでの不機嫌を、かすかにとどめた漆黒の双眸――ダウフトに関して、こんな表情ができるのもまた彼ひとりなのだという事実が腹立たしい。
「なんだ、あの間抜けな声は。エクセターの男は腰抜けのふぬけぞろいか」
半分はヴァルターに、半分はギルバートにあてつけたようなものだった。挑発ともいえぬ代物に乗せられるような男とも思えなかったが、果たせるかな、黒髪の騎士は普段とまるで変わらぬ無愛想さで切り返してきた。
「来るぞ、ホッツパー」
そっけない言葉に、誰が向こう見ずだこのかぼちゃ頭と言い返そうとしたレオの前を影がよぎる。
「あいつだッ」
ヴァルターの叫びを、醜悪な声が遮った。自分めがけて突き出された鋭い爪を僅差で避けると、レオは不遜にも月牙狼の仔をおやつにしようとした小鬼と正面から向かい合う。
蹴り飛ばしたときには気づかなかったが、金属同士がこすれ合うような不快な声を上げ機会をうかがっている魔物は、同胞たちの中でも一回りも身体が大きかった。魔族が人間の村や町を襲うとき、尖兵として放つ小鬼たちを率いるものであるらしい。
屍食らいのように、もとは<帰らずの森>で他の獣たちと共存していたはずだ。心を恐怖に塗りつぶされるかのような魔狼の放つ憎悪には及ばなかったが、それでも小鬼の目には、人間に対する底知れぬ怒りと呪詛だけがたたえられている。もっとも小鬼から見れば、自分たちもまた同じ目をしているのだろうけれど。
ふたたび、爪が風を切る音がした。
手にした剣で払いのけると、レオはすぐさま構えの姿勢を取り相手との間合いをはかる。修練場で踏み込む時を見誤ったばかりに、黒髪の騎士に情け容赦なく叩きのめされたことなど一度や二度ではなかったからだ。
その当人ときたら、ダウフトに飛びかかった魔物を殴り飛ばしたあと、抜き身の剣を地に突き立てたたずむばかり。動く素振りすら見せやしない。
「少しは手伝ったらどうだ」
「このくらい、何てことはないのだろう」
とぼけたようなギルバートの態度に、思わずかっとなりかけたが、
「俺に恥をかかせるな」
やかましく主張をしたあげく、騎士を修練場に引っ張り出したのはレオだ。いくら砂埃ばかりを噛みしめさせているとはいえ、小物ごときにいいようにあしらわれることなど教えてはいないと暗に示されていることに気づく。
「だったら、そこでぼんやりと眺めていろ」
思いきりギルバートを睨み返して、剣を構えなおした。軋むような声を上げて魔物が嗤う。年端もいかぬひとの子が自分にたてつこうとするさまなど、幼い森の守護者が甲高い声で盛んに吠えていることと同じ悪あがきにしか映らぬらしい。
辺りに漂わせていた濁った眼が、赤みがかった栗色の髪と新緑の瞳をした娘へと留まったとき――何をおいてもまず屠るべきものを見いだした喜悦に、小鬼の叫びが震えたことをレオは聞き逃さなかった。
「どこを見ているッ」
踏み込んだものの、いち早く気づいた小鬼が身をひるがえして剣を避けた。きしきしと威嚇の声を上げる魔物へ、月牙狼の仔とダウフトから注意をそらさせようと、おまえの相手はこっちだとレオは挑発を続ける。わずかに目をやれば、黒髪の騎士が剣の柄に手をかけながら小鬼の動きをうかがっている様子が見えた。近くにはリシャールとサイモンの姿もある。
もし自分が小鬼を討ちそこねたとしても、ギルバートが確実に魔物を屠るだろう。普段砦でそうしているように、さして気負うこともなく、襲い来る牙や爪からダウフトを守り抜いてみせるだろう。
ただしレオには、怒りを閃かせることも、嘆くさまも見せはしないだろう。この程度かと呟き背を向けて、子守りの時間だぞと<狼>たちに揶揄されながら修練場に現れることは二度とない。それだけは分かる。
小鬼が動いた。鋭い牙を剣で受けようとして、ふいに横合いからえぐるように襲いかかってきた爪に気づく。咄嗟に身をひねって避けたものの、十分とはいえなかったらしい。
左頬に灼けるような痛みが走った。伝い落ちる生温かい筋をぬぐうと、やわらかな鹿革の手袋に赤黒い染みがついてくる。風に舞った一筋の黄金は、デュフレーヌ家のあかしである自分の髪だ。
「レオ」
腰に佩いた<ヒルデブランド>へと、手を伸ばそうとしたダウフトが戸惑った顔をする。傍らのギルバートが、聖剣の柄頭を押さえたまま黙って首を横に振ったからだ。
「でも、このままだとレオが」
ギルバートもリシャールさまも、どうしてみんな動かないんですかと訴えるダウフトに、大丈夫だとレオは明るく応じてみせた。
「こんな奴に、<ヒルデブランド>なんかもったいないぞ」
レオの言葉に、小鬼が憤怒の声を上げる。取るに足らぬ奴だと言われたことが腹に据えかねたらしい。
確かに<ヒルデブランド>は、アーケヴじゅうの騎士たちを集めてもなお足らぬほどの力を秘めている。あの夏の森以来、聖女が放つ奇跡の片鱗を幾度となくレオも目の当たりにしてきた。
けれども、ひとの身に余る力を解き放つたびに、聖剣は寄り代たる娘を数日の間覚めることのない眠りへと誘ってゆくのだ。
寝台に横たわったまま、瞼すら動かさぬダウフトの側についていたレネやマリーが、このままお目覚めにならなかったらと泣き出して、奥方や侍女たちに慰められていたことも。厨房にも、城壁塔にも、厩舎にも、<狼>たちの詰所にも、火が消えたように沈鬱な空気が漂っていたことも。
しめっぽい雰囲気を振り払おうと、ひとの少ない修練場を訪れてみれば、そのくらいにしておけと忠告するリシャールに答えることもなく、一心に剣をふるうギルバートの姿があったことも――すべて、砦で暮らすようになってから知ったことだ。
「そこで見ていろ、ダウフト」
戸惑う娘へと笑ってみせたレオに、ギルバートが黒い双眸を向ける。どこかおかしげな表情にまなざしをきつくしてみせると、騎士はわずかに魔物へと頭をめぐらせてレオを見やった。
行け。そう示すかのように。
聞き苦しい声とともに小鬼が地を蹴った。矜持を傷つけられ、次々に繰り出してくる魔物の爪や牙を剣で弾きながら、高ぶりの中にもどこか冷めた一点で相手を捉えていることにレオは気づく。
よく見れば、小鬼の動きは隙だらけだ。間合いを取ることも忘れ、やみくもに腕を振り回してばかりいる。少しは考えているのかと思いかけ、かすかに苦笑をひらめかせる。怒りのままに打ちかかってくる魔物の姿は、まるでギルバートの挑発に乗せられた時の自分そのものだったからだ。
金属が触れ合うような、鋭い音があたりに響く。レオの剣に折られ、ばらばらと草地に転がった鋭い爪のすぐ先では、ダウフトが固唾を呑んで少年の戦いを見つめている。こんなものが彼女めがけて振り下ろされるさまなど、見ずに済んだだけでも幸いというものだ。
唯一の得物を失い、しゅうしゅうと怒り狂っていた小鬼がふいに悲鳴を上げた。長い腕をしきりに動かして、何やら懸命に引きはがそうとするようなそぶりを見せている。
枯枝のような足に食らいついているものを見ようと頭をめぐらせ、それが白い仔狼であることにレオは目を見張った。尻尾を掴まれて乱暴に引きはがされ、草地に転がったところをダウフトに抱え上げられるあたり何とも無茶な姫君だが、おやつにされかけた仕返しはいちおう果たしたらしい。
噛みつかれた足から血を流しながらも、小鬼が月牙狼の仔とダウフトに向かって牙を剥いた、その姿をめがけて駆け出した。
砦の皆が打ち沈むさまを見るくらいならば、自分が立ってみせる。
父や母と同じように、やさしい目をした村娘がいなくなる恐怖に怯えるくらいならば、いくらでも剣を取ってみせる。自分もまたダウフトを守る盾となってみせる。
だから、こんな所で立ち止まるわけにはいかない。
叫びとともに剣を突きだした。
肉を貫き、筋を断ち、骨を砕いていく――これから幾度となく味わうことになる、生命あるものを断ち切ったときの感触が鋼を通して伝わってくるさまに青い双眸を伏せ、<母>への赦しの言葉をかすかに呟くと、レオは小鬼の喉元を貫いた己が得物を一気に引き抜いた。
呻き声を上げ、いくばくか身を震わせたのち、小鬼がゆっくりと倒れていく。みずみずしい緑に広がる赤黒い彩りと金臭いにおいに吐き気を覚え、その場にへたりこみかけたレオを強い力が引っ張った。
「まだ早い」
レオの腕を支えたまま、険しい面持ちでギルバートが辺りを指し示す。頭を討たれた小鬼たちが、逃げ出すどころか逆に周りを取り囲もうとしているさまに息を呑んだ。
「引き際を知らん奴らだな、ご婦人がたの顰蹙を買うぞ」
「どうやら、よほど俺たちが美味そうにみえるらしいぜ」
相当の悪食だなと軽口をたたきながらも、リシャールとサイモンがそれぞれの得物を構えた。ようやく呼吸を整えたレオにも、草地に転がっていた剣が押しつけられる。
「副団長に返しておけ」
切り抜けると言外にほのめかして、ギルバートが魔物へと向き直った。うんざりだと嘆くヴァルターをよそに剣を握りなおし、近づく異形たちを迎え撃とうと青い双眸に決意をみなぎらせたときだ。
深い緑のなかに突如として響き渡った咆哮――底知れぬ太古の昏さを宿した声に、魔物たちが浮き足立った。一匹がけたたましい声を上げて身を翻すと、我先にと森の奥を目指して逃げ出していく。何ともあっけない幕切れに、三人の騎士がそれぞれに戸惑ったような顔を見せたのだが、
「で、出た」
かすれた声を上げかけて、後の言葉が続かぬヴァルターが指し示す方角に現れたものへと目を向けて、誰もがその場に立ちすくむ。
女王だ。
森のシルヴィア、深き緑の守護者と彼女が呼ばれる理由が分かった気がした。
堂々たる白銀に包まれた姿は月の輝きであたりを照らし、はかり知れぬ叡智と長き歳月とをたたえた双の黄金が、脆い身体をせいいっぱい鋼や革によろった人間たちを静かに見つめている。
言葉も出なかった。指一つ動かすこともできなかった。数多の魔物と渡り合い、また生き延びてきたはずの若い騎士たちですら、樹海の女王が放つ威厳の前に呆然とすることしかできずにいる。
つたない知恵を振り絞り、うず高く積み上げた石の城など何になろう。戦火にあえぐ民をよそに、エーグモルトの諸侯や司教たちが誇示してみせる豪奢など何になろう。
彼女の纏う彩りこそが、人の世のいかなる王のあかしも能わぬしるし。彼女の坐す場所こそが、数多の強国が誇る宮廷すら足元にも及ばぬ玉座だった。
あの魔狼ですら、女王の前では赤子にも等しい。ましてや、さっきから膝の震えを懸命にこらえていることしかできぬ人間の子供など。
「どこへ行くの」
ふいにダウフトが声を上げた。
娘の腕をすり抜けて地に降り立つと、月牙狼の仔は大きく身を震わせた。無垢な瞳に女王の姿を映すと、嬉しそうに一声鳴いて駆け寄っていく。引き留めようとして、白い狼の正体を察して足を止めたダウフトに樹海の王が頭をめぐらせた。思わず身をすくめた娘の腕をギルバートが取り、自らの隣へと下がらせる。
そんな村娘と騎士に、月牙狼は黄金のまなざしを細めた。まるで歳ふりたるものが、幼子を微笑ましく見つめるような目だ。それに気づいたギルバートが、何とも戸惑った顔をするさまを興がるように眺めていた女王が、はしゃぎながら飛びついてきた仔に気づく。
離れていた寂しさから、しきりに甘えてくる我が子の顔や背をやさしく舐めてやると、森のシルヴィアはふたたび顔を上げ、大義であったとばかりに人間たちを睥睨すると静かに背を向けた。後には白い仔が続く。
「た、助かった」
緑の向こうに消えていく母と子の姿を見送って、誰からともなく大きく息をつき緊張を解きほぐす。
「なんだか、お袋に悪さがばれた時みたいだったな」
「ほう。ということは、おぬしがロザリー殿に張り倒されるのもその延長か」
まるで懲りていないわけだと突っ込むリシャールに、言うなとサイモンがうなる。この教練が終わった後、出撃前に一度ロザリーのもとへ顔を出し、酒場の美人女将を口説いていたという目撃談に対する申し開きをせねばならぬことを思い出したらしい。
「おかあさんと一緒に、うちへ帰るんですね」
月牙狼の親子を見つめたまま、ダウフトが呟く。まなざしに思い浮かべたものは、今年こそ祭りの晴れ着を作ってあげようねと笑っていた、あたたかな面影だったのか。
「……ダウフト」
母のいない寂しさは、レオとてよく知っている。帰るべき家も肉親も喪った村娘の悲しみを癒すことはできないけれども、寄り添うことならば自分にも少しはできるかもしれない。
「帰ったら、ジェムベリーのパイが食べたいんだ」
唐突なわがまま侯子の言葉に、ダウフトが目を丸くする。
「アネットへの土産に、ちびすけを連れて帰るつもりだったのに」
迎えが来たんじゃ仕方がないし、ベリーだけあげても芸がないだろうと話すレオに、
「パイなら、ノリスさんが」
言いかけたダウフトを、青い双眸でまっすぐに見て。レオは言葉を続けた。
「ダウフトが作ったやつのほうが美味い」
料理一筋に生きる男が耳にしたら、たいそう嘆くであろうことは分かっていたけれど。
「この間の玉ねぎのタルト、あれも良かったな。丸ごと独り占めしてもいいくらいだ」
つい滑らせた口に、やっぱりそうかとヴァルターが声を上げる。
「柄にもなく『剣術指南』なんて借りてきたときだな。どうりで白状しないと思ったら」
「ふん、ぼんやりしているから食べそこねるんだ」
たちまち起こった言い合いに、あんたたちいい加減にしなさいよとレネが眉をつり上げる。月牙狼が帰ったと思ったら今度はこっちの子犬かと、<狼>たちがうんざりしたように顔を見合わせると、
「じゃあ、ノリスさんに窯を貸してもらわないといけませんね」
レオの分と、アネットの分と、それからと数えながらダウフトが微笑んだ。見た目も彩りもたいそうめざましい料理に驚く父と、かあさますごいとはしゃいでいた四つの自分に、今回も腕によりをかけましたのよとはにかんでみせた母と同じように。
「ベリーの仕込みが落ち着いたら、わたしからお願いしてみます」
「なら、ウィリアム殿とガスパール老の分も入れておけ」
書庫に務める師弟の名を挙げて、ギルバートがレオから副団長の剣を取り上げる。代わりに押しつけたのは空っぽの籠だ。
「なんだ、これは」
怪訝そうに問うレオに、決まっているだろうと漆黒の双眸が向けられる。
「ひとにものを頼むときは、まず自分の働きを見せろ」
つまりパイが食べたければ、ここにあるジェムベリーを摘めというわけだ。騎士の言葉に大いに賛同したレネに、しっかり働きなさいよと力いっぱい背を叩かれる。
「ダウフトさまとわたし、それからヴァルターの分も摘んでおくのよ。さんざん怖い思いをさせられたんですもの、そのくらい当然よね」
「魔物も裸足で逃げ出すようなじゃじゃ馬のくせに、よく言うぜ」
「あら、そう」
いっそやさしいと思える笑みを浮かべたレネに、騎士たちとヴァルターがそろって<母>への慈悲を願うしるしを切るさまが見えた。
「あ、あのレネ。すこし手加減を」
ただひとり金髪娘を止めようとしたダウフトが、いいから放っておけとギルバートに遮られたことで、最後の望みも潰えたと悟ったレオはじりじりと後ずさる。
「本当、あんたみたいな考えなしって見たことがないわ」
小鬼の頭を相手取っていた時よりも、森の女王を目の当たりにした時よりも、懲りるって言葉を知っているかしらと近づいてくるレネの形相にこそ、絶体絶命の危機を感じるのはなぜなのか――
少年の問いに、答えるものはついになかった。
◆ ◆ ◆
「戻ったか」
どうにか魔物の騒ぎを収め、うっかりが招いた惨劇には目をつぶり、籠いっぱいにジェムベリーや香草を満たして本陣に戻ってきた一行に、副団長の声が飛んだ。
「無事であったようだな」
灰色の双眸がダウフトとレネ、ヴァルターに向けられる。これから落とされるであろう雷に、ごめんなさいと身を縮める娘たちと真面目な少年に、説教は後にしておこうと副団長は答える。援護に向かわせた者が、自分たちが着くよりも先にことが解決していたと報告をたずさえ戻ってきたことに、珍しく満足げな様子だ。
レオにも目を向けたのだが、少年の顔を彩るひっかき傷だの乱れに乱れた金髪にしばらく眉間を抑えて何やら呟いていたが、あえて気にしないことにしたらしい。
「おぬしを訪ねてきたものがいるぞ、小僧」
副団長が指さす方へと目をやった若者たちは、あまりのことに言葉を失って立ちつくす。
緑の草地に横たえられた、それはみごとな一頭の牡鹿。その傍らで、一行を見とめてきゃんと鳴いたのは、あの月牙狼の仔ではないか!
「何で」
呆然と呟いたレオに副団長が差し出したのは、緑鮮やかなとねりこの小枝。デュフレーヌ家の旗じるしにも掲げられる神聖なる木だ。
「そこの獲物に添えられていたぞ。森のシルヴィアからだ」
よく見れば、牡鹿の首には鋭い牙の跡がある。どうやら送り主があの月牙狼、誇り高き女王であるらしいと察せられた。
「どうやら、任されたようだな」
何をですかと目を丸くする娘たちをよそに、副団長は月牙狼の仔をそっと抱え上げ、レオの前に小さな身体を差し出した。
「いとも美しき女王は、おぬしを姫君の護り手に命じられたらしい」
「姫?」
まん丸い瞳でレオを見上げて、ぷりぷりと尻尾を振っているこのちびすけが?
「これはまた、ずいぶんと個性的な姫君だな」
仔狼の無邪気な顔を眺めやり、リシャールが感心したように呟く。
砦の首席貴婦人たる奥方イズー、聖なる剣を抱いた乙女ダウフト、鼻息の荒いじゃじゃ馬娘レネに、びろうどのような毛並みが美しい厨房の猫ヘンルーダ。おまけに月牙狼の姫ときたものだ。
「我が砦で真に強いのは、<狼>などではなくうるわしきご婦人がたというわけだ」
「でもリシャールさま、あの鹿は?」
首を傾げるダウフトに、持参金代わりでしょうと琥珀の騎士はうなずく。
「ある騎士の危機を救った狼が、じつは呪いで姿を変えられた美しい姫だったというはなしもあるくらいですから」
色々とあった末に呪いの主を討ち果たし、騎士は晴れて乙女の手を取りめでたしめでたし――というわけなのだが、
「つまり我らが女王は、坊やを姫の
「まあ、すごい」
「すごくないッ」
誰が許婚だとむきになるレオをよそに、副団長は月牙狼の仔をダウフトとレネの手に預ける。同性のよしみか、たちまち二人と一匹の間には親しげな雰囲気ができあがったらしい。頭を撫でられかわいいと褒められて、幼い森の守護者はすっかりご満悦だ。
「砦に帰ったら、この子にリボンを結んであげましょう。ダウフトさま」
「レネご自慢のとっておきですね。どんな色がいいかしら」
アネットが喜ぶわとはしゃぐ娘たちに、そんな場合かと言おうとしたものの、
「まあ、諦めることだな」
ああした時のご婦人の決意は、破ること能わざる砦のごとしだとリシャールに肩を叩かれ、
「気だても良いし健やかで愛らしい、由緒正しき血を引く姫君だ。釣り合いも十分だろう」
いやよかったなあと、必死に笑いをこらえながらサイモンが目頭を押さえてみせ、
「末永く幸せにな」
とどめとばかりに大真面目な顔でのたまったギルバートに、堪忍袋の緒が切れた。
「エクセター卿だけには言われたくないッ」
笑うなッ、と森じゅうに轟いた少年の叫びに、はて何としたものかと年長の騎士たちは互いに苦渋と困惑に満ちた顔を向けあった。
「……森の御使いを、ただの犬扱いとは」
小僧を砦に残していくほうがかえって案じられるぞと呟くボース卿に、あのユーグの孫だからのとガスパール老がうなずく。
「柱にくくりつけたとしても、意地でもついてくるじゃろう。ならば、目の届く所で暴れさせておくのがよかろうて」
怒り狂う少年を涼しい顔で受け流す黒髪の騎士と、照れなくてもいいのにとのんきに笑う村娘とを交互に見やって、ガスパール老はにやりとする。
「どこぞの<向こう見ず>どももそうであったことだしの。ナイジェルよ」
忘れたい過去をふたたび蒸し返されて、すべてヴァンサンの阿呆めが招いたことですと反論しながらも、胃の腑をきりきりと締め上げられてゆく副団長だった。
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