第3話 微笑みのゆくえは・1
緑なすアーケヴの大地、魔族と人とを隔てるかのように築かれたあまたの城砦。
そのうちの一つ――西に広がる<帰らずの森>と北の山と湖を背に築かれた東の砦は、今や国じゅうで名を知らぬ者はない所。
なぜなら、そこにはただひとつの希望があると囁かれている所だから。
長い長い戦に倦み疲れた者たちにもたらされし輝きは、暁を臨む砦にこそ在る。そう信じられるようになったから。
「どうしても、行かなければだめですか?」
まばゆい日射しが降り注ぐ砦の回廊、数歩先をゆく騎士に向かって問いかけたのはダウフトだった。
後ろを振り返り、思い切り不服そうな娘の表情に出くわし――夏らしく涼しげな色合いの装いもこれでは台なしだろうにと心で嘆息しながらも、ギルバートは足の進まぬダウフトへと口を開いた。
「仕方あるまい。いつもならば即座に断られるはずの奥方が、今日の客に限って目通りをお許しになるとは思いもよらなかったからな」
<ヒルデブランド>を抱く乙女、髪あかきダウフトに是が非でもお目もじつかまつりたい。
いつ何時、いくさになってもおかしくはないこのご時世に、アーケヴの各地から東の砦とふもとの町を目指してやってくる者は跡を絶たない。
一目そのお姿をと希こいねがう者。ダウフトの手や衣服の裾に触れることで、何らかのご利益を得ようと望む者。聖女さまにあやかってと町中で堂々と商いを始める者から、果ては家財道具一式を抱え、家族そろって引っ越してくる者までいる始末。あまりの騒ぎゆえ、ダウフト殿への面会を望む者たちをなだめて諭し、家路につかせることが近頃の務めだわいと白髯の騎士団長自らがこぼしたほどだ。
それだというのに。
「奥方は何を考えておいでなのか、俺には皆目見当がつかん」
砦のあるじたる老騎士は、四日前からシロス伯のもとへ赴いている。その間は、奥方こそが聖女目当てに押しかける連中をそれとなくあしらっていたはずなのだが。
呼び出しに応じ広間へと参上つかまつった自分に、ダウフト殿をここにお連れしなさいと命じた奥方の謎めいた微笑が思い出されて、ギルバートは首をひねるより他にない。
「本当にすごいのは<ヒルデブランド>なのに」
複雑な面持ちで、ダウフトは腰に佩いた<ヒルデブランド>を見やる。
武人にこそふさわしく思われる不思議の剣は、娘らしい軽やかな装いにはまるでそぐわぬ武骨な枷かせのよう。緑の瞳に差し込む翳りを見てとって、生真面目な騎士は、彼にしてはいささか大仰な仕草で肩をすくめてみせた。
「聖剣だの聖女だのと聞いて、みな自分の好き勝手に思い描く。おぬしがいちいちそれに付き合う必要などないだろう」
「ギルバート」
珍しく、目の前の男から気遣うような言葉が発せられたことに目を輝かせたダウフトだったが、
「実物を見ているぶん、俺にはとても無謀なことはできないが」
大真面目な顔でうそぶき回廊を歩み始めた騎士を、またそういういじわるを言うんですねとダウフトの声が追いかけてくる。
落ち込みもするが、立ち直りも早い。そこがダウフトのダウフトたる所以だな。
こうして背を向けていてさえ、めいいっぱいふくれているであろう娘の表情が容易に思い浮かび、砦いちの無愛想で知られる若い騎士の口の端にもかすかに笑みらしきものが閃く。
ギルバートの皮肉屋、鉄面皮と抗議しながらも懸命についてくる足音を背に、騎士は夏の緑に彩られた回廊を歩んでいった。
◆ ◆ ◆
「よく参られました、デュフレーヌのレオ殿」
砦の中央にある大広間。緑地を駆ける<狼>の騎士団旗を中央に、色とりどりの紋章をあしらった盾や壁掛けが並ぶ石壁を背にしつらえられた椅子から立ち上がったのは奥方イズーだ。
夫君が不在の間、副団長をはじめとする<アーケヴの狼>たちを従える女城主として、老婦人は床に片膝を付き頭を垂れるひとりの客人へと頭を上げるようにと声をかける。
「わたしの無理な願いをお聞き届け下さり、光栄にございます。奥方さま」
そう言って面を上げたのは、ダウフトよりも幼い十四、五ほどの少年だった。
顎のあたりで切りそろえられた黄金の髪と青い鋼玉の双眸が、乙女と見まごうほどにうるわしい容貌を華やかに彩っている。選りすぐった生地を惜しみなく使い丁寧に仕立てられた衣服といい、物腰のすぐれて優雅なことといい、良家の若君であることが察せられる。
「そなたの事はつねづね聞き及んでおります。ご立派になられて、お祖父さまもお祖母さまもさぞや誇らしいことでしょう」
「奥方さま、わたしのことはそこまでに」
面はゆそうに奥方の言葉を受け入れつつも、若君はどこか心ここにあらずといった様子を見せている。
「どうなさったのです、レオ殿」
「その――聖女殿は」
緊張をはらんだレオの言葉に、奥方の命で広間に集った者たちは互いに顔を見合わせる。どうやらこの若君も、剣を抱く乙女の評判を聞きつけて砦までやってきたらしいと知って。
「砦の守り姫、忌まわしき者どもにとっては刃となる、噂に名高い<髪あかきダウフト>はどちらにおられるのですか」
少年らしいひたむきさと、期待に満ちたまなざしでレオは広間一帯へと頭をめぐらせる。
「そなたの目の前におられるでしょう」
悠然と微笑みながら、奥方が手で示した方角――白銀の盾のごとく居並ぶ騎士たちの中にたたずむ、赤みを帯びた栗色の髪を肩に流した娘へと若君の双眸が向けられる。
「髪あかきダウフト、<母なる御方>から聖なる剣をお預かりした乙女。それがあの方です」
驚きに満たされていた若君の表情がみるみるうちに変わっていき、
「聖女!?――これがッ?」
若君の口から発せられたことばに、居並ぶ者たちからどよめきが起こる。
「これは何かの冗談ですか、奥方さま」
「わたくしが、そなたをたばかって何になりましょう」
「僕――いえ、わたしは聖女のお姿を一目と願うばかりに、我が館を離れはるばる赴いてきたのです。だというのに、こんな古ぼけた剣を後生大事に抱えた田舎娘ごときが砦の守り姫だと仰るのですか」
レオの言葉に、顔色を変えたのは<狼>たちだった。思わず列から飛び出そうとした幾人かの者を制し、険しい面持ちの副団長が口を慎まれよと少年を咎めようとしたときだ。
「レオさま」
騒ぎを鎮めたのは、澄み渡った声。広間に集った者たちの視線が、一斉に声の主――デュフレーヌの若君のもとへと歩み寄ったダウフトへと向けられる。
鋼玉の双眸で怪訝そうに自分を見やるレオを、剣を抱く娘は森の深みを宿した瞳で穏やかに見つめながら問いかける。
「レオさまは、わたしが聖女には見えないのですね?」
「まったく、見えはしないな」
少年の言葉も態度も、剣抱く娘に対する明らかな失望と蔑みだったというのに。乙女のやさしげな顔に浮かんだものは、憤りでも悲しみでもなかった。
「なら、よかった」
笑顔さえ浮かべてうなずいたダウフトに漆黒のまなざしを向けたギルバートと、事の成り行きを見つめている奥方を除いて、居合わせた者たちはただ呆気にとられるしかない。
何ということか。
今やこの砦に、いやアーケヴにとってなくてはならぬその人が、聖剣に見合わぬ存在だなどと自ら言いきってしまうとは!
「ふん。そう思うならば、さっさとおまえのいた田舎村へと戻るが――」
ダウフトの物言いを侮辱と受け取ったか、なおも言いつのろうとするレオをとどめたのは奥方だった。
「その辺りになさいませ、レオ殿」
「ですが」
「はて。誇り高きとねりこの一門は、場をわきまえることをご存じのはず」
静かな声に含まれた意味を悟り、デュフレーヌの若君は不服そうではあったが、しぶしぶうなずいてみせる。それを受けて、砦の貴婦人は大広間に満ちた少年への憤りや非難を吹き飛ばすかのように口を開いた。
「ダウフト殿が、まこと剣に選ばれた乙女であられるのか。問いには、そなた自身で解を導かれるがよろしいでしょう。レオ殿」
どうかお気の済むまで、ゆるりと滞在なされませ。
周囲から起こった驚きの声に動じる風もなく、奥方は若君に笑みを向けた。
「ですが、ここは砦。ご領地のような気の利いたおもてなしはできませぬし、いつ何時いくさ場に変わるやも知れぬ所です」
その覚悟はおありかと、言外に問いかける女城主に、
「お心遣いいたみいります、奥方さま」
自分の目で、事実を確かめるまでここにいると決意を告げた少年。時折ダウフトを見るその目には、不信感と蔑みがありありと満ちてはいたけれど。
「ではアルトワ、レオ殿を客間にご案内なさい。供回りの方々には食事と休息を」
奥方の命に、思わず抗議の声を上げかけた初老の家令だったが、殿がお留守の今、この砦のあるじは誰なのですかと厳しい灰青のまなざしで問われ、不承不承うなずくしかない。
「よろしい」
ざわめきが収まらぬ広間の様子をしばし眺めると、奥方はそこに居合わせた者たちすべてにはっきりと聞き取ることができるように告げた。
「我らが
◆ ◆ ◆
「そんなに怒らないで、レネもヴァルターも」
夏の木々や草花に彩られた中庭、美しく蔦を絡ませた
「これが怒らずにいられますか、ダウフトさま」
のんきなあるじに、地団太を踏まんばかりの勢いで応じたのはレネだった。
「わたくし、今日ほど殿方に生まれなかったことを悔やんだ日はありません。その場に居合わせたなら、すぐさま決闘を申し込みましたのに」
「まったく同感です」
勇ましい娘に押されがちになりながら、何とか理性的に話そうとするものの、つい言葉の端々に憤りをにじませるのはヴァルターだ。
「デュフレーヌといえば、アーケヴに名を知られた権門。その跡取りともあろう方が、砦の守り姫に対する礼儀もわきまえぬなどとは」
「あまり怒ると、血の巡りに差し障りが出るというぞ。ヴァルター」
ふいにかけられた声に、従者は鳶色の双眸を丸くする。振り返ったダウフトとレネの前にたたずんでいるのは、何と本を手にした黒髪の騎士ではないか。
「ギルバート、書庫に行っていたのでしょう?」
目を丸くするダウフトに、その通りだがと騎士は渋面をつくる。
「本を広げていれば、どこかで聞いた声がする。何事かと来てみればだ」
軽く睨んだギルバートに、ヴァルターは申し訳ございませんと慌てて頭を下げる。己のあるじが、読書をたしなむ一時を妨げられることを厭うのを思い出したからだ。
「ギルバートさま。どうして生意気な奴に思い知らせて下さらないのです」
鼻息も荒く、騎士に詰め寄ったのはレネだった。砦の家令もかなわぬと囁かれるその迫力に、さしもの騎士でさえ思わず後ろへ引かずにはいられない。剣をお貸しくださいませ、と無理難題をふっかける娘を引き留めたのはダウフトだった。
「レネ、ギルバートが困っています」
でも、と不満げなレネに、乙女は静かに首を横に振ってみせる。やわらかな微笑みに怒りの矛先を鈍らされて、金髪の娘はしぶしぶ騎士のマントから手を放す。
「いつものことながら勇ましいな、レネ殿は」
「だってあんまりですわ。あのわがまま侯子は、ダウフトさまをそれはひどく侮辱したと聞きましたもの」
悔しそうに答える娘に、ギルバートは誰からそれをと問う。
「奥方さまのお側に控えるブランシュからです。今では見張り塔の兵士から下働きの子供までもが、広間のできごとを噂しあっておりますわ」
レネの言葉に、騎士の眉がほんの一瞬だけひそめられたのだが、
「わがまま侯子って、レオさまのこと?」
側づきの娘へ問いかけるダウフトの様子に、いらぬことを吹き込みたくなかったがとギルバートは嘆息しながらうなずいてみせた。
「<とねりこ館のわがまま侯子>。デュフレーヌのレオをさす綽名だ」
そう。
いま砦を騒がせている少年の出自はデュフレーヌ侯家――とねりこの紋章を掲げるアーケヴ屈指の権門だ。
商業都市ランスへと通じる街道を有し、良質の小麦や葡萄酒の産地として知られる広大な領地は、厳格なるユーグ老侯のもと戦時にも関わらず魔族の横行を赦したことがないという。
だが、いかに豊かであろうと権勢を誇ろうと、どうにもならぬこともあるのがこの世のならい。世継ぎの侯子とその妃を相次いで喪ってからというもの、侯夫妻は遺された孫君を文字通り掌中の玉のように扱ったらしい。
ジェムベリーが食べたいがために、傭兵たちを呼び集めて魔物がうろつく森へ向かわせたとか。
漂泊の旅芸人を館にとどめて、いつまでも帰そうとしなかったとか。
小姓や近隣の村の子供を集めて戦ごっこをし、自陣が敗れた時には勝つまで何度もやり直しをさせたとか。
そんなこんなで、ついた綽名が<わがまま侯子>。
侯妃マルゴや三人の侯女たちをはじめ、とねりこ館の婦人たちが若君を溺愛すること甚だしく――それゆえに明るく健やかではあるが、いささか抑えのきかない性分になったのではなかろうかと世間ではもっぱらの評判だ。
「だが、ここまでやってくるとはな。あの老侯が大切な孫君を手元から離すなど、ずいぶんと思い切ったことをしたものだ」
伝え聞くところによると、若君は猛反対する祖父を説き伏せ、泣いて引き留める祖母や叔母たちを振り切って、明日の命運をも知れぬこの砦に来ることを望んだのだという。
華やかな宴で、ご婦人がたを驚かせる話の種にと軽い心づもりでやってきたまではいいものの、死屍累々たる戦場の凄惨さにおののき、引き連れてきた兵も見捨てて領地へ逃げ帰る諸侯の若君なぞギルバートはうんざりするほどに見てきた。
デュフレーヌのレオに対しても、はじめこそ戦ごっこに憧れる世間知らずの子供が何をしに来たのかと冷ややかな眼を向けていたのだが――少年のふるまいは、どうもそうした連中とは異なっているようだ。
供回りの者も二、三人ばかり、奥方への贈り物として持参したみごとな葡萄酒や美しい織物の数々を除けば、レオの私物として持ち込まれた荷物は驚くほどに少なかったとか。
侯家の跡継ぎともなれば、多くの従者や召使いがつくだろう。砦に赴くにしても、旗指物を掲げて街道をにぎわすほどの行列になってもおかしくはないはずなのに。
まるでありゃあ、雪深きリャザンの大教母さまにお仕えする僧兵みたいな質素さだな。
下働きの男たちが口々にそう言い合っているのを耳にしなければ、とねりこの若君に抱いた印象はずいぶんと異なるものになったに違いない。
「騎士の叙任こそまだだが、剣の腕はなかなかのものらしい。いずれ実戦に立つ日も近かろうと副団長は言っておられたな」
「ただのふぬけではない、ということですのね」
心底残念そうな表情になったレネに、そんな顔をしないでと笑いかけたのはダウフトだった。
「あんまりかっかとしたから、咽喉が渇いたでしょう。みんなで冷たいものでも飲みましょうか」
「そ、そうですわね……って、ダウフトさまはこちらにいらしてくださいッ」
わたくしがお持ちいたします、と四阿に置かれた長椅子にダウフトを無理矢理座らせて、レネはほらあんたもいらっしゃい、とヴァルターの襟首をつかんで引きずっていく。こうでもしないと、あるじが真っ先に厨房へと向かってしまうことを知っているからだ。
「よくこらえたな」
レネとヴァルターの姿が厨房の方へと消えたのを見はからい、長椅子にちょこんと腰かけた娘に騎士は口を開く。
「いいえ。本当のことを言うとわたしもむっときました。これが、なんて物みたいに言われたときに」
赤みをおびた栗色の髪をさらりと揺らして、ダウフトは苦笑する。
「でもそこで、広間に行く前にギルバートと話していたことを思い出したのです。わたしは<ヒルデブランド>をお預かりしているだけ、それ以上でもそれ以下でもないただ
聖剣の御力と、自分とは別のもの。
どんなに高潔な者であろうとも、次第に陥ってゆきかねない傲りという魔性を、冷静に見つめることができる者がいかに稀であるか、この娘は知っているのだろうか。
「それにレオさまは、わたしに怒っているようですから」
意外な言葉に、ギルバートは思わず村娘を見やる。
「なぜそう思う」
「レオさまはきっと、聖女と聞いて思い描く姿があったと思うのです。きれいとか、神々しいとか……でもわたしが全然そぐわなかったから」
少しずつ、自分なりに事をまとめながら話すダウフトに、めったに心裡を表わすことのないギルバートには珍しいことに驚きの色を隠せない。
聖女という存在に若君が抱いた少年らしい憧れは、ダウフトという現実の前にみごと潰え去ったわけだが。曇りない緑の瞳は、事実を受け入れがたいばかりに憤るレオの姿をまっすぐにとらえているらしい。のんきな娘だとばかり思いがちだが、なかなか侮れぬようだ。
「わたしは、ただのダウフトです。レオさまがそれを分かってくださるといいのに」
「あの侯子しだいだな」
ただ単にわがままが通らなかっただけの子供の癇癪まで、おぬしが受け止める必要などあるものか。そう応じようとしたギルバートの双眸が、白い花をつけた低木へと向けられる。
「ギルバート?」
「すまん、少し頼まれてくれるか。本をいくつか置いてきたらしい」
手にした紙片をダウフトに渡し、書庫にいる学僧にそれを見せるようにと騎士は告げる。
「いいですよ。でもギルバート、ほんとうに本が好きなんですね」
笑いながら、ダウフトは紙片につらねられた文字を眺めやる。読み書きこそ知らないが、若い騎士の人となりを如実に表した筆跡をたどる瞳には楽しげな光さえ躍っている。
すぐに戻りますから待っていてくださいねと明るく告げて、軽やかな靴音とともに回廊を駆けていくダウフトの背を見送ると、ギルバートは低木へと向き直り、黙って貴人に対する礼を捧げる。
「まこと、ダウフト殿らしいいらえですこと」
笑みを含んだ声と共に、緑の陰からあらわれたのは砦の女あるじ。供のひとりも連れずに中庭へ赴いてきた老婦人に、騎士は内密の話と悟る。
「殿も困った方だこと。肝心なときにはいつもお留守、わたくしや皆の気苦労もお考えになっていただきたいものです」
溜息と共に馥郁たる香りを放つ花をひとつ手折り、それを愛でながら緑あふれる中庭をながめやる奥方に、ギルバートは声をひそめて返答した。
「広間の一件、砦全体に広まっていると」
「聖なる剣を抱く乙女の心はかくも寛容です。されど我らただ人はそうはいかぬもの」
奥方の言わんとする所に、ギルバートは黙って黒い双眸を伏せる。
<母>から授けられし剣を有する娘に反感を抱く者は、彼女を崇める者と同じくらいに多い。宮廷にも、いくつもの町や村にも、ことによると砦の中にさえもだ。広間での若君のふるまいは、そうした者たちがうごめき出す口実ともなりかねないというのに。
「そう危惧されながら、デュフレーヌのレオを砦に招き入れたのは何故です」
若い騎士の言葉に、奥方はおかしげに灰青の眼を細める。
「気に入りませぬか、エクセター卿」
「お心裡、弱輩者にははかりかねます」
砦の結束を崩しかねないレオの存在ではなく、分からぬことに納得がいかないと告げるギルバートに、奥方は花を愛でつつそっと口を開いた。
「とねりこの若木に、光射す庭へのしるべを」
静かに告げられたことばに、若い騎士はそれが謎かけを解く鍵と知る。
「ダウフトならば、それがかなうと仰るのですか」
「わたくしの勝手な望みやもしれませぬ。ですが、我らを絶望の淵より救った乙女ならばきっと。そう思ったのです」
とねりこの若木は、デュフレーヌのレオ。光射す庭へのしるべは、他ならぬダウフト本人。
つまり奥方は、誰が何と言おうとレオの気の済むようにさせる意向なのだ。そして事がダウフトに関わる以上、<聖女の騎士>としての務めを果たすようギルバートへも暗に命じたことになる。
「そなたには、誰よりも苦労ばかりをかけてしまいますね。エクセター卿」
微笑む奥方に、もはや慣れましたと騎士は嘆息する。
事がこうなったからには、副団長や仲間には奥方の意向をを伝えておかねばなるまい。砦の者たちの間に不信と不和が芽生えぬよう、また幼い主人についてきただけのデュフレーヌ家の召使いたちがとばっちりを受けぬよう目を配る必要があるだろう。
それに、おそらく事あるごとにダウフトへ突っかかろうとするであろうレオを、あるいは侯子と出くわしたが最後決闘を申し込みかねないレネもそれとなく抑えながら、様子を見てゆくより他になさそうだ。
ことがおぬしに関わると、どうにもややこしくなるのは何故だ。ダウフト。
ずっしりと、えもいわれぬやるせなさが両肩にのしかかってくるのを感じる騎士だった。
◆ ◆ ◆
「ギルバート……ひ、ひどい」
右へよろめき、左へ小走りに。
すれ違う者たちがぎょっとして、あわてて手をさしのべようとするのを丁重に断りながら、ダウフトは視界を遮るほどの高さになった本を抱え、先刻足どりも軽くやってきた回廊をよたよたと戻っていく。
「こんなにあるなんて、一言も言っていなかったのに」
預かった紙片を書庫にいた学僧ウィリアムに手渡したところ、やたらと気の毒そうなまなざしで見つめられた。
何の意味かさっぱり分からずに首をかしげる娘の前に、やがて積み上げられたのは、今にも雪崩を起こしそうな本の山。そのいずれもが、魔族の横っ面を張り飛ばす武器にもなりそうなほどの分厚さを誇っている。
「こと書物に関しては、寝食を忘れるほどに没頭なさいますから。エクセター卿は」
困ったようなウィリアムの言葉を思い出し、ギルバートの少しはわたしのたくさんなんだってよく覚えておかなくちゃと決意を新たにするダウフトだった。
「ここを曲がって、それから」
いい加減、腕が震えてきた。でもここで本を落としたら、きっとギルバートはがっかりするだろうと思い直し、ダウフトが突き当たりを左に曲がったときだ。
石畳の上に閃いた、銀の輝き。本の重みによろめきながら近づいた娘は、それが親指の爪ほどに小さなメダルであることを知る。
<母なる御方>を表すうるわしい乙女と、周りに添えられた聖句をかたどった素朴なメダルは、婦人のものと思われる華奢で繊細な銀鎖の端が切れたために、あるじの胸元から離れてしまったらしい。
いったい、誰のものかしら。
砦じゅうの婦人たちの顔を思い浮かべてみるものの、メダルを胸元に飾っていた者はダウフトの知る限りではいなかったような気がする。
だとすれば、兵士か騎士の誰かのものかもしれない。指輪や護符など、家族や想い人から贈られた様々なしるしを身につけて、まだ見えぬ明日のためにと戦いに臨む男たちは多かったから。
見張り塔の兵隊さんや、騎士さまたちに聞いてみよう。そう思い至って、本を回廊の隅にそっと置き、メダルを拾い上げようとダウフトが身をかがめたときだ。
村娘よりも早く、メダルに伸ばされた手。見上げた先には、右手を握りしめたままたたずむデュフレーヌの若君の姿がある。
「レオさま」
緑の瞳を見開くダウフトに、これはいたみいりますと丁寧な物腰で応じたのは、レオの後ろにつつましく控えた老人だった。
「ダウフトさまが見つけてくださいましたぞ。ようございましたな、若さま」
爺やの言葉にも若君は応じなかった。青い鋼玉の眼を剣抱く娘へと向けると、
「おまえなんか、ちっとも似ていない」
そう言ってダウフトを睨みつけると、何も言わずにその横を通り過ぎていく。
「聖女さまに何という非礼を。お待ち下さいませ、若さま」
申し訳ございませぬとダウフトに頭を下げ、お館さまがお聞き遊ばされたら何と申されるかとレオの後を追ってゆく老いた召使い。声をかける間もなく、ただ二人の姿を目で追うしかないままに、ダウフトは今しがた見たレオの表情を思い出す。
自ら放った棘に痛みを覚えたような、ひとり取り残されて途方に暮れた幼子のような表情を。
レオさまは、わたしに何を見ているの。
娘の問いに答えるものは、ただ回廊を吹きぬける風ばかりだ。
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