第2話 Vorte coeur,sans mort.


「ギルバート」

 背後からかけられた、聞き慣れた声に騎士は振り返った。

「交代の時間ですよ。いまアラン卿が、従者のかたと一緒に上がって来られます」

 赤みをおびた栗色の髪を風に舞わせ、いくさ姿に身をよろったダウフトが、城と城壁塔とをつなぐ入り口に立っている。

「そうか」

 淡々としたいらえなど、とうに慣れたもの。気にするふうもなく、村娘は城壁のそばまでやってくると、そこから身を乗り出すようにしてふもとに広がる風景を眺めやった。

「こうして見ると、いくさをしているのが嘘みたいですね」

 少し遅れた春の女神の訪れを寿ぐかのように、一斉に萌え出でる緑たち。この地がうましくにアーケヴ、緑あやなす我らが母よと、人間からも魔族からも呼ばれる所以だ。

「見ているだけならな」

 あえて、そっけない態度をギルバートは貫く。聖剣<ヒルデブランド>を抱く乙女の、すべてを見通すような澄んだまなざしには未だに慣れることができない。

「穏やかなのも今のうちだ。将のひとりを討たれたとはいえ、魔族どもが態勢を立て直すのに、そう時はかからぬだろうからな」

「……また、いくさですね」

 緑の瞳によぎるのは、荒れ果てる大地か、身や心に癒えぬ傷を負う人々か。ふとした折に、聖女の横顔に宿る憂いを知るものは少ない。

「だからこそ、最も気を引き締めねばならん時だというのに。戦勝祝いと称して、のんきな遊びにかまける連中もいる」

 ついこぼしてしまった本音に、何を思ったかダウフトがぱっと顔を上げた。

「じゃあ、ギルバートも聞いたんですね。ディジョンの殿さまが催される武芸大会のこと」

 間近に迫った催しを口にするダウフトに、訝しげに眉をひそめる騎士。

 何故おぬしが知っていると問おうとして、娘が得意げに差し出したものに目がとまり、生真面目な若者は眩暈を覚えて額に手を当てる。

「……ダウフト」

「騎士団長のご一行に、レネと一緒に加えていただくことになったのです」

 ディジョン公の紋章をあしらった盾形のカード――大会の観戦を許された証を手に、ダウフトはうきうきとした表情で話し続ける。

「きっと、村の収穫祭なんて比べものにならないでしょうね。何だかどきどきします」

 国境の砦で繰り広げられる魔族との戦いをよそに、毎夜のように首府エーグモルトの宮廷で催される豪奢な宴。その最中、典雅な趣味人として知られるディジョン公と並びなき武勇を誇るレスター伯の、意中の貴婦人をめぐるちょっとしたいさかいが、今度の大会が催されるに至った経緯とか。

「ええい、この差し迫った時にお許しを出すなどと、大公閣下は一体何を考えておいでなのか」

 招待状を手にした騎士団長の形相に震え上がったディジョン公の使者が、出席の確認もそこそこに執務室を退散したとも聞いている。どうやら宮廷人にとっては、くにの命運をかけた戦などより、みやびな催しのほうが最大の関心事であるらしい。

「ギルバートも行きましょう、きっと楽しいですよ」

「ばかなことを言うな。おぬしのように、気ままに歩き回ることができるわけではないのだぞ」

 呆れかえって答える騎士に、だめなんですかとダウフトはしょげ返る。どうやら、自分を頼りにしていたのに当てが外れたらしいと悟って、ギルバートはほんの少し表情をやわらげる。

「砦からは騎士団長が観戦のため出席される。随員として数名の騎士が選ばれるだろうが、後の者はすべて待機だ」

「つまりギルバートは、留守番なんですね」

 ようやく、合点が行ったという表情でダウフトはうなずく。あまりにも率直すぎる言葉に、更に眩暈を覚えた騎士は壁に寄りかかる。

「そんなにがっかりしないでください、ギルバート」

 レネとなにかおみやげを探してきますからと、慰めてくれているらしい娘の笑顔が恨めしい。

 どうやらのんきな聖女は、武芸大会はもちろん、それを目当てに立てられる市や屋台を覗いてくるつもりでいるらしい。服の裾をひるがえし、野山を駆け回っていたころとは違うのだ。いま置かれた立場というものをもっと自覚しろと、いつもの説教癖さえ出てきそうだ。

 いやそれよりも、アーケヴの若き騎士にはひとつだけ気にかかることがあった。

「そもそも、今回の催しにおぬしが招かれたのはなぜだ?」

 宮廷人たちにとって、武芸大会は己が家門や出自を誇る晴れの場だ。アーケヴの守り姫として、今や名を知らぬ者はないとはいえ、もとはただの村娘でしかないダウフト――明らかに自分たちよりも生まれが低いと見なす者を招こうとは、どういう了見なのだろう。

 異質なものを認め受け入れるほど、果たして貴族社会は寛容であっただろうか。騎士として末端につらなるギルバートには、到底そうとは思えなかったのだが。

「モンマスの姫さまが、お声をかけてくださったのです」

 ダウフトの口から、意外な人物の名が挙がったことにギルバートは驚く。


 アーケヴ大公の廷臣モンマス伯には、娘御が三人。

 姉姫ふたりはすでに他家へ嫁いだが、末の姫がまだ父御の元にいると聞き及ぶ。咲き初めたアネモネのごときうるわしさに、求婚の列に並ぶ貴公子たちが引きもきらぬとか。

 それにモンマス伯は、武芸大会の主催者であるディジョン公の数多い親族のひとりだ。今回の騒ぎを受けて、温厚な伯は、己が城のひとつを武芸大会の会場として貸し出すことにしたという。

「先日、騎士団長とともにモンマスのお城へ行ったときです。姫さまがわたしにご用がおありだと、お側づかえのかたに呼び止められて」


 聖剣の奇跡をふるうあなたがおいでになれば、名だたる騎士の皆さま方の士気も上がりましょう。特別にお席も用意させていただきましたのよ。


 侍女や小姓にかしずかれ、絹の扇で口元を隠し優雅に微笑み告げた姫。ぜひおいでくださいますわねと問われて、一も二もなく同意したのだという。観戦証もそのときにいただきましたと、ダウフトはにこにこと笑っている。

「姫さまのお招きがなかったら、当日はヴァルターに無理を言って服を貸してもらうところでした」

 こっそり抜け出してまで、武芸大会を観に行くつもりであったことをうっかり口にして慌てるダウフト。ほんとうに目の離せぬ方ですねと、ギルバートの仕度を手伝いながらそう話していた従者の表情は、聖女に対する憧憬とおかしみに満ちあふれていたものだ。

「あの、ギルバート?」

 てっきり、いつもの小言が降ってくると思ったか。首をすくめていたダウフトが、不思議そうに問いかけてくる。

「せいぜい、礼を失することのないよう気をつけることだ。山だしの田舎娘が相手では、姫も大変だろう」

「あっ、そういう言い方をするんですかっ!」

 もうギルバートになんて、おみやげを持ってきてあげません。レネと一緒に、うんと楽しんできてしまいますからねとふくれる娘をひとり残して、アーケヴの騎士は石段を降りはじめた。

 先刻から感じる、釈然としない気持ちをダウフトには告げぬままに。



               ◆ ◆ ◆



「相変わらずの仏頂面だな。ギルバート」

 中庭に面した回廊の柱、その一つにもたれかかっていたひとりの騎士が快活な声と共に軽く手を上げた。

「戻ったか、リシャール」

 気難しげな表情を和らげて、ギルバートは友のもとへと近づき、再会のしるしに肩を叩き合う。

 副団長の随員として、ランスの公会議へと赴いていたリシャールの顔を見るのは半月ぶりだ。琥珀を思わせる髪と目、屈託のない陽気さと秀麗な姿は、洗濯娘から騎士の奥方まで砦に住まうあらゆる婦人たちの視線を集めずにはいられない。

 自他ともに認める堅物のギルバートと、何ゆえ馬が合うのやら。騎士団における大いなる謎の一つとして、人々はこっそりと語りあっている。

「それはそうと、何の騒ぎだ」

 行李や櫃を抱えた従者たちが回廊を右往左往するさまに、ギルバートは訝しげな顔をする。中には相当埃をかぶっていたものでもあったのか、くしゃみがとまらぬ者もいるようだ。

「団長だ。急に馬上試合用の鎧兜を出せと命じたものだから、えらい騒ぎになってな」

 何ゆえに、とギルバートの頭で疑問符が躍る。武芸大会は観戦のみで、参戦するとは言っていなかったはず。それどころか、愚痴すらこぼしていたはずなのに。

「あまりの周囲の熱狂ぶりに、年甲斐もなく感化なされたか?」

「何をのんきなことを。ダウフト殿のためだ」

「ダウフトの?」

 問い返すギルバートに、明るい髪と目をした騎士は溜息をついた。

「朴念仁とはまさにおぬしのことだな。武芸大会に臨席するご婦人がたには、それぞれに忠誠と勝利を捧げる騎士がいるだろうに」

 友の言葉に、ようやく事情が飲み込めたギルバートは唖然とする。


 仮にも騎士団長という立場にあろう方が、勝利と忠誠を捧げる騎士役を買って出たというのか。

 それも、ダウフトのために!


「何という無謀なことを、副団長はお止めしなかったのか」

 時に若い騎士たちをも驚嘆させるようなことを、平気でやってのける白髯の騎士団長。彼を諌めることができる者など、数十年来同じ戦場を駆け巡ってきた副団長か、優雅な微笑とともに夫君の手綱をしっかと握って放さぬ奥方くらいなものだろう。

「副団長はモンマス伯のもとだ。ダウフト殿に用意された席の件で、怖ろしい形相で執務室を飛び出していってな」

 リシャールの言葉に、ギルバートは先刻から感じていた釈然としない何かが当たったことを悟る。

「モンマスの姫が、ダウフトを大会にお誘いしたのは三日前だと聞くが」

 呟くように問いかけた騎士に、皮肉げに口元をゆがめてリシャールは答える。

「驚くなかれ、観戦の締め切りは五日前だ」

 当然、観戦者名簿にダウフトの名が載せられるはずもない。

 モンマスの姫はそれを知っていた。知りながら、ダウフトに武芸大会の観戦を持ちかけたのだ。

「つまり、我らが守り姫に与えられる席は競技場の外野。埃が舞い泥水が跳ね上がる、しもじもの桟敷というわけだ」

 琥珀の双眸に閃くものは。抑えた声音と、かたく握り締められた掌に潜むものは。

「ダウフト殿の話を聞いて、妙に思われた副団長が調べたのさ。案の定とでもいうべきか」

 慎ましやかでたおやかなるはモンマスの末姫。けれどもその笑みにこめられたものは、<ヒルデブランド>を抱く乙女へのひそやかな悪意。

 たとえ聖なる剣に選ばれようとも、所詮は地を這いずる下賤げせんの生まれ。ダウフトのために、色とりどりの花に彩られ繻子のクッションに囲まれた貴婦人席が設けられることはない。我が勝利は御身に捧げんと、名誉をかけて戦う騎士もいはしない。

 それをわざわざ、公の場であの娘に思い知らせようというのか。

「おまけに厄介なことに、大会にはランスの市長や評議会議員たちも招かれる」

「ランスの?」

 かつて、ダウフトがひとりの魔族と対峙した都市だ。

 力ある存在を討ち取ったものの、<ヒルデブランド>のために著しく消耗したダウフトは、二日のあいだ目を覚まそうとはしなかったのだ。

 勝利に沸き立つ市民たちの歓呼と歌声を遠くに聞きながら、寝台に横たわる娘の青ざめた顔を見たときの、氷の手で心臓を鷲掴みにされたような感覚を思い出し、ギルバートは慌ててそれを振り払う。

「ランスの市長は、ダウフト殿の熱烈な崇拝者だ。町の救い主が、はしため当然の扱いを受けたなどと知ったら黙っていようはずもない」

 それに、とリシャールは付け加える。

「ランスとディジョンは、いま羊毛の輸出権をめぐって対立している。そこへダウフト殿のことが絡んでみろ、どのようなことになるか」

 ディジョン公にとっては、取るに足らぬ貧しい田舎娘。ランスの市長にとっては、生まれ育った故郷を救った聖女。

 その温度差が、くにを挙げて魔族に抗せねばならぬこの時に、どのような不協和音として現れてくるのか。いくさにどのような影響を及ぼすことになるのか。単にダウフトの存在が目障りというだけで、恥をかかせようと目論んだモンマスの姫は思い至りもしなかっただろう。

「問題は、考えなしの姫君を煽った輩がいるということだ。側づきの女しかり、従者しかり」

 かりそめとはいえ、一つにまとまりつつある国の和を乱すことを意図したものか。それとも、過ぎたる力を持つに至った娘に対する小人のやっかみか。

 どちらにせよ、一度ことが起きればダウフトひとりの問題ではなくなってしまう。

「……あやつは、何も知らんのだぞ」

 堅物騎士の心に、ひとしずく落ちた暗い焔。それはひとを貶め楽しむことに、何のためらいも抱かぬ姫君への怒りとなって燃え上がる。

 生まれて初めて、華やかな催しを間近に見る喜びに舞い上がったダウフトは、姫君の申し出をただ純粋な好意として受け取ったに違いない。

 一つのことばに、別の意味を匂わせる雲上人の話法など彼女にはまるで縁のないもの。ましてや、心弾ませ向かおうとしている場所に酷い仕打ちが待ち受けているなどと、どうして思うことができるだろう。

「席のほうは、団長の随員として加えるよう副団長が伯にかけ合っている。だがいま一つのことは、おぬしの出番ではないのか。ギルバート」

 唐突に話を振ってくるリシャールに、騎士は黒いまなざしを眇めた。

「何のことだ」

「おいおい、野暮なことを言わせてくれるな。まさかご老体に、道化も真っ青の喜劇を演じろというわけではあるまい?」

 それが、ダウフトのために大会へ飛び入り参加しようとしている騎士団長を指すことにギルバートは気づく。

「心意気は結構。だが団長では、幼い孫姫を喜ばせようとする祖父殿のふるまいにしかならんよ。いずれ奥方がお止めするだろうが、代わる者がいなければあの御仁は納得されんぞ」

 だから、おぬしが行け。言外にそう告げていることを悟り、若い騎士は顔をしかめた。

「冗談ではない。いつ魔族が動くとも分からん時に、つまらぬ事にかまける暇などあるものか」

「ダウフト殿はどうなる。勝利を捧げる騎士すらおらぬと、あの方が笑い者にされても何とも思わんのか」

「小娘ひとりの名誉と、くにの安寧とを比べる気か」

 この期に及んで、まだ冷ややかさを取り繕おうとする男にしびれを切らしたか、

「ああそうか。ならば仕方ない、他の者に助力を請うとしよう」

 琥珀の双眸で友を睨み、リシャールはわざとらしい口調で言い放つ。

「少なくとも、この砦でダウフト殿の騎士にと望まぬ者はおらんぞ。モンマスの姫や、どこぞの堅物男は知らぬようだがな」

 友の言葉に、ギルバートは黒い双眸を見張る。ならばおぬしが、と口の端まで言葉が出かかったが――いつになく真摯な友の表情は、なぜかそれを拒んでいるような気がしてならない。

「だが誰もがそう望んでも、あの方が微笑みを向ける者はただひとり。それがこんなにも薄情きわまりない、友の誓いをした幼い日を悔やまずにはおれぬような男であってもだ」

「リシャール」

「俺は、ダウフト殿に心から催しを楽しんでいただきたいだけだ」

 従者たちに運ばれてゆく大きな櫃を眺めやりながら、リシャールはぽつりと言った。

「つまらぬ輩のあさましい企みごときで、あの方が顔を曇らせるさまなど見たくはない。それだけさ」

 本当は招かれてなどいないことを、彼女のための席など用意されていないことを。

 騎士団長も、副団長も、リシャールも、おそらくは他の騎士仲間や砦の者たちも、誰ひとり真実を告げることなどできはしなかったのだ。

 武芸大会の日を、指折り数えて待っているダウフトに。

 側づきの娘たちと旅支度を整えながら、砦へ残る者たちへのみやげを何にしようかと無邪気に話すダウフトに。

 だから、こうして埃だらけの櫃を積み上げ、モンマスの城まで早馬で出向き、道化と知りながら騎士役を買って出ようとしている。

 ならば、自分は?


(ギルバートも行きましょう、きっと楽しいですよ)


「団長はどこにおられる? リシャール」

「さて、武器庫のあたりだったかな」

 友のいらえに、そうかと一言だけ呟いてギルバートはきびすを返す。

「当日は留守番ではなかったのか、エクセターのギルバート殿?」

「返上するッ」

 横に並び歩き、やはりそう来てこそおぬしだなと快活に笑う友を横目で睨む。結局は乗せられたかたちになってしまったが、こうなったらとことんやってやるという妙な意地が頭をもたげてくるから始末が悪い。それもこれも、すべてあの娘ひとりのせいだと思うと、よけいに腹立たしくもなるのだが。

「示してやる」

 伊達に、ごたいそうなふたつ名で呼ばれているわけではないことを。



                ◆ ◆ ◆



「いやはや、じつに愉快な催しだった」

 武芸大会が盛況のうちに幕を閉じてから二日後のこと。

 うららかな日差しが降り注ぐ回廊で、仏頂面のギルバートを前に、これまた愉快でたまらぬ様子で話しているのはリシャールだ。

「少しは嬉しそうな顔をしたらどうだ? あれだけの観衆の前で、惚れ惚れするような戦いぶりを見せたものを」

「……おぬしの口車に乗せられただけだろうが」

「なんということだ。騎士たる者、つまらぬ疑いなど口にするものでは」

 なおもギルバートをからかおうとしたリシャールが、ふいに表情をにこやかなものに改めた。いくさ姿を解き、春らしい装いを纏ったダウフトが軽やかな足音とともにやってきたからだ。

「おや、どなたかと思えば我らが守り姫のお出ましではありませんか」

「こんにちは、リシャールさま」

 よろしかったらどうぞ、とダウフトが差し出したのは、籠いっぱいに入った新鮮な果物だ。武芸大会でにぎわうモンマスの城下をレネと共に歩いていたところ、ベジエからやってきた物売りの屋台ですすめられ、皆へのおみやげはこれにしようと決めたのだという。

「かぐわしい春の便りだ。さぞ皆が大喜びしたことでしょう」

「はい。奥方さまが、これを使ってお菓子を作るようにとノリスさんにお話していました」

 砦の厨房を預かる男の恰幅良い姿を思い浮かべたのか、ダウフトはくすくすと笑う。もしかすると、どんな菓子ができるのかと楽しみにしているのかもしれない。

「武芸大会は楽しんでいただけましたか、ダウフト殿」

 優しく問うリシャールに、ダウフトは瞳を輝かせてうなずく。華やかなものに憧れるふつうの娘の顔だ。

「まるで夢のようでした。あんなにすてきなものを見るなんて、きっともう二度とありません」

「それは寂しいことを。我が武勇をぜひお目にかけたいと願う者が、砦にも大勢ひしめいておりますものを」

 リシャールの言葉に、それは頼もしいですねと笑ったダウフトの頬がうっすらと染まる。

「武勇といえば、あの騎士さまはすばらしかったですね」

 それが、武芸大会から帰ってきたダウフトからもう何遍も聞かされた話であることに、黙って友と乙女とのやり取りを聞いていたギルバートは気づく。


 貴紳淑女が集いし豪華絢爛な騎馬試合の会場に、突如現れたるはひとりの騎士。

 顔は兜の下、深く下ろされた面頬のために見ることはかなわない。

 身を覆う鎧も、見事な飾りの数々も、目利きが見れば名だたる匠の手になる品と分かるもの。すべらかな生地に金糸銀糸で刺繍を施した馬衣を纏った若駒をゆるりと進め、無名の騎士は居並ぶ諸侯や貴婦人たちに、優雅に礼をしながら競技場を進んでいく。

 いかなる家門につらなる者かと、紋章官たちは懸命に目を凝らしたが、それとわかるしるしはどこにも見当たらない。騎士に問いただしても、返ってくるのは沈黙ばかり。

 その威風堂々、その豪奢、その高雅。

 人々のどよめきが収まらぬ間に、件の騎士は観戦席に居並ぶ騎士団長や騎士たちの前で駒を止めた。

 右手にした馬上槍が、高々と掲げられる。

 勝利と忠誠を誓うそのしるしが、騎士たちの中に座すダウフト――いくさ姿に身を包んだ砦の乙女に捧げられたものであると知れたときの人々の驚きときたら!

 そうして、名もなき騎士が繰り広げた試合の見事なさまときたら!


「五人の騎士さまと手合わせをして、三人の槍を折り砕き、ひとりを馬から落とし。残るひとりは剣で。すべてに勝ってしまうなんて」

 突然の番狂わせに、アーケヴの廷臣たちをはじめ、会場の内外に詰めかけていた観衆たちも大いに沸いた。

 とはいえ、ご自慢の騎士が次々と打ち負かされた、一部の貴婦人がたのご機嫌はうるわしくなかったようだ。ことにモンマスの末姫ときたら、気分がすぐれませぬと言い置いて、供回りの者を連れて早々に引き上げてしまったほどに。

 勝利の冠も、主催者じきじきの褒賞も受けることもなく、沈黙と共に去っていった騎士。ついに兜をぬぐことのなかったかの者の正体をめぐり、巷ではさまざまな噂が飛び交っているという。

「宮廷では、詩人たちが競って披露する歌に溜息をつく姫君がたが多いそうです。疾風のごと、現れたるは白銀の騎士――だったか、いやそれとも」

 琥珀のまなざしが、おかしげに仏頂面の友に向けられる。

「輝く槍を天に掲げ、『御身の心か、さもなくば死の抱擁を』と騎士は乙女に告げ」

「そんなことは言っておらんだろう」

 強い口調で言い放ってから、ギルバートは後悔した。にやにやとした表情でリシャールが、驚いた目でダウフトが自分を見つめているではないか。

「い、いや。仮にも沈黙のと呼ばれるほどならば、そんな言葉は口にしなかっただろうに」

 覚えていろリシャール、とギルバートは心の中で呟く。


 計画の一端を、リシャールが騎士団長に打ち明けた後の騒ぎときたらなかった。

 すっかりその気になった老騎士は、新たに作らせていた鎧をギルバートの身体に合わせて打ち直し、まばゆく磨き上げるようにと鍛冶衆に命じた。そのあまりのはしゃぎように不安を覚え、砦の守りはどうするのですとごくまっとうな問いを発したギルバートに、わたしが代わろうと応じたのはアラン卿だった。

「その二つ名がまことのものであるならば、御身はあの方と共にあらねばな」

 穏やかに笑った卿の人の良さを、これほど恨めしく思ったのは後にも先にも一度きりだ。

 加えてどこで聞き及んだものやら、奥方をはじめ砦の婦人たちが総出で、衣装箱の奥から引っ張り出してきたマントや馬衣を丁寧に洗い上げ、綻びを繕い、新たに飾りを施した。

 どう考えても、事態を楽しんでいるとしか思えない人々によって、すっかり武者人形のようないでたちにさせられたギルバート。先に発った騎士団長の一行に遅れること二日、モンマス伯の城に愛馬で乗りつけるはめになったのだ。

 「乙女の御為に、勝利を捧げんとする名もなき騎士」などという道化を演じている間、面頬をすかして騎士仲間や団長の様子がしっかりと見えた。揶揄するような表情で試合の行く末を見守っている者もいれば、それ行けやれ行け<狼>の名を汚すなと夢中になって叫ぶ者までいる始末。

 頼むから騒いでくれるなと心で祈りつつ、迫り来る相手が繰り出した馬上槍の切っ先を何とかかわし、隙をみて自らの槍先を叩き込む――

 沸き起こる歓声も、称賛もどうでもよかった。

 兜を弾かれはしないか、落馬はしないか、何よりダウフトに正体がばれはしまいか。

 それだけは断固、何としても避けなければならなかった。

 エクセターのギルバートは、あくまでも砦への居残り、留守番組。武芸大会にかまけている暇など、わずかもありはしないのだから!


「騎士さまに、またお会いできると思いますか? ギルバート」

 唐突に話かけられて、若い騎士は心臓が跳ね上がらんばかりに驚く。最も、仏頂面が幸いして内心の動揺をダウフトに悟られることはなかったのだが。

「会ってどうする」

「だって、嬉しかったのです」

 アーケヴの春に満ち満ちる甘い緑のような、聖女のまなざしが騎士をとらえる。

「ことばに出さなくとも、わたしのためにと告げてくださったあの方の気持ちが、ただ嬉しくて」

 またお会いできたら、一言でもいいからお礼を言いたいのです。

 うっすらと頬を染め、ほころぶ花のような唇で告げる乙女のあでやかさに刹那心奪われかけて、

「……おぬしが、そう望むなら」

 かろうじて口にした言葉がこれだけとは、情けないことこの上なかったけれども。


「ギルバートがそう言ってくれるなら、大丈夫ですね」

 満面の笑みと共に、ダウフトは皆さんにも届けてきますと告げて果物の入った籠を抱えて歩き出そうとする。重たげなそれを、横合いからそっと取り上げたのはリシャールだ。

「私も同行しましょう。か弱き乙女にこのようなものを持たせては、騎士の名折れ」

 歯の浮くような言葉も、友人が口にすると様になるから不思議なものだ。俺などには到底できぬ芸当だなと感心するギルバートに、ダウフトへ先に行くようにと促していたリシャールが振り返った。軽く片目をつむり、ご苦労さんと小さく告げたその表情は、どこかおかしみすら漂っている。

「……まったく」

 ふたりの背を見送って、ギルバートは溜息とともに回廊の壁にもたれかかった。ダウフトに見つからぬよう、とっさにマントの陰に隠したものをそっと手に取る。

 華やかな薔薇でも、たおやかな百合でもない。緑萌ゆるアーケヴの野で風に揺れる白い花――どよめきやまぬ武芸大会の会場で、「かの騎士へ、あなたのために戦うゆるしを」とリシャールに耳打ちされたダウフトが、おずおずと差し出したささやかな証だ。

 頼りなげでありながら、どこか凛とした姿は、まるで花を差し出した主のよう。そう思いかけて、若い騎士は慌ててそれらの思いを振り払ったのだが。

「<聖女の騎士>か」

 先刻、ダウフトがやってくる前にリシャールから聞いた、武芸大会の話題をさらった無名の騎士につけられたというふたつ名を思い出し、ただ苦笑するしかない。

「大袈裟なことだ」

 それは砦で、ダウフトの傍らにある自分に、いつしかついてまわるようになった呼び名と同じもの。


 砦の騎士も名もなき騎士も、どちらも冷たい鋼の下にまことの心を押し隠した臆病者に過ぎないが。

 しばらくの間、この一件で仲間たちにからかわれることを辛抱せねばならないだろうが。


 面頬のむこうに見えた、剣抱く乙女の姿を。

 どうかご武運をと告げる、澄んだ瞳を。


 花のような笑みを、何ものにも代えがたいと思う気持ちに偽りはない。


(Fin)

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