未来のゆりかご

大西 憩

未来のゆりかご

 夏の暑い日だった。僕は都内の古惚けたワンルームでぼんやりとベランダに足を投げ出し、窓辺に座っていた。肌を刺すような日差しが足元まで攻めっている。じわじわと蝉の鳴く声を聞いて、蚊取り線香のにおいを嗅いだ。冷暖房機具をもっていないので動かないことが賢明だといつもなら一人で日が傾くまでじっとしているのだが、今日はいつもと違う。

 僕の隣に赤ん坊がいるのだ。僕は今朝、慌てて赤ちゃん用品を買いあさり、扇風機を買った。直接風を当てると身体によくないときいたので、壁に向かって扇風機を点け、買ったばかりで多少においの強い小さいイ草マットと、冷感シートを敷きその上に赤ん坊を寝かせた。

 赤ん坊との出会いは本日の早朝だ。日の出とともに扉を何度も殴りつける金属音で目が覚めた。古臭いアパートならではのペンキでべた塗りにされた、薄っぺらな金属の扉を重苦しく開けた。おくるみに包まれた赤ん坊が扉に当たらないであろう床に寝かされていた。慌ててあたりを見渡しても誰もいない。

 誰かが連れてきたのであろう赤ん坊を抱きかかえると、抱きかかえられた揺れで起きてしまったのかうっすら眼を開けてこちらに手を伸ばしてきた。手に指を沿わせるととんでもない力で握り返された。おくるみの中には『未来の君の子どもです。』と、殴り書きのメモをみつけた。なんのいたずらかと思ったが、とりあえず僕は赤ん坊をそのままにしておくわけにもいかず、部屋へ招いた。

 僕の部屋にある一番上等なクッションに赤ん坊を乗せてやった。ふわふわのクッションであるが故にバランスがとりにくいのか、赤ん坊は体をくねらせた。それから店の開く時間とともに赤ん坊をつれて僕は部屋をとび出て、必要最低限のものを買い漁り、今へと至る。

 とても静かな赤ん坊だった。嫌そうに顔をゆがめることはあっても、声を上げて泣くことはなかった。一人暮らし用の賃貸アパートに住んでいる僕としてはとても好都合だが、なにが不快なのかがわかりにくくて困った。頬をつつこうと口元に指先をもっていくと、赤ん坊はその指に吸い付いた。

「何も出ないけど。」

 そういっても赤ん坊は吸い付くのをやめなかった。僕は初めてこの赤ん坊がかわいいと思った。さっきまでは何とかしなくちゃいけない対象だったが、余裕が出てくると愛おしく感じてきた。白くて大福のような頬に、じんわり汗をかき細くて柔い髪が張り付いた額。赤ん坊の肌をじっくりみているとなんだか透けているように血管が見える。額の皮膚は薄いわらびもちのようだった。額に張り付いた髪を指でかき分けてやると瞼を半端に閉じたり開けたりする。

「眠いの?」

 声をかけると、赤ん坊は「あー」だの「うー」だの声を発し、口端に唾液をためた。

 赤ん坊というのは泣いているとき以外、にこにこと笑っているものだと思っていた。どうにも基本的に無表情で、あちこち目を見張っている様子だ。自分がこれまで思っていたよりも動物的で愛らしい。

 産まれてどれくらいたつのだろう。昔テレビで見た産まれたての赤ん坊のように赤くてしわくちゃなわけではなかった。白くて柔くて餅のような肌だった。わからないことがこうも多い以上一度病院へ連れて行った方がいいな。と自分の中で納得した。次の休みに病院へ連れて行くことにした。

 ――病院へ連れて行くと、赤ん坊は極めて健康で生後3か月ほどはたっているという。母親の心当たりはないかと尋ねられたが、彼女のいない僕には特段思い当たる人はいなかった。とりあえず本当に僕の子どもなのか、遺伝子検査をすることになったが今日のところは帰ってもいいとのことだった。

 僕はずっと抱っこ紐でくくられ、胸の中に顔をうずめていた赤ん坊に目をやる。赤ん坊は機嫌がいいのか悪いのかわからない表情で僕のシャツをいじくるように雑に掴んだり離したりした。

「君のお母さんは誰なんだろうな。」

 僕は貰った小さいゆりかごを整え、赤ちゃんを抱っこ紐から解放しそこへ乗せた。病院の看護士に「足裏同士を優しく拍手のようにあててやると喜びますよ。」と言われたのを思い出し、その通りにした。すると赤ん坊は声は上げずとも口角をあげ、両腕を揺らした。

「そうか、こんなのが楽しいか。」

 僕は自分の口角も上がっていたことに気付いた。もしかしたら、この赤ん坊は今の僕の顔を真似しているのだろうか。足の裏を優しく揉んでやるときゃっきゃっと次は声を上げて喜んだ。

 僕はその日の夜、随分連絡をしていなかった自分の母に電話した。すると母は興奮した様子で赤ん坊を見に行くと言ってきかなくなり、急遽その日のうちに僕の部屋へやってきた。母は赤ん坊をみるなり嬉しそうに駆け寄ってきた。

「前に付き合ってた千佳ちゃんと違うの。」

「千佳とは1年も前に別れたし、…僕の未来の子どもらしいんだよね。」

「そんないたずらのメモ信じとるの?」

 母はメモのことは点で信じていないようだった。僕より歳が3つほど小さい、体の華奢な女の子と僕は去年まで付き合っていた。そういえばこの赤ん坊は彼女に似ている気がする。

「一回電話して、一緒に話し合わな。そしてあんたは、ちゃんと謝らなあかん。」

 母は赤ん坊をあやしながら僕の背中をさすった。僕は母に抱かれる赤ん坊を横から覗き込み、頬をつまんだ。赤ん坊はちらとこっちに目をやったが、すぐに母へと視線を移してしまった。母は次の日の朝、また実家へ帰っていく際「ちゃんとせなあかんよ!ケジメや!ケジメ!」と駅のホームで大きな声をあげたため、僕は新幹線が発進するのを見届けるとそそくさと部屋へと戻った。

 その日のうちに僕は一年前まで付き合っていた彼女、千佳に電話をし突然現れた未来の赤ん坊の話をした。彼女は赤ん坊を生んだ覚えはないし知らないと言ったが赤ん坊は見たいと今度僕の部屋へやってくる約束をした。

「赤ん坊つくるなんてやるね。」

 彼女は微笑みながら赤ん坊をのぞき込み、赤ん坊の手のひらに指を置いた。ぎゅっと握り返され「思ったより握力強い。」と笑った。

「名前は?」

 彼女は屈託なく聞いた。

「ないみたい。一緒にあったメモにも何も書いてなかった。」

 僕はゆりかごの中からぐしゃぐしゃのメモを取り出した。透かしても何も浮かんでこない。

「ふーん、名前は何にするの?」

「そんな。まだ僕の子どもと決まったわけじゃないのに。」

「けど、君の未来の子どもなんでしょ。」

 彼女は笑いながら赤ん坊を抱いた。千佳は付き合っていた頃から変わらず屈託のない少女だった。千佳が優しく赤ん坊をだくと赤ん坊はとりわけ嬉しそうに声を上げ、千佳の頬を指でちろちろと撫でた。その姿は本当の親子のようだった。

 それからしばらく立ち、僕はまた病院にいた。赤ん坊を抱えながら、待合室でじっと待つ。周りには妊婦や、赤ん坊を連れた女性が多く、待合室唯一の男である僕は様子をうかがわれているような視線を感じていた。診察室へ呼ばれ「遺伝子検査の結果、君と一致したよ。」と告げられた。心当たりの有無を改めて聞かれたが、本当にそんなものはなかった。

「母親はO型みたいだね。」

 といわれ、僕はすぐに千佳がO型だったことを思い出した。突発的に、この子未来からきた僕の子どもらしいんですが、そんなことはあり得るんですか。と尋ねたくなった。この医者だってそんな突飛なことを聞かれても困惑するだけだし、僕が異常者扱いをされ赤ん坊を取り上げられても恐ろしいと思い、「そうですか。」と一言だけ発し、僕は診察室を出た。

 僕は自分の部屋へ戻り、赤ん坊と対峙し「僕の子か。」と声に出した。赤ん坊はやはり「あー」だの「うー」だのしか返事をせず、音の鳴るおもちゃを握り締めていた。

 僕はなぜか、千佳に電話していた。「僕の子どもだって。」と話し始めると、ちょっとした沈黙の後に「ふーん。」と彼女は言った。

「けど、僕、その頃誰とも赤ん坊のできるようなことはしてないんだよね。」

「なあにそれ、現に赤ん坊がいるじゃない。」

 千佳は怒っているわけでも困っているわけでもなく、飄々と話した。

「この子の母親、O型なんだって。」

「そうなんだ。私とおんなじね。」

 彼女はきっと今、はみかみながら話しているだろうと思った。その声を聞きながら、僕は自分が何を言いたいのかわからなくなってきた。

「千佳、また僕と一緒にならない?」

 僕はいつのまにかそんなことを口走っていた。

「私はお手伝いさんにはなれないわよ。」

「そんなつもりじゃない。もし家族になるなら、千佳がいいと思ったんだ。」

 僕は気持ちのまま話した。するとさっきまで笑いながら話していた彼女は黙ってしまった。

 数分の沈黙の後、彼女は口を開け「明日、君の部屋へ行ってもいい?」と言った。

 次の日、千佳が僕の部屋にやってきた。大きな荷物をもって。

「その荷物は?」

「今日から暮らすの、ここで。」

「おいおい、ワンルームだぜ。」

「O型のお母さんなんでしょ。」

 千佳はそういってにっこりと微笑んだ。僕は気圧されて、彼女を部屋へと招いた。

「こんにちは、赤ちゃん。お母さんですよ。」

「千佳に似てるよね。」

「どこ?」

「眉毛、とか。瞳の形。」

「はーん。」

 そういって、千佳は赤ん坊の手の平をちょいちょいと突いた。赤ん坊はぎゅっと力強く千佳の指を引きちぎらんばかりに握った。

「うわ!強い!」

「僕も握られた時吃驚した。」

「赤ん坊って強いのね。」

 そういって、千佳は赤ん坊の頬にキスをした。赤ん坊はこの世界で一番、幸せそうにわらった。

「ねえ、明日不動産屋に行こうよ。家族3人で住める場所に行こう。」

 千佳はそういって、僕の頬にもキスをした。

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