三途の岸辺より

大西 憩

三途の岸辺より

 彼は幽霊だった。 誰かに見られることも、触れられることもない。ひたすらに独り、孤独な幽霊だった。彼に生前の記憶はない。ぼーっと毎日、日当たりのいい裏路地のど真ん中に常に突っ立っていた。彼は少し上を向いた状態のまま動けず、ぼんやりしていた。その視線の先には日当たりのいい古いアパートの一室があり、彼は一種、強制的にその部屋を眺めるような形になっていた。

 その部屋には、小柄な老婆が住んでいた。

 どういうわけか彼はその部屋からひと時も目が離せない。湾曲したレトロデザインの面格子が窓にかかっていて、窓べりに置いてある一本の黄色いチューリップだけがかろうじて見えた。

 老婆は、晴れた日はほとんど毎日窓を開け、日光浴をし、時にはその格子にハンガーをひっかけてハンカチや靴下、くたびれたパンツなんかの洗濯ものを干していた。彼に思考力はほとんど残っていなかったが、毎朝小柄な老婆がひょっこり窓から顔を出すたびに、なぜだか心がホッとした。

 ある日、土砂降りの雨が降った。彼はじぃっと目を瞑り、頬に雨の当たる感覚を思い出しているようだった。幽霊なのでもちろん頬に雨は当たっていないし、感覚などもないのだが。雨の音を聞いていると生きていたころの記憶が戻ってくるような変な感覚に陥った。

 しばらくすると、近くで誰かの歩く音が聞こえた。彼は目を開けた。ギョロリと目玉だけを動かし対象を確認すると、いつも窓下から見ていた老婆がゆっくりとこちらに向かって歩いてきていた。老婆は清潔そうな白色の雨合羽を羽織り、透明なビニール傘を差していて、うつむくようにしながら一歩一歩ゆっくりこちらへと向かう。

 彼は目玉だけで老婆を見ていた。老婆が歩くたびに鳴る鈴の音が頭に響くようだったが、普段この裏路地にこない老婆がどこに行くのかを視線で追っているようだった。 老婆はふと立ち止まり、しゃがんだ。彼は少し上を向いた状態から動けなかったので、老婆が何をしているのか詳細を確認するのは難しかったが、何かを拾っているような動きだった。干していた洗濯物でも落としたのだろうか、老婆はゆっくり立ち上がると、元来た道をたどるように戻っていった。

 夜になると老婆の部屋に明かりがつき、雨は一層激しくなった。窓を見つめていると、淡いベージュのカーテンは閉じていて、窓べりに飾ってあるチューリップの影だけがうすぼんやりと見えた。時折老婆の通る影も確認できた。

 この裏路地は、人通りが少なくとても暗かった。老婆の住むアパートも、ほとんど人が住んでいるような様子はなく、老婆の部屋と、もう一室にだけ誰かが住んでいるようだった。全部で6部屋程あったが、その内の2部屋にしか人は入っていないようだった。

 次の日の雨上がり、青々と晴れた。彼に暑いという感覚はないが、太陽がひどくまぶしく目を細めてしまうほどだった。早朝、老婆は窓を開けると、にこにことした表情で窓格子を拭いていた。 彼は老婆の笑った顔が好きだった。基本的に真っ暗な泥の中でじっとしているような感覚で、寝ているのかおきているのかわからなかった。しかし、老婆をみると少し心が晴れたような気分になるのだった。

 目を閉じて、耳を澄ますと老婆の家からテレビの音であったり、ちょっとした話声が聞こえることがあった。今日は誰かと電話で話しているようだった。

「そうなの。…そう、気を落とさないでね。」

 少しほの暗いが優しい声で老婆は話した。彼はその声を心地よさそうに聞いていた。…内容としては、電話相手の家族が亡くなったようだった。

「私は平気よ。今は自分のことを心配してね。」

 しばらく話すと笑い声も交じり、楽しい雰囲気で電話は終わったようだった。

 それから少しして、目を開けるともう真っ暗で、老婆も電気を消し、就寝したようだった。

 しばらくたった夏のある日、彼は自分の手が自由に動くことに気付いた。昨日までは固定されたように動かず、もう何年も固まったようだった気がした。…彼は自分の頬を触った。ひどく冷たくてぞっとしたが、びっくりした際に首も動くことがわかった。

 足は動かないままだったが、あたりをきょろきょろと見まわし、手を伸ばしてみたりした。なんだか生きているように動けるのが少しおかしかった。

 視線を足元に下げるとアパートの壁に沿わせるようにいくつかプランターが置いてあった。そのほとんどは何も生えておらず、土だけが盛られていた。一つだけ植物が茂っているようだったが名前も知らない青色の花が茂っていた。

 頭上から物音がしたので見上げると、老婆が窓を開けて空を眺めていた。いつもの簡単な部屋着ではなく、少しめかしたかわいらしい洋服を着ているようだった。しばらく老婆は空を見上げていたが、ゆったりと視線をこちらに落とすとにっこりと微笑み、窓を閉めた。それからしばらく、部屋からは老婆の歌う『リンゴの唄』が聞こえてきた。

 昼間、老婆は出かけていたようで、夕方に差し掛かるころに裏路地にやってきた。薄く化粧をしており、桜色の頬と口紅がふんわりと香るように色づいていた。赤みがかったベージュのワンピースが風に揺れ、同じ色のつばの大きな帽子を浅くかぶっていた。逆光で帽子は赤く光って見えた。

 老婆は花束を持っていた。ゆったりとした足取りで、アパートに沿うように置かれたプランターの傍に花束を立てかけた。その花束は季節はずれにも黄色いチューリップだけでできた花束で、老婆はそこから一本チューリップを抜いた。

 一度腰を上げたがもう一度座りなおし、残った花束のチューリップ一本一本に彼女は優しくキスをした。

 僕は彼女のことをもっと近くで見たいと思った。今まで、ぼんやりとした感覚を覚えることはあっても、こういった感情がわくのはいつぶりだろうか。もしかしたら、幽霊になってから初めてだったかもしれない。いつから彼女を見守っていたのかさえ全く覚えていないのだ。

 彼女は立ち上がり、ゆったりとした足取りで僕の前を通過しようとしている。…足は動かないままだったが、腕を伸ばした。すると、自分の手に包まれるような圧力を感じたが、彼女の身体をすりぬけてしまった。幽霊らしいと言えばらしいが、彼女に触れた瞬間ひどいめまいがした。目の前がぐるぐるとまわり、動かない足がまるでおぼつかなくなったような、平衡感覚を奪われたように感じた。そうやって目の前がぐるぐるしている間に彼女は路地を抜けてしまっていた。

 僕はひざを折り、彼女の置いていった黄色いチューリップの花束へ手を伸ばしてみた。丁度指がかすむほどの距離だったが、物体へ触れたかどうか感覚がまったくなかったため、指先がかすめているのかどうかもわからなかったが、胸のあたりがじんわりと暖かく感じた。

 手を伸ばし地面に突っ伏した状態のまま夜を迎えた。立ち上がって彼女の住む一室へ目をやると、ぼんやりと明かりが灯っており、窓から漏れる光に安堵感を覚えた。

 次の日の朝になると、早朝から彼女は窓を開け、花瓶に昨日のチューリップを生け、面格子に乗せた。隙間から花瓶が落ちるのではないかとはらはらしたが、なかなか上手にバランスをとって置いたようで、ぐらつきもせず花瓶は格子の上に鎮座していた。夕方になるとその花瓶はまた部屋の中に戻され、窓から小さく顔をのぞかせた。日光浴でもさせていたのだろう。

 それからしばらくして、変に騒がしい日があった。8月の日差しの強い日だった。今日も彼女はにこにこと窓辺で日光浴を楽しんでいた。僕はじっとその姿をみていた。しばらくすると彼女がはっとしたように部屋の中に戻っていった。僕は目を閉じた。

 彼女の部屋から声が聞こえた。その声はだんだん大きくなり、同時に物音を立てて何かが窓の面格子にガツンとぶつかった。

 僕は目を開け、窓を見た。そこに、彼女が座るような形で面格子へ押し付けられていた。僕はただその姿を見ていた。彼女の視線の先に誰がいるのかさえ見えなかったが、何者かに押さえつけられているようだった。彼女の身体は人形のようにぐわぐわと揺らされ、何度も面格子にたたきつけられた。僕は彼女に向かって手を伸ばし、腕を広げた。

 彼女の頭が、まるで首の座っていない赤子のように揺れ、同時に面格子が外れた。古いアパートの面格子は、なんてもろいのだろう。彼女はそこから僕にめがけて落下した。僕は腕をめいっぱいのばし、彼女を受け止めようとしたが、手元に変な圧力だけを残し、彼女は地面に落ちた。

 ごち、と鈍い音とともに彼女はあおむけになって地面に転がった。面格子は僕を通り抜け背後の電信柱に音を立ててぶつかったようだった。彼女の首には延長コードが巻き付けられていた。彼女の目は薄くあいていて、灰色の瞳が僕のことをじっと見つめているようだった。

「…あら、」

 そう声を発し、彼女はにっこり微笑んだ。まるで恥ずかしいところを見られた、とはにかむ少女のような表情に不覚にも僕はドキッとした。

 僕はその場に蹲った。そうすると、丁度彼女の顔が僕の膝元に来た。僕は恐る恐る彼女の頬に自分の手を添わせた。彼女は先日被っていた帽子のように頭部から血を散らして絶命していた。僕は彼女の額に自分の額を合わせた。…何とも言えない幸福感がそこにはあった。

 それから数週間、僕ら以外、誰も裏路地には来なかった。彼女の身体も少しずつ溶けるように腐っていった。僕はずっと蹲り、彼女に額を合わせていた。

「君の名前を忘れてしまったな。」自分の意思とは違うところから、声があふれるようだった。「いつも花をありがとう。」初めて聞いた僕の声は震えていた。

 僕はふと、自分の腰に一丁の拳銃があることに気が付いた。これがずっとあったのかどうか、まったく記憶にはないが、僕はその拳銃を手にした。

 僕は拳銃の口を咥え、彼女の部屋をいつものように仰いで見た。開きっぱなしの窓には風に揺れるベージュのカーテン、窓からのぞく黄色の愛らしいチューリップが頷くように揺れていた。

 そして、僕は目を瞑り、引き金を引いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三途の岸辺より 大西 憩 @hahotime

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ