後編
いつからこうなったんだろう。
仕事が忙しくなって
向き合うものが多くなって
抱える責任が大きくなって
歳を重ねるにつれて大切なものを忘れていくような感覚がしていた。
いや、意図的に消そうとしていたのかもしれない。
何かを割り切らないと心のバランスが取れなくなって
悪い男でいれば、強くいられるような気がした。
だって本当の自分は弱さの塊なのだから。
彼女と最後に過ごしたあの夜から、また一ヶ月近くが経とうとしている。
あの日僕は彼女を引き留めることはできなかった。
必死に叫んだ僕の声はもう彼女には届いていなくて
僕が角を曲がった先に見たものは、扉が閉まって動き出すエレベーターだった。
階段を駆け下りたら追いついたのかもしれない。
なのにそれ以上僕の足は動かなかった。
なんだかそれが二人の運命のような気がして。
虚しさと後悔で溢れそうになる涙をこらえるだけで精一杯だった。
もしかしたら僕はこの関係が終わることを
心のどこかで願っていたのかもしれない。
これでもう自分の弱さで彼女を傷付けることはない。
これで良かったのだと
そう何度も自分に言い聞かしているのに。
それなのに僕は…
また貴女に会いたいと今この瞬間も願っている。
運命に理由をつけて、僕はまだ
貴女を忘れられずにいるんだ。
鳴るはずのない携帯を一日何度も確認して
会いたいなんてメッセージが来ないことを分かっていて
期待して、現実に戻されて、また期待する。
これがどんなに惨めなことか分かっているのに、そう過ごさずにはいられなかった。
貴女もずっとこんな風に僕からの連絡を待っていたのだろうか。
会いたい夜を一人で越えていたのだろうか。
こんなことを考える夜は、一人で部屋にいたくなくて
酒でも飲もうとあてもなくフラフラと賑わう街を歩いた。
すれ違う人がみんなが眩しく見える。
会いたい。
最低だと分かってる。
そう望んではいけないと分かってる。
それでも僕はもう一度…貴女に会いたい。
それはまさに運命だったのか。
少し先の店から出てきた見覚えのある顔に
考えるより先に足が動いて、今度こそ見失ってはいけないと
彼女を呼び止めようとした。
「…っジン…?」
声をかけるより早く僕に気付いた彼女がこちらに身体を向ける。
『あ、会いたかっ…』
「お待たせ!…あれ?知り合い?」
店から出てきたその人は何の違和感もなく彼女の隣りに並んだ。
「あ…うん。前お世話になっていた人で…」
「そうなんだ!いつもお世話になっています」
『…いえ、こちらこそお世話になっています』
彼女の隣り立つ彼は柔らかい表情で僕と彼女を交互に見る。
軽く頭を下げられて、自然と帽子を目深に被り直した。
これが…僕たちの運命なの…?
その人と今は幸せに過ごしてるの?
ならそれでいい。
貴女が泣いていないのなら…。
幸せになったのならそれでいい。
『…失礼します』
「ジン待って!…身体は大丈夫?」
『え?』
「ちゃんと食べてる…?少し痩せた気がして」
『食べてますよ。僕は元気です』
彼女は少しホッとしたように息を吐いた。
「良かった…身体気を付けてね」
「何言ってるの!ご飯全然食べなくなったのは姉ちゃんでしょ!」
「…っ!ちょっと黙ってて。今関係ないでしょ」
「みんな心配してるんだよ!何とか言ってやってください!」
『え…?』
「やめてよ!ジンは関係ないでしょ!」
「姉ちゃん、少し前から全然ご飯食べなくなって!親も心配してるんです」
「ジンごめん…この子弟なの。うるさくてごめんね」
そう言われてから改めて見比べると、どことなく似ている二人の顔。
…新しい人じゃなかったのか。
『…ご飯食べてないんですか?』
「ちゃんと食べてるよ…」
「食べてないじゃん!」
「お願い…少し黙ってて」
「でも…っ!」
『どうして食べないんですか?』
「心配しないで。大丈夫だから」
そうやっていつも僕の前では強がっていたんだよね。
僕のことばかりで、自分のことは二の次で。
『僕と…ご飯食べにいきますか?』
「え…」
『弟さんとの用事終わるまで待ちますから』
「僕との用なんて全然!もう終わりましたし!」
その言葉を聞いて彼女に視線を送るけど
その瞳は迷っているように見える。
『嫌なら無理にとは…』
そこまで言いかけた言葉をグッと飲み込んだ。
僕はまた…逃げるのか。
僕と彼女の運命を決める最後のチャンスかもしれないのに。
『本当に連れて行って大丈夫ですか?』
「も、もちろんです!姉ちゃん行ってきなよ!」
「ジン…。本当に良かったの?私とご飯なんて」
『何なら食べられそうですか』
「ごめん…。本当に食欲無くて」
『…さっきは僕の心配をしてたけど、貴女のほうが痩せましたよね。僕のせいですか?』
「まさか!ジンは何も…」
曖昧な関係がどれほど彼女を傷つけていたのか、今になって嫌というほど痛感する。
ずっと平気なふりをして僕に会いに来ていた。
何も言わずに都合よく抱かれて一人で泣いていることも知っていた。
今更僕を受け入れてくれるのだろうか。
隣りを歩く少し痩せた彼女を見て
こんなことを思う自分は…なんて自分勝手な男なんだろう。
「ジンこれ…」
『スープです。これなら食欲無くても食べられませんか』
頑なに何も食べたくないという彼女を自分の家に連れてきた。
躊躇ってずっと下を向いていた彼女は、湯気の上がるスープを見て
今日初めて頬をゆっくりと緩めてくれた。
『それに僕が作ったものなら食べないわけにいかないでしょ』
「…ありがとう」
いただきますとスープに口をつける彼女の姿を見てほっとする。
「…美味しい」
『全部食べられそうですか?』
頷いた彼女が食べ終わるまで僕はその姿を眺めていた。
髪の毛を耳にかける仕草も
スプーンを持つ細い指先も。
彼女の全てから目を離すことができなかった。
「ジン、私そろそろ帰るね」
食器を洗う手を止めて振り返ると、彼女は突然立ち上がった。
『この後何か予定があるんですか?』
「ううん…でも私ここにいちゃいけないよ」
『…どうして?』
「私たちもうさよならしたから」
『僕とはもう…話もしたくないですか?』
「…ごちそうさまでした」
上着を持った彼女は玄関へ向かう。
だめだ。
また同じことを繰り返すわけにはいかない。
『待ってください…!』
「…ジンやめて」
『お願いします。話を聞いてください』
「いや…やめて」
耳をふさぐ彼女の手を握ると強く振りほどかれる。
「やめてってば!!」
息をきらせて涙を流す彼女に何も言えなくて視線を床へ落した。
「これ以上一緒にいたら…また離れられなくなる…」
「また…身体だけでもいいって思っちゃう…」
彼女を深く傷つけていた事実を突きつけられるような言葉。
視線を彼女に向けると赤く濡れた目は真っすぐに僕を捉えていた。
「私…もうジンを傷つけたくないの…」
『僕を傷つける…?』
「ジンは…平気であんなことできる人じゃないでしょう?」
彼女は震える指で涙を拭った。
「ずっと…苦しめてて…ごめんね」
違う。
そうじゃない。
自分の弱さと向き合えなくて、逃げてばかりで
貴女を傷つけていたのは僕だ。
『なんで…貴女はそうなんですか…』
どうして僕のことばかり。
僕のせいでご飯も食べられなかったくせに。
何度も一人で泣いていたはずなのに。
「ジン…私本当に」
『…っ。…好きです』
その言葉を口にした途端に、目の奥が熱くなって何かが喉からこみ上げそうになる。
『本気になるのが怖くて…ずっと傷つけてたのは僕のほうです』
『ごめんなさい…苦しめて本当にごめんなさい』
ゆっくりと彼女の方に腕を伸ばすと僕の腕に小さな振動が伝わる。
「…う…そだ」
震える身体を自分の腕の中へ引き寄せると溢れる涙が止まらなくなる。
『もう嘘はつきません…好きなんです』
「っ…私、ジンを好きでいていいの…?」
『僕のこと…許してくれますか?』
涙に濡れた彼女の瞳を覗き込むと胸が苦しくなった。
「ジン…っ」
重なった唇から二人の想いが溢れていく。
こんな風になるのが怖かった。
自分の気持ちが溢れて止まらなくなりそうで。
『僕は貴女が…欲しい』
「…どうしたの?」
寝室のドアの前で立ち止まる僕に彼女が問いかける。
『ずっと、想像してたんです』
「…何を?」
『ホテルのドアじゃなく…自分の部屋のドアを貴女と開けるときはどんな気分なんだろうって』
「どんな気持ち…?」
『想像してたよりずっと…幸せです』
ベッドの中で何度もお互いの気持ちを確かめ合う。
『ジン…っ…』
「…何ですか?」
名前を呼ばれただけで愛しくて、柔らかい彼女の髪に指を通した。
「もう一度…好きって言って…」
『…好きです…すごく』
幸せそうに口元を緩めた彼女の頬を涙が伝う。
身体を重ねながら交わす甘い言葉も、絡み合う甘い視線も
まるで初めての夜を過ごしているかのようにあっという間に僕を快感の渦にいざなおうとする。
「ん…あっ、私も…私もジンが好き…っ」
『…だめです。そんなこと耳元で言われたらもう…』
じわりと限界が近づいてきて、彼女の首筋に顔を埋める。
僕の髪の毛に彼女の指が通る感覚すら快感に変わって
初めて感じる切なくて涙が出そうなほど愛しい気持ちに包まれて
僕は強く目を閉じた。
それからも何も変わらない毎日が続いている。
仕事は前に増して忙しくなって、余裕のない僕は完璧な恋人ではないのかもしれない。
大切になればなるほど失う恐怖も確実に増えている。
でも僕は前よりずっとずっと幸せになった。
『ただいま』
「おかえりなさい!ジン」
このドアの向こうで貴女が僕を待っていてくれるから。
無機質なドアの向こう moco @moco-moco7
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