ほとんどない…。

些事

ほとんどない…。


手術のために、全身麻酔をされた男は、奇妙な体験をした。


意識だけが覚醒しているのだ。


なんとも不思議な感覚だった。


その後、次第に男は幽体離脱をはじめ、自分の腹が裂かれるのを見つめる事になった。


その時であった。


出血が止まらない、心臓の音が弱まる。

…ついに呼吸も止まった。


皆の顔に焦りが広がる。


看護師が名前を叫びながら、心臓マッサージを続けるが、反応がない。


「代わって…!」

経験豊富そうな中年の看護師がすぐさま駆けつけ、横たわる私に馬乗りになった。交代の間髪を入れずに心臓マッサージを始める。

見事な職人技である。


ドクターは忙しく周りに指示を飛ばす…!スタッフ達は右往左往に慌しく、強心剤やら、電気ショックの機材やら、準備している。

一人のスタッフが大声で私の名前を繰り返し叫んでいる。


かなり強めに圧迫された私の胸は、すでに肋骨が折れ、少し落ち窪んでいる様に見えた。心臓が動かないのだ、骨が折れていようと構わないはずだ。


「離れてっ…!」

チャージの完了したドクターが、ケーブルの付いたパッドを掲げると、馬乗り看護師はすばやく翻り、周りのスタッフ達も一斉に部屋の隅に退いた。

ドシン…!

横たわった私の身体は大きく波打ち、一瞬跳び上がった。


反応なし…。


「っ!電圧上げて!もう一度!!」


再び電気を流された私の身体は跳躍したが、依然、私の心電図に変化はなかった。

ドクターは、額に大量の粟粒をかき、周りのスタッフ達も肩で息をしている。


ああ、そうか、もしかしたら私はこのまま死んでしまうのか、幽体離脱したまま、本当に幽体になるのか…。


…。


でも、そんなのはゴメンだ…!


急に男の目に熱い感情が宿った。

そして今さらになって、他人事のように傍観していた自分を不思議に思った。


いやだ、いやだ、いやだ、死にたくない!まだ、やり残した事がたくさんあるんだ!苦労をかけた妻にはまだ結婚式を挙げてないんだ、きっと挙げるって約束したんだ!娘の入学式…!入学式だ!それが見れないなんていやだ!それに親孝行だってしていない!こんな馬鹿ばかりしてきた俺を育ててくれたのに!

死ねない!!妻と子供を残してはいけない!!


そうだ!臨死体験談でよく見るあれだ…!!


そう思いついたと同時に、男の意識は横たわる自分に向けられていた。横たわる自分の姿と今の幽体の自分を重ねれば生き返るはずだと、確信した。


慎重に、男は自分を重ねようとした。しかし上手く重ねる事が出来ない。

心電図の波形は横一線のまま、高い機械音だけが部屋に響いている。

まずい、急がなくては。

男は冷静になり、まずは身体の端の方から重ね合わせる事にした。

幽体の自分の姿は線香の煙のように小さく揺らぎ、意外と合わせるのが難しかった。

やった!上手くいったぞ!

男は両足を自分にくっつける事に成功した。

このまま、仰向けに寝ればおそらくピッタリと重なり合うはずだ!


男は生唾を飲み込んだ…。


その時であった。


「せ、先生!」

心電図の波形が波打った、次第に規則正しい電子音が響き渡る。

や、やったー!

周りで小さな歓声が上がった。


「…良かった。これは奇跡だ。」

ドクターは胸を撫で下ろし、呆然としていたスタッフ達に指示を飛ばした。

「まだ患者の処置は終わっていないぞ!最後まで気を抜くな!」

皆の顔には希望の光が宿っている。


…目を覚ました男は、ドクターに感謝を述べている。ベットの脇には涙ぐむ妻と娘と両親がいる。なんともいえない感動的な瞬間がそこにはあった。


…そ、そんな。

男はその光景を眺めながら嘆いた。

あいつは、だれだ!?俺の妻に触るな!

加奈子!そいつはパパじゃない!!

父さん、母さん泣かないでくれ!そいつは俺じゃないんだ!!


男の声は届かなかった。


男の"両足"は生き返り、男は意識を取り戻した。中身のほとんどないその男は、皆を見つめて呟いた。


「これからは生まれ変わった気持ちで、みんなと生きていくつもりだ。本当にみんな、ありがとう。俺はみんなを愛しているよ。」


幽体の男は、"両足だけ"失い、ゆらゆらと部屋の天井の隅からその光景を眺めていた。

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ほとんどない…。 些事 @sajidaiji

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