第4話 結婚

 居間へ入ると、薄明かるいランプの下にタンジーが立っていた。タンジーはサラの顔を見ると静かに笑って、


「話は聞いたかね?」


と言った。


「ええ」


サラはそれだけ言うと、床に置かれたクッションの上に座った。タンジーも腰を下ろす。


「ナミマにも話したんだが、ワシもそろそろ身を固めようと思ってね。お前さんは中々美人だし、こんな田舎で身売りさせておくのは勿体ないと思ってな」


「それは……でも私……貴方を愛していないわ」


「ホホホ、それは分かっておるよ。だがワシはお前を気に入っておる。ワシと街で気楽に暮らせば良いだろう?」


「でも、そしたら、お祖母ちゃんは?」


「生活費は送ってやるよ」


「サラ、こんな良い話はないよ? 娼婦のお前を身請けしてくれるってんだから」


ナミマは始終笑顔だった。その娼婦に私を落としてくれたのはどちら様でしたっけ? とサラは思ったが、口には出さなかった。サラは


「……良いわよ」


とだけ言った。


「決まりだな。通常なら持参金など必要になるが、お前さん達の経済状況は分かっておる。そんなものは必要無いし、式の準備はこちらが持つよ」


「結婚式は必要ないわ」


サラは珍しく強い口調で言った。


「どうしてかね?」


「どうしてって……」


サラは俯いた。結婚式は神の前で二人の愛を誓う為の物である。愛してもいない男と一緒になるのに神前で誓いの言葉など言えない……


「ふむ。まあ良いだろう。本当に式は無しで良いんだね?」


「ええ、その方が良いわ」


「分かった。ではこれを受け取ってくれるかね?」


タンジーはサファイアの指輪を取り出した。サラは黙って指輪を受け取ると、左手の薬指に嵌めて、ヒラヒラ手を振ってみせた。


「よろしい、では改めて一週間後に迎えに来るよ」


そう言ってタンジーは家を出ていった。



「やったじゃないか!」


ナミマは嬉しそうにサラの背中を叩く。


「ええ……そうね……」


サラは別に嬉しくは無かった。


「お前の言いたい事は判るがね。このまま家で客を取り続けたって、埒が明かないよ。タンジーさんなら、金の心配はしなくて良いんだ。私だって楽になる」


サラはぼんやり窓の外を眺めた。このオアシスの村ともお別れか。体を売る事を始めて以来、この村の事などどうでも良いと思っていたが、いざ離れるとなると怖いものである。サラは生まれてからこのオアシスの村しか知らないのだ。街とはどういう所であろうか? 僅かな期待がサラの胸を過り、そしてすぐに身勝手な祖母への憎悪とタンジーへの嫌悪がそれをかき消した。体を売るようになって以来、ほとんど感情らしいものを失っていたサラだが、この夜は今まで押し込めてきた怒りと悲しみがフツフツとわいてきて、大声で叫び出したかった。実際、祖母さえ居なければ、サラは大声で今までの鬱積を叫んで通りへ飛び出した事だろう。だが、サラはかろうじてそれを押し留めた。その夜サラは眉尻まんじりともせずに過ごした。



 一週間経って、約束通りタンジーはやって来た。お付きの者を従えて、真っ赤な天鵞絨びろうどを張ったソファーの付いた、豪華な馬車を大通りに乗り付けた。従者が持つ日除けの傘に守られながら、砂漠の強烈な日差しの下をサラの家の前まで歩いてきた。



「じゃあ、サラはワシが引き受けるよ」


タンジーはそうナミマに挨拶すると、サラを連れて馬車へと戻った。タンジーとサラは向かい合ってソファーに腰掛けた。初めて乗る馬車にサラは少し興奮した。ソファーは今まで座った事のある、どのクッションよりも座り心地が良く、それだけで、タンジーがどれ程金持ちなのかうかがい知る事が出来た。馬車はゆっくり大通りを走り出した。窓から青く輝くオアシスが見える。美しい村だったのだわ――サラは今更ながら外の眺めを見て思った。風景を楽しむなど、すっかり忘れていたのだ。



 馬車はやがて村の外へ出た。そこからは固い岩盤の砂漠地帯である。黄褐色の大地に所々背の高い岩が見えた。サラは村の外の景色を初めて見たのだった。サラの瞳の様な、雲一つない真っ青な空に白銀の太陽が浮かんでいた。その太陽がゴツゴツした大地をジリジリ焼いている。時々背の低い灌木や、小さな草むらが点在している他は、生物の気配は無かった。この砂漠の風景を眺めていると、サラはまるで自分の心を絵に描いたようだ、と思うのだった。不毛の大地――本来であれば喜ばしい筈の結婚も、サラの心を動かしはしなかった。



 延々砂漠を走り続けて、日も傾いた頃、馬車は街へ到着した。街は日干し煉瓦を積み上げた巨大な城壁で囲われていた。正面に見える大きな門から、馬車は街へと入った。賑やかなバザールを抜け、住宅街を進み、街の中心の大広場を通って、馬車は小高い丘の高級住宅街へと辿り着いた。門を抜けて馬車は玄関前へ停車した。



「さ、着いたよ」


タンジーはそう言って馬車を降りた。後に続いて降りたサラが目にしたのは、白亜の石造りの巨大な邸宅だった。こんな大きな建物を見るのは、サラは初めてだった。玄関前のポーチの脇に大きな松明がゆらゆらと燃えて、周囲を明るく照らしている。サラが呆然と立っていると、タンジーは振り向いて、


「もう日も落ちた。中へ入ろう」


そう言ってサラを屋敷へ招き入れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る