妻の愛を勝ち取れ/9

 深緑の髪は動きやすいように極力短くなっている。ソファーの上に頭を乗せても、乱れる余裕がないほどだった。


 ひとまず声をかけよう。むやみやたらに触ると、この夫は危険だから。意識がある時はいい。だが、今は無意識だ。


 修業という名の瞬発力で技をかけられるのだ。それがどんなものか、颯茄は知っている。どんな原理でできていて、どんな影響を相手にもたらすのかも心得ている。


「夕霧さん? 夕霧さん?」


 寝返りも打たない。ピクリともしない。熟睡中。というか、まずみずから動いてこない、絶対不動の夫。


「ダメだ起きない。ん〜〜? どうしよう――!」


 妻の頭の中で電球がピカンとついた。


「わかった、こうしよう!」


 待っていろ、武術夫。今起こしてやるぜ、である。


「右、殺気!」


 健やかな寝息はそのままで、袴の白い袖をともない、右手が斜め上へ向かってあでやかに上げられた。敵の攻撃を払うものである。しかもこの手に少しでも触れたら、大変ことになるのだ。


 気合いのような詰まった息遣いもなく、手だけ急に動いた。遠くで技を見たことがあっても、こんな近くで体感したことがなかった颯茄は、びっくりして後ろに下がり、


「うわっ!」


 足がもつれて、思わず尻餅をついた。物音――気配に気づいて、無感情、無動のはしばみ色の瞳はさっと開かれ、


「すまん」


 地鳴りのような低い声で詫びを入れ、一ミリのぶれなく、袴姿の夫は男の色香を強く匂わせて起き上がった。草履はきちんと大理石の上にそろえて下され、夕霧命の瞳には妻の出血大サービス――パンツが丸見えだった。


「あぁ、いや、いいんです。私が変なことを言ったから……」


 いつまでも床に落ちたままの颯茄を前にして、夕霧命は彼なりの笑み――切れ長な目を細めた。


「お前はいつでも変わらん」


 パンツなど見せても、減るものではないだろう。そういうざっくばらんな妻。しかも、本人は気づいていないという、バカさ加減。そこに対して、夫は言ったのに、妻はこう思った。絶対不動の夫に、落ち着きのない自分がこんなことを言われるとは、不服である。


「夕霧さんもいつでも変わらないじゃないですか」

「そうだ」


 ずれているはずなのに、噛み合ってゆく会話。同じ物事を見ているのに、自分とは違う角度で取ってくる妻。自分にないものを持っている女。だからこそ、夕霧命の切れ長な瞳はさらに細くなるのだ。


 またまどろみそうな目を見つけて、颯茄は立ち上がって止めようとしたが、


「横になるの今は禁止です。また寝ちゃい――」


 目の前にいた夕霧命の和装とソファーは急になくなり、背中にあったはずの庭園が眼前ににわかに広がった。


「あれ?」


 瞬間移動を夫に勝手にかけられたのだ。見極める前に、背後から夕霧命の地鳴りのような低い声が響いた。


「逃げられん」


 ――まるで何かの呪文。


 颯茄の紫色のワンピースは、袴の紺の上にすっぽりと収まり、白いたもとは両脇から胸の上に伸びていて、いわゆるバックハグだった。


 颯茄は武術を学んでいる。後ろから羽交い締めに男にされようとも、逃げる術を知っている。それは正しい腕の使い方をすれば簡単なのである。


 最小限の力で最大限の力を発揮する。前寄り気味な意識を、背中へとかたむける。肩の下あたりを前から後ろへ回すように少しだけ動かした。


「よし、肩甲骨けんこうこつを使って……」


 これで、相手の力が緩んだ隙に……。のはずだったが、力がかかっていないのだ、夕霧命の腕は。しっかりと固定されていない。


 だからこそ、颯茄がどんな動きをしようとも、即座に対応できてしまう。柔軟でありながらの、真の強さ。


 夫の膝の上で、妻は捕まっている運命でしかなかった。


「あぁ〜、他の人なら逃げられるんだけどな」

「同じ技を習得しているのなら、力の競り合いは起きる。俺にお前は勝てん」


 ぴったりとくっつく背中から、夕霧命の地鳴りのような低い声が振動を起こした。心地よい安心感に包まれる。


「まぁ、そうですよね。夕霧さんはプロですから……」

「俺はまだまだだ」


 どこまでも謙虚な夫。そんな彼を見えないながらも、颯茄は後ろへパッと振り返った。深緑の髪とブラウンのそれがお互いの額とこめかみで絡み合う。


「そんなことないです!」


 結婚を何度もして、子供もたくさんいる。年齢は二十三歳。されども、十五歳。少年である、本来なら。


 この世界では、自分勝手に武道家にはなれない。師匠から許しを得ないとなれないのだ。


「十五年で師匠の許可を得て、武道家になれる人はいないです」


 毎日同じことを淡々とこなしていける性格でないと、何事も極められない。過去も現在も未来も関係なく、どんなことにも左右されず続けられる人。それが夕霧命なのだ。それだけで、才能だと颯茄は思うのだ。


「焉貴さんや月さんみたいに、三百億年も生きている人がいるから、確かにかなわないと思うのかもしれないですけど、夕霧さんがその人と同じ歳になった時は絶対抜かしてます!」


 永遠の世界だからこそ、努力するのが当たり前だからこそ、相手はずっと永久に先を歩いている。追いかけても追いかけても、距離は縮まらない。だが、追い抜く方法はあったのだ。


「お前は俺の気づかんことに気づく」


 夕霧命の両腕が、颯茄のワンピースに強く巻きついた。ブラウンの髪に夫の頬がいとおしそうに寄り添う。妻としては思っていることを言ったまでで、不思議そうな顔になった。


「ん?」


 どこかずれているクルミ色の瞳を、無感情、無動のはしばみ色の瞳は横からのぞき込む。


「愛している――」

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