妻の愛を勝ち取れ/8
妻は果敢にも、近くにあったドアの前に、深緑のベルベットブーツで仁王立ちしていた。やたらと壁ばかりが目立つ廊下。学習能力なしの颯茄。
ドアに喧嘩でも売るように、人差し指を突きつけた。
「もう三度めだ! 今度はそうそう驚かない! ドーンとこい!」
パッと勢いよくドアを開けたが、普通の生活では決して聞くことのできない異音が聞こえたきた。
キキー!
ホホー!
想像をはるかに超えていて、颯茄は息をするのも忘れてしまった。
「…………」
やけに薄暗い。奇怪な音はずっと聞こえ続けている。だが、景色に変化はなし。
しかし、下の方で動きがあった。
衝撃的すぎて、それがかえって電気ショックのように、思考停止していた颯茄の頭を無理やり動かしたのだった。
「え……!?!?」
驚いている間に、右斜め上で太い縄みたいなものが動いたのに気づいて、颯茄は息を詰まらせ、
「っ!!!!」
ドアを閉めずにはいられなくなった。
「ヤバイヤバイ! は、早く閉めて、閉めてっっっ!!!! 出てきたら大変! 大変っ!」
しっかりと閉めたドア。平穏な我が家の廊下。とりあえずの危険は回避した。だが、恐怖心は完全に拭い去れたわけではなく、警戒心は解除せず、ドアの向こうに今もあるであろう景色を考える。
「木が生い茂ってた。下の方にいたのはワニ。上にいたのは大蛇……ジャングルですか〜〜〜!」
誰もいない廊下に、妻の驚き声が響き渡った。だが、答えるものは誰もおらず、
「何のためにこんな部屋作ったんだろう?」
さすがに地球一個分もある我が家であり、様々な外が家の中にあるのだった。だが、存在理由が妻にはさっぱりなのである。
しかし、とにかく隠れるである。妻のロングブーツは水色の絨毯の上を足早に歩き出した。
*
広い家。霞む通路。それでも妻はとうとう廊下の行き止まりへとやってきた。両開きの立派なドアを開けて、中をのぞく。
「ん? 誰もいない」
忍び足で、ベルベットブーツは絨毯から、部屋の大理石へと入り込んだ。
「よし、そうっと……」
静かにドアを閉めて、部屋の奥へと振り返ると、壮大な景色――本の山脈が連なっていた。
「図書室すごいね」
颯茄の声は響き渡らず、ページの紙に吸い込まれてゆく。
入ってすぐのシャンデリアの下には、紺の絨毯を従えた大きな丸テーブルが堂々たる態度で鎮座する。モダンなデザインの卓上ライトが花を添える。
中二階にも本たちはひしめき合う。どこかの店のようにディスプレイされた、様々な本の表紙――顔が立ち並ぶ。おしゃれなカフェのような一人がけの椅子とテーブルが、パーソナルティースペースを十分配慮した間隔で佇む。
どこかの図書館かと勘違いするほどの広さだった。
深緑のベルベットブーツは大理石でかかとを鳴らすが、本という情報の交差点に紛れ込んで消えてゆく。
いくつもの棚を超えると、全面ガラス張りの窓から庭の緑が、見晴らしのいい展望デッキにでもいるように雄大に広がった。
「うわっ!」
本の整列の間に顔をのぞかせた、白いものに気づいて、颯茄は目を輝かせた。隠れんぼをしていることも忘れて、小走りに近寄る。
「窓際にソファーが置いてある〜! これ、憧れなんだよなぁ〜」
どこかの城の庭園のような立派な緑たちとソファーという組み合わせ。小さなサイドテーブルに、颯茄の妄想世界で、上品なティーカップからベルガモットの柑橘系の香りが立ち上る、アールグレーティーがテーブルに置かれているのが見えた。
颯茄は心躍らせる。ソファーにゆったりと座って、大好きな本を読んで、文字の羅列から視線を時々上げては、庭の美しさで一休みをする。そんなさまを思い浮かべて。
「外の景色見ながら、本を読んで、お茶を飲んで……」
隠れんぼのことなど、遠い宇宙の彼方へサヨナラ満塁ホームランのようにかっ飛ばしている颯茄だった。単純に風景を楽しもうと、ガラスとソファーの間に入ろうとすると、見つけてしまった――
さすらいの侍が孤独な旅路の途中で、原っぱで一休みしているような姿を。白と紺の袴姿がよく似合う夫。
彼の無感情、無動のはしばみ色の瞳はまぶたの裏に隠れていて、どうやって見ても正体がなかった。
「あれ? 夕霧さん、寝てる……」
三人がけのソファーをベッドがわり。武術をしているが、ガタイがいいとまでは言えない
椅子から横にははみ出していないが、百九十八センチの長身は、膝下がソファーから完全に出ていた。
男の色香が匂い出て仕方ないあごのシャープなラインを、妻は下からのぞき込む。
「寝たふり……じゃない」
この武術夫は、横になると瞬殺で眠りの底へと
夫婦の営みをする時も横になると即行眠ってしまう。さっきまでの盛り上がりはどこへ行ったのかと首をかしげるほどである。だが、そこらへんは本人もよく心得ていて、寝ない体位で必ずするようにしているのだ。
あの触れただけで、敵を持ち上げ投げ飛ばす芸術的な技。相手の握っている武器を目にも止まらぬ速さで自分へと奪ってしまう感嘆の技。そんな美しい動きをする大きな手を見つめて、妻は心配になった。
「起こさないと、夕飯にまた遅れて、光さんに叱られる。……それだけじゃなくて、夕霧さん本人も困るから……」
みんなが幸せであるように。自分に今できることを。妻はそれを原動力として、横からかがみ込んだ。
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