最終話:ありがとう


 ”浩介へ


 この手紙を読んでいるとき、浩介はもう社会人になった頃かしら。

 それともまだ学生で、青春を謳歌している頃かしら。

 そんな浩介を見られないのはちょっと残念に思います。


 母さんが離婚することになって、出ていくことになってしまったこと。

 申し訳ないと思ってます。

 浩介にもたくさん苦労をかけてしまうかもしれません。


 お父さんと別れた理由はいろいろとあります。

 お互い必要としていた時期に必要なことをしてあげられなかったこと。

 お父さんがリストラにあって生活が大変な中で、相手を思いやることができなかったこと。

 そんな中でお父さんが風俗に行くようになって、よく喧嘩したこと。


 そしてお母さんが他の男性を好きになってしまったこと……。

 沢山あるけど、大半はお母さんが悪かったと思ってるわ。

 そういう自覚はもちろんあります。


 別に男の人が風俗に行くことは、それほど問題ではなかったわ。

 そういうもんだと思ってるしね。


 正直に言うとお父さんと離婚した事自体には、罪悪感はそれほど感じてないの。

 もちろん浩介にたくさん迷惑をかけることになっちゃったけど、お母さんは自分の人生を自分の意志で選んだんだもの。


 そりゃ男と女なんだから、いろいろあるわよ。

 浩介に分かってもらえるには、もう少し時間が必要なのかもしれないけど。


 それでも浩介には謝らなければいけない。

 いくらお母さんが大変な時期だったとはいえ、もっと浩介の事を考えなければいけなかった。


 浩介は小さい時から聡明で、まっすぐで、理屈っぽくって、とても大人びた子どもだったわね。


 浩介の言うことはいつも正しくて、いつも正しくなかった母親には刺さる言葉が多かった。


 お母さんは自分に余裕がなくて、イライラして、浩介に言ってはいけない言葉をたくさんぶつけてしまった。


 そのことに対しては、本当に本当に申し訳なかったと思っています。

 ごめんなさい。


 この手紙を読んでいる今でも、浩介はきっとお母さんの事を許せないでしょう。

 あるいはひょっとしたら、一生許してくれないかもしれない。

 それでも仕方ないと思ってる。


 だけどもし時間が経って、たとえ許せなくても、お母さんと会ってもいいと思えた時がきたら、その時は一緒に食事でもしてくれると嬉しいです。


 もうその時は、一緒にお酒が飲めるときかなぁ?

 お嫁さんか彼女がいたら、絶対に一緒に連れて来てね。



 最後に今まで一度も言えなかったけど、お母さんの息子でいてくれてありがとう。


 生まれてきてくれてありがとう。


 たくさんの思い出をありがとう。


 駄目なお母さんとお父さんを、支えてくれてありがとう。



 20xx年 10月某日 大山美幸”


 ………………………………………………………………


 俺は泣いていた。

 声をあげて泣いていた。

 涙が止まらない。

 嗚咽が止まらない。

 呼吸すら、ままならない。

 隣で「読んでもいい?」と聞いてくる雪奈に、うなずくのが精一杯だった。


「なんなんだよ! 本当になんなんだよ! ふざけんなよ! 今更ふざけんなよ!」


 俺は精一杯の悪態をついた。

 相変わらず涙は止まらなかった。

 突然俺の頭が、ふわりと柔らかいものに包まれた。

 手紙を読んだ雪奈が、俺を抱きしめてくれていた。


 俺はそのまま泣き続けた。

 彼女の胸で。

 赤ん坊のように、ただただ泣き続けた。


 どれぐらい時間が経っただろう。

 からだ中の水分が目から全部抜け切るんじゃないか……。

 そう思い始めた頃。


「浩介君……」


 耳元で雪奈の声が聞こえた。


「私が言えたことじゃないかもしれないけど」


 俺は顔を上げて、雪奈の顔を見た。

 彼女も泣いていたようだ。

 俺は雪奈の潤んだ長いまつげを見つめた。



「浩介君はお母さんに、確かに愛されていたんだよ」



 俺は蓋をしていた記憶の器から、小さい頃の思い出を手繰たぐり寄せていた。

 まだ幼稚園か小学校低学年の頃だ。


 家族で動物園に行ったこと。

 海に行って磯遊びをして、俺がカニに指を挟まれギャン泣きしたこと。

 夏に近くの公園で花火をしたこと。

 ファミレスで、大好きなハンバーグを食べたこと。

 母さんの実家で、じいちゃんからお年玉をもらったこと。

 俺が熱を出したとき、母さんがおかゆを作ってくれたこと。


 どの思い出も、嘘じゃなかった。

 みんな笑顔だった。

 思い出すだけで、心が温かくなった。


 そうか。そうだったんだ。

 もしかしたら俺は。



 愛されていたんだ。


 生まれてきてよかったんだ。


 生きててよかったんだ。



 俺の体内から、枯れたはずの水分が再び目から溢れ出てきた。

 また嗚咽が止まらなくなった。

 雪奈はゆっりと、俺をまた抱きしめてくれた。


 またどれくらい時間が経っただろう。

 俺は雪奈に抱きしめられたまま、口を開いた。


「やっぱりまだ許せねぇよ」


「うん」


「勝手にこんな手紙、今見せられたって」


「うん」


「自分勝手もいいところだ」


「そうだね」


「それにあのクソオヤジ……風俗って何だよ!」


「はは……」


「少しは子供の事も考えろってんだ」


「うん」


「でも……もしかしたら」


「うん」


「いつかは、母さんのことを許せる日が来るかもしれない」


「うん」


「いつになるか、わからないけど」


「うん」


「もし、そんな日が来たら……」


 俺は顔を上げ、再び雪奈の顔を見つめた。

 彼女はもう泣いてはいなかった。

 その口元に聖母のような笑みを浮かべていた。


「一緒に母さんに会いに行ってくれるか?」


 そう言うと、雪奈は大きく目を見開いたあと……


「うん!」


 太陽のような笑顔を俺に向けて、元気に頷いてくれた。


「会いに行ったらさ、うんと高いディナー、ご馳走してもらおうよ」


「ああ、そうだな。ミシュランの星付きレストランだ」


「そうそう、そこで一番高いワインなんか頼んじゃってさ。あ、それだと二十歳になってからだね」


 そんな軽口をたたきながら、俺の気持ちをほぐしてくれる。

 雪奈は本当に優しい、最高の彼女だ。


「それまで一緒にいてくれるか?」


「何言ってるの! 当たり前じゃない!」


 彼女は少し呆れた表情でこう言った。



「忘れたの? ずっと一緒にいるって、約束したでしょ!」



 そう言って俺に抱きついてきた。

 俺はそんな愛おしい彼女を強く抱きしめた。


「ありがとな。俺の彼女になってくれて」


「こちらこそだよ。あの時私を見つけてくれて、ありがとう。助けてくれてありがとう」


「なんだか随分前のような気がするよな」


「本当だね。でも……」


 雪奈は不安そうに顔を上げた。


「どうした?」


「浩介君も……その……風俗とか行っちゃうようになるのかな?」


「なっ?」


 俺はハッとして、悲しげに眉をひそめる雪奈の顔を見つめる。

 あんのくそオヤジ!


「親子だし」


「俺は行かない! 行かないから!」


「おっぱいのおっきい女の子がいるところでも?」


「おっぱいは関係ねぇ!」


 いや、行かないぞ。行かないよな?


「ひなみたいにさ」


「ひ、ひなは今関係ないだろ?」


「そうだけど! 浩介君ひなの胸、結局いつもちらちら見てんじゃん。知ってるんだからね!」


 否定できないところが辛い。


「あ、安心しろ。俺は雪奈一筋だ」


「ホントに?」


「本当だ。それに……」


 俺はにやりと口角をあげて、


「雪奈の胸だって、ふわふわして結構おっきかったぞ。気持ちよかった」


「なっ!……もうー……」


 顔をうずめたとき、しっかり堪能させてもらったからな。

 耳の先までピンク色に染めた雪奈。

 目は涙目で、たまらなく色っぽい。


「好きだ、雪奈」

「もう……浩介君……ずるいよ……」


 俺は彼女の頬に優しく手を添えた。

 2人の顔がゆっくりと近づいていく。


 雪奈の潤んだ目がゆっくりと閉じられて、唇同士の距離がゼロになった。

 俺はいつもより深いキスを落とす。


 意識してなのか無意識なのか、自分でもわからない。

 俺の手は彼女の胸に導かれた。

 マシュマロのような柔らかい弾力。


 雪奈の胸って、こんなに柔らかかったんだ。

 雪奈も拒否しなかった。


「んっ……んーっ……」


 唇を塞がれた雪奈の艶めかしい吐息。

 なんだろう、この痺れるような高揚は……。

 経験のない快楽に身を委ねながら、俺達は意識を落としていった。



 ………………………………………………………………


 ※次話「あとがきと新作」も、是非御覧ください。

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