(子供たちの秘密)

 トゥーラと名のったその男は、こうして二人の子供の家で暮らすようになった。世話になる、とは言ったが、ただの厄介になるつもりはなかった。数日して体力が戻りはじめると、様々なことを手伝うようになった。家屋の修理や、家畜の世話、物の運搬――小さな子供の力には余るような仕事を。

 そのあいだ、ほかの人間の姿は見えなかった。すべてのことは、子供たちだけで行われていた。畑仕事や、食事の準備、洗濯、水汲み――。誰かの指示を受けているようにも見えない。ユニとアセリは、まったくの二人だけで、誰もいないこの村に暮らしていた。そのことは、トゥーラも認めざるをえない。

 トゥーラの体は順調に回復したが、それでも左腕は使いものにならなかった。それはもはや、鉛の塊をぶらさげているようなものだった。血が通い、温度を持っている、ということだけが違っている。紋様は黒々としたまま、消えることはなかった。時には、夢の中にまで痛みがやって来て目が覚めることもあった。

 同じ家で暮らしてはいたが、三人が完全に打ち解けあうことはなかった。当然といえば、当然のことだ。アセリはまったくのつっけんどんのままだったし、トゥーラのほうでも無理におもねる気はない。ユニだけがそのあいだで右往左往していた。少年は何かと二人の親睦をはかったが、それは海の波をその場につかまえておこうとするくらい、益のない行為だった。

 それでも、日々の暮らしにはリズムが生まれる。互いの無言を読みとり、歩度があわせられる。互いの足がからまないようにして、必要な時には同じものを支えあう。三人だけの奇妙な共同体は、ともかくも沈没はせず、無事に水の上に浮かぶ舟ではあった。

 ――ある日のことである。

 トゥーラはユニといっしょに、薪割りの作業にあたっていた。珍しく、晴天の日だった。空はここぞとばかりに青く輝いた。雪の地面は銀に光った。風さえもいつもより自由に、体をのばしているかのようだった。

 冬の季節は、これからも続く。薪はいくらあっても困ることはない。備蓄はまだ十分に残っていたが、何が起こるかはわからない。子供二人では、これは非常に難儀な仕事だった。だから、トゥーラは少しでもそれを増やしておこうと思った。

 丸太はすでに輪切りにされ、あとは斧で割るだけだった。トゥーラはユニと連れだってその場所に向かった。隣家の、裏庭にあたるところである。その場所は、いかにも急な用事で空けているだけ、という感じがした。少し待っていれば、住人が戻ってくるのではないか――

 だが、ユニは何の頓着もなく薪割りの準備にかかった。それが、トゥーラには奇妙に映る。アセリにしたところで、二人とも何か、それを当然のこととしているところがあった。

 トゥーラは薪割りにかかった。ユニが切り株の上に丸太を置く。それから片手で斧を振りあげ、力を矯めて打つ。丸太は軽快な音を立てて二分された。それを、ユニがまた置く。また、打つ。

 傍らで仕事するユニの手が、驚くほど赤く擦り切れていることを、トゥーラは知っていた。ユニだけではない。アセリもそうだった。それは、簡単な仕事でつくような種類のものではなかった。そうであるには、度を越している。といって、トゥーラはそのことについて質問したこともないし、二人が自分たちから何か話すようなこともない。

 トゥーラはもう一つ、二人がたびたびどこかへ姿を消すことにも気づいていた。そんな時、二人はトゥーラの同道を拒否した。あとをつけるような真似も厳禁である。二人がどこで、何をしているかは、トゥーラは知らない。興味がないと言えば嘘になったが、約束を破ることは思わなかった。信頼とか、礼儀とかいうのではない。そこに何か、一種の神聖を感じたからだった。

「…………」

 トゥーラは筋肉を硬直させ、狙いを定め、斧を落下した。丸太は意に逆らって、宙へと跳ねた。ユニが拾って、同じ場所に置いた。

「……いくつか、訊きたいことがある」

 とトゥーラは、あたかも間違いを起こしたのが斧のほうであるかのようにして、手元のそれをじっと見ながら言った。

「お前たちと、それからこの村のことだ」

 ユニは黙っていた。その無言の中身を、かすかに聞きとることができる。緊張、警戒、不安――それから、どこか悪夢を見るときに似た息づかい。

「この村には、本当にお前たち二人しかいないのか?」

 まるで斧に話しかけるようにして、トゥーラは言った。

 ユニはうなずいた。ユニも、トゥーラのほうを見ようとはしない。互いに、言葉だけが存在するかのように振るまっていた。まるで、それが礼儀であるかのように。

「何故、そんなことになったんだ?」

 ユニは首を振った。ひどく弱々しい仕草だった。あたかも、羽虫が地面に落ちていくかのようだった。「言うなって、いわれてる」

「アセリにか?」

「――うん」

「ほかの村人はどこかへ行ったのか? お前たち二人だけを残して」

「そういうわけじゃないよ」

「なら、いずれ帰ってくるのか?」

 ユニはまた、首を振った。さっきとは種類の違う首の振りかただった。最初のは、ただの否定を表す動作だった。だが、今度のは――今度のそれは、暗い深淵を想起するものだった。少なくとも、その存在を示唆するものでは。

「つまり、村人はもう――」

 トゥーラの言葉は、途中で遮られている。

「――その話は、そのくらいにして」

 いつからそこにいたのか、アセリが声を挟んだ。その声には、何割かのため息が含まれている。彼女は手袋を持ってきていた。二人のために、気づいて持ってきたのだろう。

「余計な詮索はしないで」

 アセリは滑らかな断面のある言葉で言った。

「前にも言ったけど、あなたには関係のないことよ」

「だが、お前たちは〝ウルト〟をうたったんじゃないのか?」

 その言葉は、二人の意識の奥深くで緊張を起こしたようだった。表情はまったく変えないまま、ただ体の表面にある空気だけが、それとはわからない変化をした。試験紙ではかっても検出されない程度の変化だっただろう。

「もう一度、言うわ」

 とアセリは平静な声で言った。それは、ありありと制御された静かさだった。

「わたしたちのことについて、余計な詮索はしないで。ユニも絶対、何かしゃべったりしちゃだめよ」

 そう言うと、アセリは来た道を戻っていった。トゥーラとユニはそれを見送った。少女がいなくなるまで、雲さえ空中で固定していた。雪は光の反射を弱めた。トゥーラは何も言わなかった。そして、二人とも元の作業を続けることにした。



 夕食には、兎の肉が出た。昨日、トゥーラが銃でしとめたものだった。新鮮な肉は滋味があって美味だった。体の一部が作り変えられるのがわかるかのようだった。

 食事はいつも通りに行われた。暖炉のある部屋で、三人が同じテーブルにつく。アセリとユニは横に並んでいる。トゥーラはその向い側に座った。時々、火の爆ぜる音や、薪の崩れる音がした。窓の外には、巨大な瞳でのぞき込むような濃い闇があった。

 三人とも、今夜は口をきかなかった。といって、それがいつもとそれほど違っているとはいえない。話をするとしても、簡単な、いわば事務的な内容ばかりだった。そのほうが互いに気づかいがなかった。そこにある沈黙は、決して重くはなかった。むしろそれは、着慣れた服のようにして、そこにあった。

 だが、今は――今は違う。その沈黙には、普段とは異なるところがあった。透明な水に何かが溶け込んでいる種類の沈黙である。それはじっと結晶するのを待っていた。きっかけさえあれば、それはただちに形をとるであろう。

 食事と片づけが一段落した。誰も、一言も口をきかなかった。いつもなら、それは銘々が自分の好きなことをする時間である。アセリは縫い物をしたり、料理の下ごしらえをしたり、小さく歌を口ずさんだりした。ユニはそれを手伝ったり、道具の手入れをしたり、眠たそうに本を読んだりした。トゥーラは銃の手入れをしながら、時折左腕の痛みに顔をしかめた。

 それが、今日はどれも起こらなかった。三人とも席に着いたまま動かなかった。まるで、自分たちが彫刻であることに突然気づいた、とでもいうように。時間さえ止まっていた。夜の静寂が耳についた。雪の積もる音が聞こえてきた。

「――俺は、〝統一軍アンバス〟の兵士だ」

 まるで独り言をつぶやくようにして、トゥーラは言った。暖炉の炎だけが、それに耳を傾けて揺れている。

「この左腕の傷は、戦場でつけられた。敵軍が〝燔祭〟を行ったせいだ。その時にまき散らされた〝死〟で部隊は全滅したが、運良く俺だけが生き残った。だが、その傷跡は左腕に残った。俺は命からがらその場を逃げだし、雪の中で倒れた。そこを、お前たちに助けられたわけだ」

 そこで、トゥーラは言葉を切った。言葉の痕跡は一切残らなかった。水をいくらひっかいたところで、何の傷も残らないのと同じで。時間はとまり、静寂は賑やかで、窓の外では雪が降り続いている。

 やがて、トゥーラは言った。

「お前たちは、〝歌い手エンテ〟なのか?」

 途端に、その場に形のある何かが生まれた。影は立ちあがって、光は輪郭を強くする。静寂は速やかに去った。有能な舞台係か何かのように。

 アセリはその言葉を聞いて、そっとため息をついた。雪がつもるのより、なお小さな音だった。そのため息が、すべてを語っていた。だがこの少女は、自分からそのことを肯定する気はないらしい。星の光に似たその強い瞳が、その意志を示していた。

 気づかうような目で、ユニはアセリのほうを見た。二人のあいだで見えない会話のような、短いやりとりがあった。答えはすぐに出た。アセリは軽く肩をすくめてみせる。ユニはうなずいた。そして、貝の口が開いた。

「そうだよ、ぼくたちは〝聖別された子供アンガレリア〟なんだ」

 トゥーラは驚きもしなかったし、非難もしなかった。そこにはただ、理解があった。左腕の痛み、夢で聞いた歌、二人だけ残された子供――そんな何もかもに対しての。

「だとしたら、この村で何が起こったのかは想像がつく」

 と、トゥーラは重々しく言った。

「貴重な子供を奴らがどうしようとしたかは、な。何しろ神の祝福を受けているんだ。利用価値はいくらでもある……だが、どうしてお前たちだけが残っているんだ?」

「みんなが、ぼくたちを匿ってくれたんだ」

 ユニは、それを見るものが戸惑うような微笑をした。それは光の輪郭を見ようとするように、はっきりとはしなかった。けれどじっと視線を逸らさずにいると、その形がわかった。それは悲しみが、そのまま花になったような微笑だった。

「オノルさんも、シェトさんも、ミメリアも、みんなぼくたちを隠してくれた。誰も、一言もいわなかった。お父さんも、お母さんも――」

 また、沈黙がやって来た。涙の跡を含んだ静かさだった。たくさんの涙の跡を含んだ静かさだった。そうして今となっては、それは涸れはてた井戸のように干からびていた。それがなおいっそう、いたましかった。

「……ここにいても、安全とはいえない」

 トゥーラは兵士としての厳しさでもって告げた。

「統一軍なら、〝歌い手〟は保護してもらえる。俺たちは決して奴らのような真似はしない。お前たちは俺といっしょに軍本営に合流すべきだ」

 ところが、返事はすぐにかえってきた。言葉が終わるのとほとんど同時に。それはまるで、続けてセリフが話されたようだった。

「いいえ、わたしたちはどこにも行かないわ」

 アセリだった。星の光が前よりも強くなっている。彼女の態度は頑強だった。それは貝殻の弱々しさとは違う、もっと容赦のないものだった。その固さはむしろ、相手を圧倒した。

「何故だ? どちらにせよ、〝夢の見直し〟は行われる。次の世界がはじまるんだ。ここに留まる必要はない」

「だから、戦争をするっていうの?」

 微笑した。冷笑、といったほうがいいかもしれない。

「この世界はもう死ぬんだ。ほかにどうしようがある?」

 トゥーラは不満そうに言った。アセリはどちらかといえば、それをなだめるように言う。

「わたしたちはただ、平和に暮らしたいだけよ」

「国中が血みどろの戦争をしている。平和なんてどこにもない」

「そんなの、わたしたちの望んだことじゃない」

「俺だって望みはしなかった!」

 トゥーラの声は苛立たしげに乱れた。

「だが、どうしようもない。選別は行われている。船の大きさは限られているんだ。誰もが死にゆくこの世界に取り残されないよう必死だ。だから奴らみたいに、神の怒りを利用してまで全体の数を減らそうとしている」

「あなたたちは、そうじゃないっていうの?」

 アセリの声はあくまで冷ややかだった。

「俺たちはそんな卑劣な行いはしない」

「じゃあ、どんな行いをするっていうの?」

 アセリの口元は皮肉に歪んだ。つまり、笑った。

「あなたたちだって、あの〝偽物の王〟に従ってる人たちとたいして変わりはしないわ。どっちも相手を殺すことばかり考えてる。恐怖と、焦りと、独善に憑かれて。自分たちが何をやっているのかもわかってない。そんなの、わたしはごめんよ。わたしは、そんな場所にはいたくない」

「…………」

 トゥーラは黙った。しかしそれは、押さえこまれた無言だった。唇のかすかな動きに、それが現れていた。籠の中で、甲虫が強く身動きするのに似ていた。彼は決して、納得はしていないのだ。それは訓練された兵士としての習性かもしれないし、この世界そのものの意志であるのかもしれない。

 それで、アセリは言葉を継いだ。相手を説得しようというのではない。そんな傲慢や打算で行うのではない。だがそれでも、伝えておくべきことはあった。

「……いいわ、明日、わたしたちが何をしているのかを見せてあげる」

 アセリはそう、ごく簡単な調子で言った。

 言葉にして返しもせずに、トゥーラはただ重々しくうなずいてみせた。

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