第四章 継承 3

 田中は笑いながら話している及川を見ていた。


 水尾の話しを聞いて思い出したのだが、田中は去年の脅迫事件の犯人の名前を人づてに聞いていて、及川の名前は知ってはいた。しかし、その後も色々な事件が立て続けに起きたせいで、そのことをすっかり忘れていた。今、その事実を知った上で及川という男を見ても、そんな大それた事件を起こすような男には到底見えなかった。


 及川という男をもう少し知っておこうと思い、田中は話し掛けてみることにした。


「大変なことになりましたね、これっていつ解放されるのかな」


「本当だよまったく。さくちゃんに迷惑をかけないで欲しいよね。それにしても殺人事件だなんて、この会社も終わりかな。良かったよこんな会社に採用されなくって」


「及川さんって、この会社の採用試験か何かを受けたんですか?」


「そうだよ。見事に落とされたけどね。面接の時に体調を崩してたってだけで、自己管理が出来て無いだとかなんとか。それだけの理由で人を判断するような会社なんて大したことないよね。今回のことも自業自得なんじゃない?」


 注意深く及川の発言を聞いていた田中は、及川がこの会社に逆恨みを抱いて犯行に及んだ可能性を考えてみたが、この男から感じ取れる印象からはそこまでのことが出来るようには思えなかった。


「田中くんは何の仕事をしてるの?」


「僕は只の公務員です」


「公務員か。安定していていいよね。でも好きな時に休んだり出来るの?僕はさくちゃん中心の生活だから、好きな時に休める仕事じゃないと駄目なんだよな」及川は真剣な眼差しで語った。


 田中は真剣に話す及川を見て、この男に対する印象が少し変わった。自分も好きな物に真剣に向き合うタイプだと思っているが、この及川という男の倉ノ下櫻子に対する思いはかなり純粋な物だと感じた。恋愛感情といった物とは違う、どちらかというと家族愛に近いような感覚だった。


「さくちゃんのこと本当に好きなんですね」


「好きなんてものじゃ無いよ。僕の人生そのものだよ。さくちゃんの才能はもっと多くの人に知ってもらうべきだ」その時少し及川の表情が曇ったように感じた。


「ただのアイドルじゃ無いんだ。彼女の存在はみんなを元気に出来る。田中くんもそんなところが好きなんじゃないの?」及川は田中を見つめて微笑んだ。


「そうですよね。僕も仕事で辛いことがあっても、彼女の歌や笑顔に元気を貰って頑張れる」田中のこの発言は、及川の調子に合わせたのでは無く、本心からだった。


「田中くんもさくちゃんファンなら家族だよ。ということは、僕とは兄弟だ。無論僕が長男だけどね」及川は笑顔で言ったが、田中は何故かその笑顔が悲しげに見えた。


「というわけで、弟なら兄の言うことはよく聞くようにね」そう言った及川の顔には先程感じた憂いのような物は無かった。


「田中くんは兄弟はいるの?」


「僕には妹と弟が一人ずついます。本当の長男というやつです」


「仲はいいの?さくちゃんの姉妹は凄く仲よさそうで良いよね。ああいうのを本当の家族って言うんだよね」


「及川さんは兄弟はいないんですか?」


「まあ、いるって言えばいるんだけど、さくちゃんのところみたいな感じでは無いな」


「はは~ん。仲が悪いんですね。でも家族ならそんな時があっても、また仲良くなったりしますよ。僕なんてしょっちゅう喧嘩しますし。妹なんかすぐ口をきいてくれなくなりますから」


「家族の仲が悪いのはいい思いしないよね。あの社長のところなんてそうじゃない?下手したら死んで清々してるかもよ」及川が冷めた口調でいった。


「いくら仲が悪いと言っても、流石に亡くなったことを喜んでいるようには見えませんけれど」


「そうかな?案外演技なんじゃないの?」


 田中は及川の久我山信明に対するこの敵意とも取れる感情はどこから来る物だろうと疑問に思った。ただ単に妬んでいるだけなのだろうか?それにしては必要以上に食ってかかるような気がしないでも無い。


 田中と及川が話しているところに、水尾がいつも通りの厳しい目つきで睨みながら近付いてきた。


「及川、お前なんかうろちょろしとるようやけど、変なこと考えとるんとちゃうやろな?少し話し聞かせてもらうぞ」


「別に何も疚しいことなんてしてませんよ。刑事さんが僕のこと怪しむのは勝手ですけど……」


「久我山裕美と一緒にエレベーターに乗っている時、何か気が付いたこととか無かったか?」


「話した訳でも無いし、特に何も感じなかったけど」


「お前、エレベーターを八階で降りている映像があったが、何しに降りたんや?お前の部屋は七階やろ」水尾は怪しむような視線を及川に向けた。


「それは、その……」及川は水尾から目線を外した。


「八階は久我山裕美が殺害された部屋のある階や。何か隠してことがあるんとちゃうか?」


「そんなんじゃ無いよ!八階と九階はスイートエリアだって聞いたから、さくちゃんが泊まっているならそこかと思って……」


「お前まだ懲りて無いんか?あんまり倉ノ下さんの周りをうろついていたら、しょっ引くぞ」水尾はかなり強い口調で言った。


 セキュリティーが効いている状態だと、スイートエリアにはそのフロアー階に宿泊している者以外は降りる事が出来ない。その機能が効いてない状態ではボタンを押せば誰でもその階で降りることが出来る状態になってしまっている。


 防災上の観点からセキュリティーが切れている状態では、階段のロックも解除されているため、階段を利用しての他階への移動も自由に出来る。立ち入り禁止エリア以外の扉は解錠されている状態になっているのだ。


 それをいいことに及川は、櫻子に会えるかもと彷徨いているのを、あちらこちらで目撃されていたのだ。水尾が怪しむのも頷ける。


 しかし、田中は先程から少し話してみて、この及川という男が久我山会長夫妻を殺すような凶悪犯には到底思えなかった。


 正直なところ、恐らく水尾も本気でこの男が犯人だと考えている訳ではないだろう。少しの可能性でもあれば細かく潰していくのが水尾のやり方なのは田中はよく知っていたので、この質問もその手順の一つなのだと分かっていた。


「俺の前で怪しまれるような行動はするなよ。大人しくしておけ」そう言い放って水尾はレストランから出て行った。


 それを見送る及川の目は、それまでの温厚そうな雰囲気からはかけ離れた鋭く冷たい光を帯びていて、その目を見た田中の背中には冷たい汗が流れていた。


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