第二章 エンターテインメントの城 6
「どう思った?」水尾は前を向いたまま運転席の元平に聞いた。
「なかなか感じのいい男ですね。女にさぞかしモテるでしょうね。頭も相当キレそうやし。でも正直違和感はあります。落ち着き過ぎているというか、はっきりとこれっちゅうもんが有るわけや無いんですけど」
「俺もそう思う。脅迫状に慣れてしまうなんてことがあるんか知らんけど、自分とこの会長の命を狙うような輩が身近におるかもしれんっちゅうのに、えらい余裕があるように見える。また悪戯やと思うとるんか、犯人に目星があるんか、そんなとこかもな」
水尾は内心苛立っていた。
警察をその辺の警備会社のように扱う久我山聡にもだが、久我山信明のどこか掴みきれない人間性に、自分の思考回路が上手く機能していないことに落ち着かない。
ああいうタイプの人間には用心しなくてはいけないと、どこかで警告音が鳴っているような気がした。
「詳しくは聞いてないんですけど、前科って言っていたのって、去年のことですよね。会長が自分で騒いで自分でもみ消したっていう」
「俺も概要しか聞いとらんのやが、そのもみ消し方がエグいんや。こっちから
「
「アイツに頼るくらいやったら死んだ方がましや」水尾は目を瞑って寝たふりをした。
「ハックション!」と分かりやすいくしゃみをしてしまった為に電車内でかなり目立ってしまった。あちらこちらからクスクスと笑い声が聞こえている。
大阪メトロ中央線の電車内で周りからの視線を気にしているこの男は、向かい側に座っている小太りの男のことが気になって仕方が無かった。
その男というより、その男の着ている物が気になっていたのだ。
向かいの男が着ていたのは、倉ノ下櫻子のファンクラブ限定のTシャツだったが、それ以上に少し出た腹の辺りが気になった。
そこにはサインらしき物が見えるのだが、自分の目に間違いが無ければそれは櫻子の直筆サインだ。ファンクラブの会員であっても、とんでもない倍率の抽選に当たらなければ手に入らないレアグッズだ。
羨ましそうに見ていると、そのTシャツの男が視線に気が付き自慢下にニタッと笑った。
その笑い方がいかにも見下されたような感じだったので、悔しくなり、気にもしていないようなふりをして窓の外を見た。
今、理由も無しに窓の外を見ているこの男「田中竜一」は警視庁捜査一課の刑事だ。東京の刑事が大阪で何をしているのかというと、只の休日だ。
只のといっては語弊があるかもしれないが、どうしても休みをとってしなけらばならないことができて、上司に頼み込んで休みをもらい、大阪まで出てきた次第である。
一ヶ月程前に、田中はあるイベントに申し込んでいた。倍率からして当たる筈も無いと高をくくっていたのだが、これに見事当選してしまい、招待状が届いた。
恐らく、向かい側の小太りの男も同じイベントの参加者であることは、その服装からして分かる。サインも当たって今回のイベントにも当選するとは何と運のいい奴なんだと田中は妬ましく思った。
今回のイベントは最近話題の企業である『ペリペティア』が建てた最新施設を、オープン前に体験できるというもので、この施設のイメージキャラクターに倉ノ下櫻子が抜擢されたことにより、そのファンクラブの会員の中から抽選で選ばれた人間が、櫻子本人との交流会を兼ねて、一泊の宿泊付きで招待されるという、ファンにとっては喉から手が出る程欲しいプラチナチケットだ。
そんなとんでもないチケットを手に入れて田中は相当に浮かれていた。思わず鼻歌を口ずさんでしまう程に。そのことによって電車内でさらに白い目で見られることになってしまった。
コスモスクエアでニュートラムに乗り換える際、ふと前方を見ると、やはり先程の小太りの男も乗り換えていた。間違い無く行き先は同じだと確認できた。
トレードセンター前で降りると、目の前に巨大な長方形の建物が見えた。
建物の前は大きな駐車場になっていて、手にしている招待状によればそこが集合場所のようだ。もう既に二十人程の人間が集まっていて、恐らく自分は遅い方なのだろうと想像できた。
前を歩く小太りの男からは少し距離を置いて歩いた。距離を置いたことに特に理由があったわけでは無い。
人が集まっている場所に近付いた時、その中の一人の男が軽く手を挙げながら小太りの男に声を掛けた。顔見知りなのか会ってすぐに話が弾んでいる。
田中は集まっている人間を一通り見渡してみたが、顔見知りらしき人間はいなかった。
田中は、倉ノ下櫻子のファンクラブには発足当初から入会はしていたが、仕事柄イベントなどの集まりには積極的に参加したことが無かった。ましてや、今回のように抽選にあたったことなど皆無だったので、そもそも顔見知りなどいるはずが無かった。
その後も何人かが集合場所に集まってきて、もうすぐ招待状に書かれた集合時間になろうとした時、建物の方向から一人の女性が歩いてきた。
青っぽいスーツ姿で、右手にバインダーらしき物を抱えている。恐らくイベントのスタッフか何かではないかと田中は思った。
「皆さん、ようこそいらっしゃいました。ほとんどお揃いのようにお見受けしますので、一応参加者名簿の確認だけさせて頂きます。私、ペリペティアの代表取締役である久我山信明の秘書をしております坂本ともうします。施設の簡単な説明等をさせて頂きますのでよろしくお願いします。その後の皆様のお世話は後ほど担当のスタッフを紹介させて頂きますので、何かありましたそちらにお申し付け下さい」淡々とした口調で説明した。
少し冷たい感じのする話し方だなと感じたが、それは田中の秘書に対するイメージがそうさせているともいえる。
坂本が名簿を見ながら一人一人チェックを行っていた。何気に小太りの男のことが気になり聞き耳を立てた。
「及川守様でよろしいですね」坂本が小太りの男に尋ねた。
あの男は及川というのか。田中はその名前を聞いて何か引っかかるような感覚があったが、それが何なのか思い出せなかった。
「田中さま。田中さまはまだいらしていませんか?」自分の名前が呼ばれていることに気が付いて田中は慌てて返事をした。
「ふぁい」あまりに慌てて妙な発声になってしまい、周りの人間に笑われてしまった。今日はよく笑われる日だと田中は溜息をついた。
「君は見たこと無いな。さくちゃんのファンになったのは最近かい?良かったね、それなのにこんな貴重なイベントに当選するなんて、ラッキーじゃないか」突然及川が話し掛けてきたので田中は少し面食らったが、その雰囲気は最初に抱いたイメージよりも人懐っこい柔らかな感じだった。
「今回のイベントの参加者はさくちゃん自ら選んだらしいよ。僕みたいな重鎮は選ばれて当然だけど、君みたいな新参者が当選するなんて、やっぱりさくちゃんは優しいよね」
田中は少し可笑しくなった。及川の言う『重鎮』や『新参者』という表現が面白かったからだ。この及川という男、案外楽しい奴かもと思い直していた。
「さくちゃんとの食事会もあるらしいから、君のような世間知らずっぽい若造は、くれぐれも迷惑をかけないようにな。ファン代表の僕の顔を潰すようなことだけはしないように十分気を付けたまえよ」及川はそう言い放って田中の前から消えた。
田中はやっぱりこの男を好きになれないと確信した。
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