悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい?

1. はじめに


「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」とか「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」といった言説をどこかで一度ぐらいは聞いたことがないだろうか。この説は一見して奇妙である。喜怒哀楽の感情よりも先に、その感情の結果として現れるであろう生理反応が起こるのだろうかと疑問を抱くのが自然だろう。


学術的な調査や研究を調べるよりも前に、くだけた話題として、気軽な読み物としてたとえば以下のサイトでも表題の説は紹介されている。


Gigazine 「笑顔を作ればハッピーになる」という「表情フィードバック仮説」とは?

https://gigazine.net/news/20190703-facial-feedback-hypothesis/


心理学ミュージアム 笑うと楽しくなる(ジェームズ・ランゲ説)

https://psychmuseum.jp/show_room/laugh/


この感情に関する仮説は、提唱者の名前からとって「ジェームズ・ランゲ説」とか感情が脳ではなく運動によって生じるということで「末梢起源説」などと呼ばれている。また、この説を発展させた仮説として、顔の表情が感情に影響を及ぼすという「表情フィードバック仮説」というものも提案されている。


ジェームズ・ランゲ説はやはりどうしても直感的には違和感をぬぐえない。「タマネギ切ったら悲しくなるのか」とか「作り笑いでも楽しくなるのか」といった疑問が直ちに浮かぶことになる(ずっと後で述べるが、実はこれらは部分的には正しい)。


ジェームズ・ランゲ説が提唱されたのち、多くの専門家がさまざまな実験を行って、この仮説は全面的に正しいというわけではないが部分的にはそうだというところもあるらしい、ということは明らかになってきている。


具体的にどういう研究がジェームズ・ランゲ説を支持してきたのか、を調べる前に、「そもそもジェームズはそんなこといったのか?」が気にはならないだろうか。現在では部分的には支持されているとはいえ、やはり「泣くと悲しくなる、笑うと楽しくなる」という説を無碍に受け入れるのにはどうしても抵抗がある。そんな奇妙なことを、いったいジェームズはどんな文脈でどんな表現でいったのか、まずはそれをすっきりさせておくために今回いろいろ調べてみた。そして調べてみてわかったが、当初漠然と思っていた以上にかなり大変なことになった。そのため、今回はランゲについては全く調べていない。



2. そもそもジェームズはそんなこといったのか?


広く知られている名言とか格言の中には、そもそも別人の発言である、意図が違う、そもそもそんなことはいってない、ということがままある。そこでまずはジェームズが本当に「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」なんていっているのかを確認することにした。ジェームズ・ランゲ説の初出としてよく引用されているらしき文献を調べたところ、話の出所は『Principles of Psychology』[1]であるらしい。Wikipediaに「心理学原理」という項目で登録されている。それによれば、執筆に十二年かかった大著だそうで、日本語の全訳は存在しないとのことである。


幸い、著作権がもう失効しているらしく、インターネット上に全文が公開されていたのでそれを見ながらくだんの表現らしきところを探してみたところ、CHAPTER XXV THE EMOTIONSに以下のような記述があった。なお、いろいろ調べてわかったが、emotionは情動とか情緒と訳すべきで、feelingが感情に対応する訳のようだが、私にはそのへんの微妙なニュアンスの違いがなんともいえなかったのでこの文章ではかなりいい加減に書いている。


文献[1] p.450から引用

(前略)... we feel sorry because we cry, angry because we strike, afraid because we tremble, and not that we cry, strike, or tremble, because we are sorry, angry, or fearful, as the case may be.

(前略)... それぞれの状況において、我々は泣くから悲しい、打ちのめすから怒る、震えるから怖いのであって、悲しいから、怒っているから、怖いから、泣いたり打ちのめしたり震えたりするのではない。


確かにいっている。ということは、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」ということをジェームズが提唱している、と主張するのはまちがいではないといえそうだ。


残る問題は、ジェームズはこの説をどんな文脈や意図で、そしてまたいかなる研究結果にもとづいて主張したのかということである。


それを調べるために上記の引用部分の前後をざざっと眺めてはみたけれども、どうもなんらかの実験結果を掲載しているとおぼしき図表などが見当たらない。しかたがないので、ジェームズは何を根拠にこんなことをいっているのかについて、文献[1]だけでなくほかの資料も探したところ、話は全く五里霧中の様相を呈してきてしまった。



3. 心理学から哲学へ


ジェームズの「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という説が心理学の教科書でどのように扱われてきたかについて、宇津木[2]はさまざまな扱われ方をされてきていることを報告している。ジェームズの説の典型的な扱われ方としては、「ジェームズはこんな変なことをいったけど、それはキャノン[3]が否定しているよ」といった具合らしい。キャノンは「内臓とか筋への運動指令は情動の起源ではない」と実験結果から断じている。一方で、宇津木[2]も指摘しているがジェームズの説はどうもなんらかの明確な論拠にもとづくものではないようである。


ジェームズがどういうつもりであんなことをいったのかというと、おそらくジェームズは心理学というよりは哲学の立場からああいうことをいったような気がする。気がする、というのはこのあたりから私にはなんだかよくわからなくなってきて、文献を読んでもチンプンカンプンだったからである。たとえば文献[4]とかそうである。ここではジェームズが意識をどのように説明しようとしたか述べられているのだが、私にはさっぱりである。


それでも、どうにかこうにか、だましだましでたらめに読んだり調べたりしたところによれば(したがって、おおいにまちがっている可能性は否定できないが)、まず、意識とは何かを説明するにあたって汎心論というキーワードがあるようなのである。Wikipediaにもこの項目がある。汎心論とは、意識というのは脳とか神経細胞とかで構成されるのではなく、もっと別の何か(それが何かはともかくとして)によって生じているという考え方のようである。


現代において科学を学んだ人であれば、ヒトの意識は基本的には脳に由来するはずであり、それ以外の何かなんてあるはずがないと疑念を抱くかもしれないが、汎心論というのは決して疑似科学とかスピリチュアルとかそういう話で片づけられないものであるらしい。


意識とは何か、を説明するのは難しいのでひとまず置いといて、ヒトに意識があることはだれもが認めるところだろう。では動物には? となると、一概にはいえないがまああるでしょうと思う人が多いかもしれない。植物は? となると多くの人がないと答えるかもしれず、石ころには? となるとほぼすべての人がないと答えると思われる。さて、ここで生物の誕生や進化の過程を漠然と想像すると、ヒトもいきなりヒトの姿でこの世に現れたわけではなく、そのずうっと前はもっと単純な微生物とか、はたまたアミノ酸とか有象無象の分子か何かだったはずである。ということは、ヒトは進化なり突然変異なりの過程におけるどこかで意識をもつようになったか、あるいは、単なる分子が今日のヒトがもつ意識の元となるような素材をもっていたとしてもさほど突飛な発想ではないのではないだろうか。そういう発想の延長にあるのが汎心論のようである。


意識に関する思考実験をもう少し紹介すると、中国脳というものがある。思考実験なので現実的な話は無視するが、途方もない巨大な広場に数百億人を超える旗を持った人々が集まっているとする。これらの人々はヒトの脳の神経細胞や神経伝達物質のはたらきを完全にエミュレートすることができて、神経細胞の発火を旗の上げ下げで表現する。人々は自分と関係のある(つまり細胞としてつながっている)人の旗の状態に応じて、自分の旗を上げ下げする。人々はみな自分と関係のあるごく近傍の他人の旗しか見ないままに、ただ一心不乱に旗を上げ下げするだけである。もちろんそのことになんの意味があるのかなんて知る由もない。


いま、赤色を見たという刺激に相当する合図が網膜や視神経に関係する人々に送られたのをきっかけとして、人々は旗を上げ下げして実際のヒトが赤色を見たときの脳の動きを完全に再現してみせた。このとき、何者がどんな赤色を見ており、また、この人々の集まりには意識はあるのだろうか?


「ある」といいきる人もいるだろう。一連の人々の動きこそが意識そのものである、とかなんとか。「あるはず。しかし我々はまだ意識がなんであるかを正確には知らないため、これらの人々の何が意識であるかをうまく指摘することはできない」という人もいれば、「ない。ここには決定的な何かが欠けている。それが具体的に何かはわからないが……」という人だっていると思う。


あるいはまた、仮に意識があるのだとすれば、集まった人々が広場から一人去り、二人去りと減っていったときに、どの段階で意識はなくなるのだろうか。あるいはその反対に、何人集まってどれだけの規模になったときから意識はあるといえるのか。おいそれとはなんともいえない悩ましい問題である。


残念ながら、現在の科学は意識とはなんであるかに対する明快な答えをまだ用意できていない。ジェームズの時代の人々も意識とはなんであるかを一生懸命考えたわけであり、そしてジェームズも意識とは何か、情動とは何かを解き明かそうとしたのである。そして、どうやら文献[1]におけるジェームズの情動に関する記述というのは、キャノンが示した生理学的な立場からの主張ではなく、もっと概念的(形而上学的っていうんですか。私はいまもって形而上学的の正しい意味合いを理解していませんが)な話だったような気がするのである。であれば、ジェームズに対して「強制的に笑顔にする機械で人は楽しくなるんですか」といった実際の現象に即した応用的な疑問をぶつけたところで、彼にとっては「けったいなことしはりますなぁ」という話になるのでないだろうか。



4. ジェームズの理論への誤解と真意


ジェームズは「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」といってはいるが、その本来の意図は世の中に広まっているものとは異なるようである。そういった観点をもちながらジェームズの説についてさらにいろいろ調べていると、これはもうはっきりと「ジェームズの理論は世の中で誤解されている」と苦言を呈している文献[5]が見つかった。また、文献[1]は非常に長い上に英語なので目を通すのがはなはだ困難であるが、文献[1]には概要版があるらしく、さらにその現代日本語訳[6]を作った偉い人(文献[2]の著者)がいたので、それも発見して目を通すことができた。


ジェームズの理論への正しい理解について、Barbalet[5]の解説を極めて大雑把にかいつまんで挙げると以下のようになる。


・身体の運動が情動に先立つのであり、情動とは運動の副産物(epiphenomenon)である。

・情動そのものが身体を動かしたりほかの情動を呼び起こすことはない。

・運動に起因しない情動もあるし、運動が常に情動を誘発するわけでもない。


ジェームズは身体の運動が情動よりも先に起こるといってはいるのだが、生理学的な現象としてそういうことが起こることを明らかにしたわけではないし、ましてや、笑顔を作れば楽しくなるなんてことも主張していないことに注意しなければならないようである。


「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」などとずいぶんセンセーショナルなことをぶち上げてまでジェームズがやりたかったこととは、"mind-stuff"(心の素材)に対する批判であるらしい。


mind-stuffとはウィリアム・キングドン・クリフォードという数学者かつ哲学者が提案した考え方で、ヒトも分子で構成されているのだから意識も分子によって生成されていなければならず、突き詰めていえば一つ一つの分子には心の素材(mind-stuff)たる要素があってもおかしくはない、というものらしい。前節で示した中国脳の思考実験でいえば、単に旗を上げ下げするだけの行為が意識だとは思えないが、それらが組み合わさることで意識が現れるのだとすれば、この旗を上げ下げする行為には心の素材が備わっているとみなすことができるはずだというわけである。


ジェームズはmind-stuffなんてものはないと主張しているのである。しかしながら、その根拠や論理展開について私なりにいろいろ調べてはみたのだが、結局のところ私にはよく理解できなかった。なんとなくわかったような気がすることを書くと以下のようになる。


漫画を読んで楽しくなることは確かだが、ではその楽しいという感情をロボットに説明してくださいといわれるとかなり困ってしまう。「楽しいというのは思わず笑ってしまうようなことなんだよ」としか説明できないのだとすれば、楽しいという感情は常に笑いに従属するものであって、ということは、笑うことでしか楽しいという感情は出てこないと推測される。だからmind-stuffは誤りである。


だからの前の部分はまだわからないでもないのだが、そこからmind-stuffが誤っているという話につながるところがよくわからない。Principles of Psychology[1]の全文を精読すればわかるのかもしれないが、いかんせん、この大著は長大で衒学的な文章に満ちているため(このことは後年のジェームズ自身も認めて反省していたそうである[7])、とてもじゃないが私には踏破できない。


その上で私の頓珍漢な理解と憶測を述べることになるが、ジェームズは意識が起こす現象というのはすべて身体の外側に出てこなければならないと考えていたのではないだろうか。mind-stuffなるものが存在するならば石ころにも石ころなりの意識があるといえるかもしれないが、実際には石ころに意識があるとは受け入れがたい。したがって、ヒトの意識の中で情動が生じたとして、情動が身体の外側に直接出てくることなく、身体の内側でこそこそと泣けとか笑えとか運動を司る脳の領域に指令を出しているような想定が、ジェームズの哲学においては許容できなかったのかもしれない。mind-stuffがあるとするならば、石ころは動けないだけで石ころの内側では泣いたり笑ったりしてるのか、そんなはずなないだろう、とかそういう主張だったような気がする。



5. おわりに


結局、ジェームズの理論についてはかなりの部分で消化不良を起こした感は否めなかったが、それでも今回の調査で明らかになったことは以下の二点である。


1. ジェームズは「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と確かにいってはいる。

2. いってはいるが、その意味は泣いたり笑ったりといった運動が悲しいとか楽しいといった情動を呼び起こすというわけではない。運動が情動のトリガーになるとはいっておらず、情動は運動の副産物であるといっている。


ジェームズはなんの根拠もなく表題のような論を主張して無責任ではないかと感じる人もいるかもしれないが、しかしそもそもジェームズの論はあくまで仮説である。科学的な結果にもとづく結論ではなく、科学的な調査を行うにあたっての出発点を与えているに過ぎない。ジェームズの仮説がもっともらしいと思った人はその前提で新たな研究に進めばいいし、おかしいと思った人もまたその方向で研究に進めばいいだけの話である。


ヒトの脳の状態を精緻に計測していけば、「脳のこのデータは楽しいという感情を表している。そしてこのデータは笑うという運動を表している。二つのデータを見比べると、感情と運動はこっちの方が〇〇ミリ秒早く脳内で生じている」とか、「情動を司る脳の領域から運動を司る領域に信号が伝わっているか否か」といった生理学的な知見がいつかは明らかになるのだろう。しかし、その結果をもってジェームズ・ランゲ説が合っていたとか合っていなかったとかあげつらうのもおそらくはナンセンスである。


少なくとも私に確実にいえそうなことは、たとえば強制的に笑顔にする装置で人々を強制的に楽しくさせるとかそういうことを思いついたときに、ジェームズ・ランゲ説を注釈なしで引用するのはよくないんじゃないかなぁということぐらいである。



参考文献


[1] W. James, "Principles of Psychology Volume 2," Henry Holt and Company, 1890.

[2] 宇津木 成介, "ジェームズの感情理論:教科書にあらわれるその根拠と論理," 神戸大学国際文化学部紀要, vol.27, pp.1-27, 2007.

[3] W.B. Cannon, "The James-Lange Theory of Emotions: A Critical Examination and an Alternative Theory," The American Journal of Psychology, vol.39, no.1/4, pp.106-124, 1927.

[4] 冲永 宜司, "意識流の存在論的位置づけ," イギリス哲学研究, vol.27, pp.55-69, 2004.

[5] J.M. Barbalet, "William James’ Theory of Emotions: Filling in the Picture," Journal for the Theory of Social Behavior, vol.29, no.3, pp.251-266, 2001.

[6] 宇津木 成介, "翻訳 ウィリアム・ジェームズ著『情動とは何か?』," 神戸大学国際文化学部紀要, vol.98, pp.35-68, 2007.

[7] 砂原 陽一, "現象学からの解放: ウィリアム・ジェイムズの哲学," 金沢大学教養部論集 人文科学篇, vol.26, no.2, pp.149-165, 1988.

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