バー『湊』は今日も大忙し エピソード3

マルシュ

第1話

僕が「湊」で働き始めてもう丸三ヶ月。

 三ヶ月前、カウンターバーのアルバイトバーテンダーをしないかと知人にこの店を紹介されて、万年金欠、貧乏学生の僕は、そのお誘いに二つ返事で食らいついた。毎週火曜から土曜の夜、時間は8時から12時の4時間で、時給は千五百円だが技術アップ時には賃上げ可という条件。結構おいしい。住んでるワンルームマンションからも歩いてすぐだし、昼間のバイトと掛け持ちしやすいのも助かるし。そして、無事オーナーマスターの面接に危なげなく合格した僕だけど、白状すると実は、その時点でシェイカーの扱い方はおろか、カクテルの名前すら知らないような有様だった。もちろんこの三ヶ月、カクテルは一度もお客さんにお出ししたことがない。「君がお出しするのはまだ早いね。」と、マスターにあっさり止められていたのだ。常連さんの皆さんがご承知の通り、毎晩あんなにシェイカー振り振り練習していたのにも関わらず。

 ところが今夜、何がきっかけだったのかはわからないけれど、突如マスターから『お客さんのカクテルを作ってよし』とのお許しが出た。ただし、お客さんの方から『僕に作って欲しい』という依頼があった場合にだけという足かせ付き。その上、『常連さんに限る』とのこと。マスターったら、僕のこと信用してるんだかしてないんだか・・・。

 常連さんで思い出したが、そういえば最近、作家のX先生と薬剤師のYさんをお見かけしない。ちょうど、あの事件があってから後だ。X先生の方は、毎晩通ってくれるなと思ったら原稿書くのに追われてずっと自宅にこもってたなんて言って、丸一ヶ月お見かけしないというのも珍しくないそうなんだけど、Yさんは、一ヶ月も来店が空くなんて珍しいんじゃないだろうか。やっぱり、あの事件が衝撃的すぎたのかもしれない。残念。優しいYさんなら、僕にマティーニを作らせてくれたかもしれないのにな。

 誰か作らせてくれないかとカウンターを見渡しても、今夜カウンターに陣取っているのは、マスター旧知の元警察官でビール党のZ氏、それに、近くの不動産屋さんにお勤めの同僚二人組だけ。この二人組、そろそろ僕のことをからかうのにも飽きたようで、最近は来たらすぐに『バーボン』を注文する。うん、いい傾向だ。いやいや、よくないよ。僕にカクテルを注文してくれそうな常連さんが、今夜はまだ誰一人来てないよぉ!

 ヤバい!

 悪いことに今日は火曜日だ。週で一番暇な日・・・。

 その上、朝からずっと雨が降っている。これじゃあ、これ以上誰も店に寄ってくれそうにない。

 そして、他に誰も常連さんが来てくれなかったら、僕のバーテンダー本格デビューは先延ばしのお預けになってしまう。やれやれ。 

 そんなことを考えながら、僕は、ニュースでも見ようとノートパソコンを開いた。案の定、テレビはプライムニュースをやっていた。

 ひと月前、この番組を見て飛び上がるぐらい驚いたっけ。なんだか遠い昔のことのようだ。

 そして、残念ながら今日もいいニュースは一つもなさそうに見える。地球がまだあることが不思議なくらい、あっちで戦争、こっちで紛争、やれ『新冷戦』だの『独立自治』だの、地球上のあらゆるところで諍いや戦争が繰り広げられ、まるで、世の中全てが憎しみで溢れ返っているようだ。僕が、これからも地球で生きていかざるを得ないことにうんざりしていると、ボソボソと暗い声のアナウンサー氏が『死刑囚の刑執行』原稿を蕩々とテレビの中で読み上げ始めた。そして、その死刑囚が犯した事件のあらましを細かく説明している。

 すると、それを横目で見ていたZ氏が「あっ。」と驚いたように短く声を上げ、その声に、今度はマスターが「えっ。」と反応。そして、その次は二人で声を揃えて、「おおっ!」とニュースの画面を見ながら叫んだ。それを聞いた僕は僕で、急に地球上の不幸を一身に背負ったような気分になってしまい、おいおい、またかー。またなのかー!と心の中で大絶叫していた。似たような光景、ひと月前にも見た記憶が・・・。これはデジャブなの?

 

「25年前の4月26日に起こった『あおい銀行3億円強奪事件および警察官襲撃拳銃強奪事件』、犯人の死刑が本日執行されました。この事件は、当時21歳だった死刑囚と他二名の犯人が、刃物を持って「あおい銀行西東京支店」に横付けされていた現金輸送車を襲撃、現金輸送を担っていた警備会社社員1名を殺害の上、現金を強奪し用意していた車で逃走、途中、車を乗り換えるために停車した空き地でたまたま通りがかったパトロール中の警察官に職務質問され、21歳死刑囚はその警察官を襲って拳銃を強奪、仲間二人をその拳銃で射殺したという、犯罪史に残るような凶悪事件でした。」アナウンサー氏は淀みなく原稿を読み上げる。

「犯人は、事件後約一ヶ月間逃走ののち警察に身柄を拘束されましたが、殺人の容疑は否認。また、強奪した現金3億円のうち1億円の所在が未だ不明ですが、こちらの隠匿にも関与していないと否認していました。ですので、最初からもう一人共犯者がいたのでは、もしくは全くの冤罪で、別人が犯人の可能性もあるのではと事件発生当初から囁かれ続けていました。」

 アナウンサー氏は、それだけ言うともう次のニュースを読んでいた。次から次へと事件は起こる。25年も前の事件に長々とかまけている暇はないらしい。

 しかし、マスターとZ氏は、カウンターを挟んでその話題を継続していた。二人ともやや小声になっている。

 お客さんが少なくて暇なことと、何かの拍子にZ氏がビールのお代わりじゃなくカクテルを僕に注文してくれるかもしれないという淡い期待を持って、僕はそのやり取りに口を挟むべく事件をスマートフォンで調べ始めた。結構複雑な内容のよう。事件の詳細を記した新聞社のサイトや、個人の感想を面白おかしく書いたサイトなど、刑が確定した20年前のものが一番多い。そんな中から僕は、『専門家の解説』入り週刊誌記事サイトを選んで読んでみた。よくテレビで見かける『元警察官の犯罪評論家』がその専門家で、事細かく丁寧に、わかり易く事件内容と犯人についての考察を述べている。

 ”この事件、不思議な点がいくつかありました。まずは、3億円強奪ですが、犯人は本当に三人だったのかです。実行犯は三人でしょう。ですが、他に現金輸送車の情報や銀行に現金が入るかどうかの情報など、それらを知る立場にある人物の協力が必要だったのではと思います。手引きをした人物が銀行関係者の中にいるのではないかということが想像できるでしょう。次に、なぜ、輸送担当者二名のうち一名だけを時間がない中殺害したのか。これも不思議です。ひょっとすると、殺害されたこの人物が手引きをした第四の男だったのかもしれません。次に、仲間二人の殺害です。警察官に職質されて慌てて警察官を刺してしまうというのはわかりますが、その後、威嚇発砲されたにもかかわらず、銃を構えている警察官を押し倒しその拳銃を奪う。無茶なことしますよ。その拳銃で仲間を殺害するんですが、一度も銃器を触ったことない人間が、冷静に、離れて立っていた仲間の心臓あたりを狙い撃ち、それも二人ともです。不可能にも思える行為ですね、私にとっては。で、最後に現金の行方です。3億のうち、新券が2億、使用済みの紙幣が1億だったんですが、現場の車の中に新券はそのまま放置されていました。新券だと紙幣のナンバーは控えられている可能性が高いので仕方なく放置したのでしょうが、使用済み紙幣の1億はどこを探しても出てこなくて、未だ行方不明。犯人が隠匿したに違いないのですが、シラミ潰しに探しても全く出てこない。一体どこに消えちゃったんでしょうか。最後に、捕まった犯人ですが、自分は警察官が威嚇発砲した時に怖くなってその場を逃げ出した、何も持たずにと言っているんです。仲間を殺しもしなければ、金も持って逃げていないと。その割には、銀行襲撃時に警備員を刺したことは認めているのです。ただし、自分ともう一人の二人でやったと言っているんですがね。他にも、細かい点を指摘したら数え切れないほどで、私にしたら、この事件は不思議なことだらけです。”

 なるほど、今より20歳若い当時の犯罪評論家さん、今じゃテレビで大活躍っていうのも納得の、親切丁寧な解説だ。リアルタイムで事件のことを知らなくても、とてもわかり易い。

 僕は、そのスマートフォンの画面をマスターとZ氏に見せながら、会話の途切れを突いて口を挟んだ。

「さっきの事件、冤罪だったらどうするんでしょうね。死刑を執行したんじゃ、もう取り返しがつかないし。後、よくわかんないですけど、もし真犯人が現れたとしても、もう時効なんじゃないんですか?その頃って、時効が撤廃になる前ですよね、確か・・・。」二人の話に割って入るのに適した内容かを気にしながら放った言葉に、静かにマスターが返事をしてくれた。

「君が生まれる前の事件だけど、興味あるのかな?」珍しく難しい顔だ。Z氏も、俯いて思案顔をしている。

 まずい!この空気。

 僕、ひょっとして『地雷」ふんじゃったのかな・・・。

 僕が答えずにいると、マスターは、「凶悪事件の時効撤廃は、この事件の翌日起こった事件からになった。2010年4月27日に、時の政府が法案を持ち回り閣議してそれを即日施行。その改定前の刑事訴訟法では、殺人なんかの凶悪犯罪の時効は15年だったから、もし真犯人がいたとしても、一日違いでギリギリこの事件は時効になっている。無罪放免だよ。10年前にね。」と説明してくれた。要するに、たった1日の違いで大違いってことだ。

「ついでに言うと、行方不明になっている一億円が対象の民事の方の時効も成立済みだよ。」と、ウンチクも挟み込んでくれた。

 こんな時、X先生がいたら興味深い話の一つでも追加してくれただろうに。ハードボイルド作家なんだから、この手の話には明るいに違いない。銃なんか、あの作品この作品、日本での出来事とは思えないほどまめに登場させている。

 そこで僕は、X先生の作品の受け売りを披露してみせた。

「本当に仲間を殺しちゃったんでしょうかね、この人。銃は触ったことないって言ってたようだし。その割には、共犯の二人はほぼ心臓を撃ち抜かれての即死ですよね?X先生の小説の主人公曰く、『素人に心臓は撃ち抜けない』ですよ。至近距離からじゃないのに、心臓は撃ち抜けないんじゃないかな。」僕の小説でもないのに、得意げに語ってしまってちょっと恥ずかしい。

「ところで、そもそもなんで犯人は捕まっちゃったんです?警察はどうやって犯人の身元特定したんですかね。遺留品でもあったんでしょうか。」珍しく雄弁なマスターに、僕はもう少し話す機会を作ることにした。店も暇なまんまだし。

「レンタカーからだよ。身元が割れたのは。犯人は、銀行を襲う直前レンタカーを借りて現場に駐車しておいたんだけど、そのレンタカーを本人の免許証で借りていた。ちなみに、銀行に乗り付けた方は盗難車だったんだけれどね。」とマスターは即答してくれた。本当に詳しい。

「この記事に書いてないことをもう少し詳しく補足してあげると、この警察官は最初二人で巡回パトロールしてたんだよ。先輩と一緒だったんだ。でも、事件直前、先輩の方が現場近くの一軒家にすむ独居老人に捕まっちゃってね。先輩は、そのおばあさんと会うといつも何某かの簡単な力仕事を頼まれていたらしい。後輩には、簡単な仕事だからすぐに済む、先に行き始めていてくれと言って自分一人で力仕事を片付けに向かった。そして、おばあさんに頼まれた用事をさっさと済ませて、合流すべく急いで自転車で後輩の後を追いかけたら、近くの廃工場の空き地で倒れている後輩を発見、別れてから十分とたってなかったらしい。慌てて何事かと辺りを見渡したら、男二人が銃で撃たれてすでに死んでいて、その近くには二台の車、うち一台には二億円が積込まれたまま放置されてたってわけだ。二人がパトロールに出る前には、もちろん『現金強奪事件』の詳細も末端の警察官が知るところとなっていたし、そのせいでいつもと違う時間にパトロールする羽目になっていたわけだけど、とにかく、先輩警察官はこの現場が『現金強奪事件』と関係あるとすぐに分かった。ただ、残念ながら今回死刑になった犯人は、すでに逃走してしまっていてそこにはいなかった。」マスターは、まるで現場を見ていたように『立て板に水』の如く僕に話してくれる。

 そして、その間、Z氏は相変わらず俯いて押し黙ったままだった。

 マスターが一息ついたところで、Z氏のビールはすでに瓶にもグラスにも残っていなかったし、長々と説明してくれたマスターも何か飲みたいのではと、僕は気を利かせたつもりで二人にカクテルを作らせて欲しいと頼んでみた。マスターは一瞬困った顔をして見せて、それから、『ギムレット』を二つと微笑んだ。僕にシェイカーを使わせてくれる。

 僕が二人分のドライジンとライムジュースを氷入りのシェイカーに放り込んでいると、マスターの後を継いで、今まで黙っていたZ氏がさらに記事を補足し始めた。

「先輩警察官はすぐに応援を呼んだ。幸い銃は現場で見つかった。不幸中の幸いなんだよ、銃が持ち去られていなかったと言うのは。あの頃の警察官はまだみんなニューナンブを携帯していたんだけど、ニューナンブM60が装填できる玉は五発。後輩警察官が威嚇射撃に一発、犯人が二人を殺すのに二発使用しているので、残り二発がまだ銃に装填されたままだった。これを使ってまた別の犯罪が起きたら、『警察の失態』などと言われるぐらいでは済まされない事態になるからね。」そう言って、Z氏はハァとため息をひとつついた。

 どうやらZ氏も、この事件はよく知っているらしい。

 僕は、こんなにも重い話の最中で恐縮だけど、毎日毎日飽きずに練習していた8の字を、とうとうお客さんにお出しするカクテルで披露できると思うと嬉しくてたまらなかった。まぁ、マスターに無理やりお願いした感は否めないけれど・・・。

 グズグズせずに華麗に(僕はそのつもりだった)宙でシェイカーを振って見せて、それから、均等になるようにそうっとカクテルグラス二つに白濁した完成品を流し込んで、僕は二人の前にスッと『僕のギムレット』を差し出した。丸いコースターの上に乗せて。

 そして、二人は黙ってそれに口を付けてくれる。


「後輩警察官は、脇腹を刃物で刺されただけでなく、刺されて倒れ込んだ際にそばにあった石で頭を打って意識不明の重体、まさに三日三晩意識が戻らなかった。実際、医師からは危ないんじゃないかと心配されたらしい。それでもなんとか一命は取り留めたが、回復しても幸か不幸か事件の記憶だけがすっぽり頭の中から抜け落ちていて、記憶喪失、周りにあれこれ説明されてもその時何があったのか全く思い出せないまま、そのまま警察を退官してしまった。まだ30歳にならないくらいだったのに。先輩警察官も、事件時に後輩を一人にしてしまったということで責任を感じたのか、後輩が辞めてすぐ、こちらもあっさりと退官してしまった。以上、私たちが知っているのはそのぐらいだよ。」Z氏から話をもう一度引き継いだマスターは、そう言い終わると、すぐに僕の最高傑作をぐっと飲み干した。

「どうしてそんなにこの事件に詳しいんですか、マスター。まさか、マスターが真犯人とか・・・ね。」あまりにも重たい空気になっているのが息苦しくて、ちょっと空気を変えようと僕は冗談を口にした。笑えそうにもない冗談だけれど。

 はぁ・・・。だよね。

 やっぱり空気は変わらない・・・。

 これは結構気まずいなと思い出した時、ふっと僕の頭にある考えが浮かんだ。あり得そうにないこと。そして、ここが僕の悪いところなんだけれど、考えが頭に浮かんだ時点で、すでに僕の口はその考えをどんどん外へと吐き出していた。全く・・・。僕の大ばか!

「あのぉ。真犯人はやっぱり他にいるんじゃないですか?」僕のもっと悪いところは、一度口に出したら全て吐き出してしまわないと止まらないところだ。まるで、X先生の小説のような考えが次から次へと頭に浮かんできて、それが止まらない。

「なんだか、その先輩警察官が一番怪しいような気がして・・・。今日刑を執行された男が後輩を刺して何も取らず現場から逃げる姿と、後輩が倒れて頭を打ち気を失ったところを偶然目撃して閃いたんじゃ?強奪された現金も見えるところにあったかもしれないし。自分の銃を見せて威嚇しながら後輩の銃を拾って残った犯人二人を射殺、そしてすぐに使用済みの一億だけもって、さっき手助けした近所の独居老人宅に行き現金を庭かどこかに隠す。またすぐに現場に戻って事件を捜査本部に通報する。どうですか?この推理。もちろん、銀行での現金強奪の方には関わっていないでしょうが・・・。」途方もない説だけど、小説としては面白いんじゃないだろうか。でも、途方もなさすぎたのか、マスターとZ氏は僕の方を見て絶句している。空想が過ぎたかな?さすがの僕も、二人のこの様子を見て押し黙ってしまった。

 しばらくして、マスターがつぶやいた。

「犯人はアイツだよ。そうでなきゃ困る。」

 Z氏も、うなされるようにそれに同意した。

「そうだよ。警察官がそんなことをするわけがない。面倒見のいい人で、誰からも好かれて頼りにされていた。あの○○○○○さんが・・・。」Z氏は、先輩警察官のフルネームと思われる珍しい名前を口にした。

 その時、奥のトイレからのっそり出てきた不動産屋勤務の片割れが、「あれっ、その名前!つい最近、今おっしゃったのと同じ名前を聞きましたよ。すっごく珍しい名前ですよね?んーと、戦国武将の苗字にキリスト教の十二使徒の名前・・・。どこでだったっけ。」と唐突に話に割り込み、ついでにもう一方の不動産勤務に疑問を丸投げした。話を引き継いだ方はすぐに分かったのか、「あの、あそこですよ、川向こうのマンション群。あそこの築25年の分譲マンションでついこの間『孤独死』した人の名前がそんな名前だったんじゃなかったでしたっけ。かなり珍しい名前ですよね。60歳、死ぬにはまだ若いのに心筋梗塞で亡くなってたって。ほんの数行、ちっちゃくだけど新聞にも乗ってましたよ。」と、食いつくように早口で捲し立てた。そして、深く息継ぎをすると続けて、「確か、今年の始め頃うちに相談に来ましたよね。投資用に買ったマンションだけど、売り時がわからないまま売り逃して、今じゃあ買い手もつかないし賃貸に出したいって・・・。でも、しばらくして結局自分で住むことにしたって言って、うちの仲介を断ったあの人!」そう言いながら、席を立ってみんなの方へとやってきた。

 もう一方の不動産屋勤務は、そのことを忘れていたのが嘘みたいに、「そうだった、そうだった!結構いい値段で買ったマンションが、売るとなったらまるで二束三文、これじゃあ売れないと渋ってる間に25年が経ったって言ってたっけ。たしか、当時で一億ぐらいしたって・・・。」と、みんなに得意そうに説明した。

 マスターとZ氏、そしてもちろん僕も、びっくりしてお互い同時に顔を見合わせた。

 そして次の瞬間、Z氏はすくっと席を立ち、フラフラと歩いて入り口のドアを開け、黙って雨の中店を出て行ってしまった。マスターがZ氏の名前を呼ぶ声にも耳をかさずに。

「マスター、どうしましょう。お金、いただいてませんよ。」驚いて僕は声を上げた。

 マスターは、僕をなだめるような仕草をしながら、「いいんだよ・・・。Zだけど、元警察官って言うのは知ってるだろう?あいつなんだよ。あの時、自分の拳銃を人殺しに使われ、その上犯人にナイフで襲われて重傷を負い、おまけにその時の記憶まで無くしてしまったっていう警察官は・・・。」

 

 エピローグ

 

 あれからまたひと月が過ぎた。

 僕がここでアルバイトバーテンダーを始めて四ヶ月、カクテルを作るのもそれなりに上手くなったんじゃないかと思う。

 ついこの間、あの現金強奪事件になぜマスターがあんなに詳しかったのかが判明した。マスター直々に、重い口を開いて話してくれたのだ。

「あの事件を担当した検察官だったんだよ、私は・・・。最初にあの男を見た時、コイツは犯人じゃないと直感的に思った。とても拳銃で仲間を殺せるような度胸の座った男じゃないと。だが、上からの圧力があった。さっさと事件の幕引きをしろという・・・。警察官の絡んだ事件には、こんな風に圧力がかかることが往々にしてあるんだよ。」話ながら、マスターはとても苦しげだった。

「私は仕方なくあの男を公訴した。そして、つくづく仕事に嫌気がさして検察官を辞めた。私が・・・アイツを死刑台に送ったんだ。」

 

 常連さんたちに聞いた話だと、マスターは俗に言う「ヤメ検弁護士」なのだそうだ。昼間は「適当な法律相談」と「軽い探偵のような仕事」にせいを出し、それを生業としているらしい。やっぱり!ここの売り上げでは僕のバイト代も出ないぐらいなのに、どうやってマスターが悪くない生活をしているのかが不思議すぎたけど、そういうことだったのだ。

 そして、知人が僕にここを紹介してくれたことも、マスターが全く経験のない僕をここで雇ってくれたのも、そう聞くとあっさり合点が行った。こう見えても僕、某大学の法学部に在籍中の弁護士の卵なんだ。きっと、マスターにしたら「青田買い」のつもりだったんだろうと思う。

 

 ここ、バー『湊』では、いつも犯罪がらみの話題でお客さんたちが盛り上がる。満席になったことがないような閑古鳥の鳴く店内で、「こうやって殺す」とか、「あの時の犯人は・・・」とか、そんな物騒な話が常連さんたちの間で飛び交うのだ。

 そして今夜も、そんな話題でこの店はいつものように大忙し・・・。

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