金糸猴

晴れ時々雨

🍌

彼が部屋にやってきてテーブルのうえに食事を置く。僕が近づくと即座に椅子が引かれ、自然と着席してしまう。お皿の両脇に据えられたナイフとフォークを取って料理を一口サイズに刻む。マナーなど知らないから自分の使いやすいように使える道具を使うというやり方だったけど彼は何も言わなかった。僕だってここに来るまで、これらのことは名前と食事のときに使う道具だということぐらいしか知らなかった。

持ち手のついた小型の深皿に入ったスープを持ち上げて息を吹きかける。熱気が睫毛を炙る瞬間がおもしろくて何度もやる。でも5回ぐらいすると勢いがなくなる。黄色くてとろとろのスープが一番好きだ。これが飲めただけで今日はいい日。

カラフルな野菜をフォークで弄ぶ。かちゃかちゃと皿とぶつかる音を立て野菜たちは反抗的に皿の上で反り返る。彼が僕の手元を軽く睨む。彼はわかっているだろうか、僕がそうされたいんだってこと。

いい加減しんなり降参してきた野菜をひとまとめに口に突っ込み温かいオレンジジュースで流し込む。口の中の植物の大合奏はホワイエまで響き渡り会場中ががやがや騒ぎ始める。僕はトイレに駆け込む。といっても仕切りがあるわけでもなく、同じ部屋の一角のタイルで区画された部分に設えられた剥き出しの便器なのだけど。その横に浴槽がある。便器と浴槽は同じ人が作ったのだろう。どちらも陶器製で、表面に藍色のブルーベリーが小さく描かれたデザインのものだ。えらく少女趣味だとは感じたけれど、嫌いじゃない。よく僕はお腹の中身を捻り出さなければならないとき、浴槽に描かれたブルーベリーの数を目視できる範囲で数えた。日課のように数えている割に全く覚えられない数だった。

便器から立ち上がると、彼が僕をそこへ留まれと手で制した。僕が悶絶の旅をしている間に、彼は浴槽に湯を張っていた。僕はタイル面でそのまま服を脱ぎ浴槽へ静かに入水する。入水っておかしいけど、たっぷりのお湯に嬉しがって飛び込んだりして、跳ねた湯で服を濡らされるのを嫌う彼に叱られたことがあって、それから女の子みたいにしずしずと入水するようにしている。今考えると、あれをもっと意識的にやっておけば良かったと後悔している。

殆ど口をきかない彼に喋らせたくて、何とか嫌われないように困らせてみたかった。

馬鹿みたいだし、何の効果もないだろうと思うけど、僕は彼に嫌われたくないどころか、好かれたいと思っていたのだ。もしどちらかに感情が偏ることがあったとして、今の状況が変わるなんてことは、ないだろう。

どんな経緯があり、互いの立場は違えども、僕らは二人とも入浴という行為が好きだった。僕は丁度いい温度の湯船で体をたゆたせ、彼はぼやりとしている僕の髪に手で掬った湯をかけて濡らし泡立てた石鹸を擦りつける。しゃこしゃこと髪を泡だらけにする音が心地よく耳に響く。溢れ返るほど水分を含んだ泡がとろりと目に耳に垂れる。髪を掻き混ぜる音がごわごわと籠り、染みないようにぎゅっと目を閉じる。湯船で泡を落とした手で彼は僕の顔を包み、目蓋の泡と水気をワイパーみたいに親指でこそげる。仰向けた僕の顔の上に逆向きに立つ彼の影ができて暗くなる。目を閉じたままの僕とその上に屈む彼はその体勢でしばらくじっとする。部屋にひとつも音がなくなるとき、気づいたように彼は僕にお湯をかける。

全身を隈無く洗われ手早く雫を拭き取られながら僕は行ったこともない南国の夢を見る。繁った樹木から飛び立つオオハシがゆっくりと、ギザギザの葉の隙間を縫ってどこかへ飛んでゆく。透けそうなブルーの空。僕の南国はいつも薄曇り。

難しい言葉をひとつも教えてくれない彼に、この生活がいつまで続くのか聞いてみたかったけど上手く質問できる自信がない。ここへ来た当初とは尋ね方が違うのが伝わるかどうか不安になる。

僕は自分がどこから来たか忘れたかった。終わりがあるかどうか知りたい。彼はきっとはっきりと簡潔に答えてくれるだろう。そしたら衰弱している僕のオオハシが死んでしまいそうだ。

南の楽園の温度が北に流れ氷河を溶かすことによって起こる地球の温暖化。北国の凍土を保持するためにガンガンに効かせた冷却設備の放射熱による温暖化。物事はすべてぬるまっこくなり、これといった結果を追求できなくなる。僕自身が温暖化している。彼の温室から出たくない。

環境問題と戦っている間に彼は室内の掃除を完璧に終え出ていって鍵を閉めたので、今日一日の猶予にひとまずの睡魔が僕を横たえる。

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金糸猴 晴れ時々雨 @rio11ruiagent

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