4月4日

 そこに謎がある。その謎に対する興味がなくなった私はつまらないものとなったのだろう。


 声なんてものはいくつかの条件で決まるもので、それぞれの条件が連続的な数値で無限にあるとしても人の耳ではそこまで聞き分けられない。だから結局声の種類なんてものは有限で聞き覚えのある声などいくらでもあるのだろう。

 デジャビュは視覚に関するもの。であるならば聴覚に関するものはどう言えばよいのだろうか。


 違和感があるかもしれない。けれど私はもう細かい言い回しを忘れてしまった。単語だって忘れた。それでもそれ以外の言い方を知らないからこれを使った。これを使うしかなかった。言い訳と言えるだろう。


 そういえば。

 そこまで思い浮かべたところで何を思い出したのかを忘れる。記憶というものはないのだろう。ないものをあるものとして、いや、確かなものとして扱わなければなりゆかない。


 そういえば成り行きはなりゆきと読んでなりいきとは読まないような気がする。


 いつだってそういえばで文章を始めたい。思いだすことは多い。

 けれど結局は近くに同じものを置きたくないという理由で避けることの方が多い。それでも、ここではそれをできるだけ気にせずに。そう願っても気にしてしまうのだろうけれども。


 気分でそれぞれの文章を書いているから文字の詰まり具合が違う。この間はよく字を詰めた気がする。


 たまに思う。推しという言い回しができてよかったと。

 嫁という言い方が主流のころにぼんやりと違和感があった。私が使うものとしてなんとなく違和感があったから当時の言い方として言ったこともあっただろうがあまり何度も使わなかったように思う。

 多分そのころと今の私ですることはたいして違わないのだろう。それなら推しという言い方がしっくり来ている今と感覚が違わなかったのではないだろうか。遠くから見ているだけで満足なもの。遠くからそれを見ていた方が綺麗なもの。好きなもの。遠くから見ているからこそ好きでいられるもの。やっぱり嫁という言葉からは少し離れているように思う。


 永遠をかける誓いなど簡単にはできない。一生だってそう。

 けれどどちらの方が近いかと言えば一生だろう。私の人生をかけることは私が覚悟を決めて誓えばよい。私の永遠をかけるには私の魂にその誓いを刻まなければいけない。魂などあるのか。


 流行りというものがよくわからない。流行っているものはわかる。けれどその流行は私の小さな世間におけるものだけだ。それ以外はよくわからない。もしかしたら同じものが社会で流行っているのかもしれない。流行っていないのかもしれない。

 そして結局は私の小さな世間で流行っているものにもついていけない。いや、確かについていく必要はないと思っている。けれどなんとなくそれを見た時についていけてないんだなと思う。思う必要はないと考えていても、思うことは考えの外のことだから。


 世界はいつだって変わっている。どの層も変わっていて、けれど自分の層は変わっていないと思い込むことで立っているものが人間だろう。

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