第36話 女主人との再会は秘密!
ごおん、という音と共にリフトが止まると、モーター音の代わりに小鳥のさえずりが僕の周囲を包んだ。
「一人でピクニックか。今となっちゃ屋敷よりここの方が平和で気がまぎれるな」
僕はリフトを降りて『夏草宮』へと続く獣道に足を踏み入れた。十メートルほど進むと藪の間から見覚えのある鉄柵が覗き、足が自然と止まった。
あの女性は中にいるだろうか。突然、訪れて声をかけたらどんな反応を示すだろう。
僕は前回の去り際、何かの拍子で豹変した女性の顔を思いだしてその場に固まった。
やはり訪問は止めよう、そう思った瞬間「うちに御用かしら」と背後で声がした。振り返ると、片手に籠を抱えた『夏草宮』の女主人が立っていた。
「え、あの……二日ほど前にこちらを訪ねた者ですが」
僕が答えると、女主人は「そうだったかしら」というように小首を傾げた。
「ごめんなさい、あまり覚えていないけど……せっかくいらっしゃったんだし、お茶でも飲んでいってくださいな」
あっけらかんとした対応に僕が気後れしていると、女主人が「あ、そうだ。悪いけどこれ、家の中に運んでくださらない?」と野草が盛られた籠を僕の身体に押しつけてきた。
「はあ……」
僕は面喰いながらも籠を受け取り、さっさと柵を開けて中に入ってゆく女主人に続いた。
「今、お茶を入れるわね。今日はそうね……ミントティーにしようかしら」
四畳半程度の広さの、外の光がたっぷりと入る庵の中で女性はいそいそとお茶の支度を始めた。僕は野草の籠をテーブルに置くと、薦められるまま素朴な作りの椅子に腰かけた。
「あの……ここに住まわれてかなり経つんですか?」
僕が当たり障りのない問いを投げかけると、ポットを揺らしていた女性の手が止まった。
「長い……そうね。もう三十年にはなるかしら。私はこの脚だし、これだけ長くいたら街にはもう戻れないわ」
そういうと女性はやや不自由と思われる方の脚を目で示した。
「そんなに長く……なぜこんな人里離れた山の中に?」
僕が尋ねると、女性は「あら、知りたい?でもね、とても古い話になってしまうの」と言って遠くを見る目になった。
「でもこの『夏草宮』は自然がいっぱいで、慣れたらよそに行きたいなんて気はなくなるわ。会いたい人はいるけど、私はここで暮らしながらただ待っているだけ。これからもね」
「会いたい人?」
「そう、もう五十年も前に会ったきりの人たちよ。五十年前、私が事故に遭わなかったらこの『夏草宮』も作られることはなかった」
「事故というと?」
「交通事故よ。……ああ、あまりに古い話だから、思いだすのも大変だわ。まずはお茶でも召し上がって」
女性はそう言って僕の前にさわやかな香りの立ち上るカップを置いた。
「あれは……私が中学生の時だったわ。同じクラスに仲のいい男の子が二人いたの。どちらとも親しくしていたんだけどある時、一人から日曜日に神社で待っているって言われたの。そしたら日曜日の朝、もう一人の親しい子から「打ち明けたいことがあるから公園に来てくれ」って電話で言われて……」
突然、個人的な思い出が披露され、僕は面喰いながらも身を乗り出して話に聞き入った。
「で、どちらに会いに行ったんです?」
「もう一人の子が指定した時間は少し遅めだったから、私は最初、神社に行ったの。でも約束した子がなかなか来なかった。それで何となくその場を離れて公園の方向に歩き出したの。そして赤信号に気づかず交差点を渡ろうとして、トラックに撥ねられてしまった」
「……なんてこと」
「私は頭を打って、一年近くも意識が戻らなかったの。意識が戻った時、二人の男の子はどちらも都会の学校に行ってしまい、もう村にはいなかったわ。私は家の仕事を手伝いながら村で暮らしていたけれど、人に会うのが億劫になって山の中にこの庵を建ててもらったの。二人の男の子にもう一度、会ってみたいけれど今はどうしているかわからないわ」
女性は打ち明け話を終えると、口を湿らせため息をついた。
「つまらない話を聞かせちゃってごめんなさい。のんびりしていってね」
僕は「貴重なお話をありがとうございました」と言い、冷めたハーブティーを啜った。
そろそろお暇しよう、そう思って立ちあがり「あの、少し外を歩いてみたいので僕はこの辺で」と言った時だった。女性が突然、手で顔を覆い、呻き始めた。
「うう……まただわ」
「大丈夫ですか?」
僕が歩み寄って声をかけると、女性はひとしきり苦悶の声を上げた後、別人のように険しい表情で僕を見た。前回の時と同じだ。そう察した僕は「失礼しました」と言い置くと『夏草宮』をそそくさと辞去した。
再び獣道を歩き出した僕は、何気なく木立の奥を覗き見ようとしてその場に凍り付いた。
リフト小屋近くの草地に、僕のよく知っている女性が立っていた。
「――雪江」
獣道を抜けた僕は、女性の前に出ると思わずそう呼びかけていた。
「……俊介さん」
一月ぶりに間近で見る顔は女優のそれではなく、僕のよく知っている女性の顔だった。
「どうしてここに……」
問いかけると雪江は一瞬、躊躇するそぶりを見せた後、再び顔を上げて僕を見返した。
「ロケ地を見てみたくて、芸能ウォッチャーの槇田さんに送ってもらったの」
少しはにかんだような雪江の表情を見て、僕は思わず沸き上がった疑問をぶつけた。
「雪江、正木亮とは……どんな男なんだ?」
唐突な問いに雪江の眉がわずかに寄せられ、それからはっとしたように目が見開かれた。
「正木さんは……素敵な俳優さんです」
雪江は僕の眼差しを正面から受け止め、きっぱりとそう言った。
「雪江、僕は……」
僕がもどかしい思いを告げようと口を開きかけた瞬間、雪江は「落ちついたら、連絡します」と言って急に身を翻した。
「――雪江!」
雪江の姿があっというまに消え、僕が追いかけるのをためらっていると、やがてリフトを起動する音があたり一帯に響き渡った。
――雪江……合宿が終わったら、これからのことをもう一度、ちゃんと話し合おう。
徐々に遠ざかるリフトの音を聞きながら、僕は瞼に焼き付いた姿を何度も反芻した。
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