第12話 看板メニューのレシピは秘密!
夕食時、食堂にそろった顔ぶれは僕ら六人に加え、家主とマーサ、コックの都竹と医師の安藤の計十名だった。
「あれっ?角舘さんは?」
草野がテーブルに着くなりマーサにそう尋ねた。
「角舘は、夕方ちょっとしたトラブルに直面してしまい、しばらくみなさんのお世話をすることができなくなりました」
マーサがきわめて事務的な口調でそう告げると、テーブルにざわめきが広がった。
「角舘に執事の仕事を続けることが困難と判断した場合、私が次の執事を任命します」
家主である富士子がそう断ずると、座が水を打ったように静まり返った。
「――ということで、夕食の前にみなさんにコックと医師の紹介をさせていただきます」
マーサがそう言って目線をやったのは、コックの都竹だった。
「皆さんはじめまして、当館でコックをしております都竹と申します。本日は遠いところ、ようこそおいで下さいました。山の中のことゆえ、都会の一流レストランには及びませんが、心づくしのお食事をご用意いたしました。どうぞゆっくりとお召し上がりください」
浅黒い顔に笑みを湛えた続きが自己紹介を済ませると、隣の安藤が咳ばらいをした。
「えー、さきほどは失礼いたしました。奥様の健康管理を仰せつかっている医師の安藤と申します」
安藤は一礼すると「体調に不安を感じられた方は遠慮なく申し出てください」と言った。
「それでは皆さん、お食事をお楽しみください。お風呂はこの奥にございますので一言、マーサに申しつけた上でご使用ください」
そう言うと富士子はマーサと安藤を伴って食堂を去っていった。
「本日の料理は、裏の畑で採れた野菜をふんだんに使った品ばかりです。特にご賞味いただきたいのは、当館自慢の『薬膳カレー』です」
食堂に残った都竹は、自信に満ちた口調で言うとテーブルの上の皿を目で示した。
「当館では薬草の栽培も行っておりまして、微量ながらスパイスの中に薬効成分を含んだ植物なども練り込んでおります。さすがに忘我の境地には至りませんが、日ごろ、食べなれているカレーとは一味違う奥深い風味をお楽しみください」
都竹はひとしきり講釈を垂れると、恭しく一礼して厨房へと下がっていった。
テーブルの上には山菜の揚げ物や肉料理、野菜スープといった野趣あふれるメニューのほかに、くだんの『薬膳カレー』が食欲をそそる匂いを放ちながら並んでいた。
「ほう、これが『薬膳カレー』ですか。……ではさっそく」
草野は大き目の具材が覗くカレーをスプーンで掬うと、口に運んだ。
「ううむ、確かにスパイスの馥郁たる香りに混じって何やら神秘的な味わいが……」
そう言うと、草野は宙を見つめたまましばらく口だけを動かし続けた。まるで意識が飛んでいるような草野の表情に、僕は都竹の「脳が活性化される」という言葉を思い出した。
「本当かしら」
みづきが疑わし気な目をしつつ真っ先にカレーに手をつけるのを見て、僕も彼らに倣うことにした。カレーを掬ったスプーンを口に運ぶと、次の瞬間、店で食べるカレーでは嗅いだことのない神秘的な匂いが粘膜を通じて爆発的に広がるのがわかった。
「あ……」
口を動かしていると、次第に脳髄が麻痺していくような感覚が全身を浸していった。それはたとえは悪いが安楽死に近いような、心地よく身体が死を迎えるような感覚だった。
「おいしい……」
目線を動かすと、みづきもまた蕩けるような表情で口だけを動かしていた。いくらなんでもこれはまずいのではないか、頭のどこかでそう思いかけた時、唐突に目の前で強い光が二、三度明滅した。なんだろう、そう思った次の瞬間、急にスイッチを入れられたかのように身体の感覚が元に戻った。
「……今のは一体?」
僕がそうつぶやいて周囲を見回すと、驚いたことに他の宿泊客たちも互いに呆けたような顔を見あわせていた。
「ふうむ、これは確かに神秘的な味わいだ……。なかなか得難い経験をした」
麻酔科の医師でもあるという草野がしみじみと口にするのを聞き、僕はみづきが昼間口にした『抗精神薬物質』という言葉を思い出していた。
※
「――駄目だ、イメージがまとまらない」
僕は机の上にノートを放りだすと、天を仰いだ。昼間、見聞きした出来事を元に短編の構想を固めようとしたが、断片的な絵が脈絡なく浮かぶだけで物語になる気配はなかった。
「せめて僕にスリラーを書く才能があればなあ。『魔女の家』に『開かずの扉』ときたらもう怪談しかないじゃないか」
神楽弓彦や平坂泉の作風ならともかく、自分ほどこの屋敷の招待客にミスマッチな人間はいないだろう。
僕がわが身の不幸を大げさに嘆いていた、その時だった。ベッドの上に放り出してあった携帯から、着信音が鳴りだした。送信者名をあらためた僕は、たちまち異界から日常へと引き戻された。
――お仕事は順調ですか?私は単発ドラマの読み合わせをして、帰るところです。そちらの様子もよかったら教えてください。
味気ないブラウザ上の文字に、僕は胸が締め付けられるような切なさを覚えた。メールの送り主は妻で、事情があって今はなかなか一緒に過ごすことができずにいる。互いに忙しく、メールの文面からも僕に気を遣わせまいとしている様子がうかがえた。
――まだ始まったばかりで勝手がわからないけど、なかなか興味深い顔ぶれがそろっています。この仕事が終わったら少し長めの休みを取って、一緒にゆっくりしよう。
僕は細部をぼかした文面を打ち込むと、おやすみと言いながら送信した。彼女は仕事がらホテルで寝起きすることが多く、僕は僕で仕事場にいる時間が長い。その仕事場は今、妹が僕に代わって使っている。当面は、こうしたやり取りで寂しさを埋めるほかなかった。
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