金魚鉢
朝海いよ
金魚鉢
小さい頃のあたしは、きらきらとしたものが好きだった。
例えば、それは百円ショップで売っているようなプラスチック製のビーズだったり、スパンコールだったり。
その中でもあたしが特に気に入っていたのは、ビー玉だった。まんまるのガラスの中に、キンギョの尾びれみたいな模様が浮かんでいる、どこにでもあるありふれたビー玉。中に尾びれの浮いていないビー玉もあったけど、あたしは尾びれ模様のあるビー玉が好きだった。
あたしはそれをキンギョのビー玉と呼び、よく口の中に入れて飴玉のようにころころと転がしていた。そうしているといつも、あたしの気持ちはだんだんと落ち着いていく。まるで赤ん坊が母親の乳房に喰いつくと、すっと泣き止んでしまうように。
あれはいつの話だっただろう、あたしが保育園に通っていたときだっただろうか。まだはいはいをしていた妹が、あたしのおもちゃを壊したとき、あたしは今までにないくらいに泣き狂った。あたしは妹に思いっきり平手打ちを食らわせ、ソーセージみたいにぷにぷにした腕に噛みついた。火が付いたように泣き出した妹の声で母親が飛んできて、あたしの頬を勢いよく叩いた。
「何してるの、お姉ちゃんでしょ!」
別にお姉ちゃんになりたくてなったわけじゃないし、なんであたしばっかり怒られるの。第一、先にあたしのおもちゃを壊したのは妹なんだから。
そう言い返すと母親が更に怒り出すのは目に見えていたから、お姉ちゃんのあたしは涙をぼろぼろ零しながら一人部屋に撤退して地団駄を踏んだ。どうしてあたしばっかり。この行き場のない怒りを鎮めるために、あたしは机の上に置いてあったキンギョのビー玉を口に入れてころりころりと転がしていた。
すると湧き上がっていた怒りはいつの間にか消えていて、あたしはただ無心にビー玉を転がしていた。口の中でガラス玉が熱をもって熱くなる。あたしはごくんと喉を鳴らした。ガラスのかたまりが、細い喉を通っていく。そして、ぽとんとあたしの胃におっこちた。
それから、あたしはよくビー玉を飲み込むようになっていた。最初に飲み込んだのは、赤いキンギョのビー玉。その次は青、黄色、緑……。様々な色のビー玉を、あたしの中に収めていく。体の中のビー玉がひとつ、ふたつと増えていくにつれて、あたしは満ち足りた気持ちになっていった。周りの人が知らない、あたしだけの秘密。みんな、あたしがおなかの中にこんな宝物を隠し持っているとは夢にも思わないだろう。体の中にあるきらきらとした、あたしだけの宝物。
あたしが笑うとビー玉はころころと楽しそうに転がり、あたしが怒るとビー玉はまるでポップコーンのように体の中で暴れまわった。ビー玉は、あたしの一部だった。ビー玉はあたしの肉体であり精神であった。
そう、あの頃のあたしは本当にビー玉が好きだったのだ。しかし小学校に上がるとビー玉のことを考える余裕なんてなくなり、ガラス玉なんかよりも友達とする恋の話のほうがあたしの興味の対象となった。それでも、ずっとあたしの中にビー玉はあり続けていた。ただあたしが忘れてしまっていただけで、常にそこに存在していた。あたしと共に笑い、泣き、息をしていた。
そもそも、本当に今の今まで忘れていたのだ、こんな話。あたしの中にビー玉が住み着いているだなんて。なんと馬鹿げた話だろう。よくもまああの時窒息しなかったなと、今更感心してしまう。
この話を思い出してから、あたしの胃はむかむかとして仕方がないのだ。おそらく胃の中でビー玉が疼いているに違いない。あたしの中に隠された、ずっと昔の宝物。今はどうなっているのだろうか。胃酸で溶かされることもなく、暗闇の中できらきらと輝いているのだろうか。あたしがさっき食べたかき氷の練乳に、どろりどろりと絡まれながらも、透明な美しさを失わずにいるのだろうか。キンギョの尾びれをゆらゆらと揺らしたまま。
🐟 🐟 🐟
同居人が金魚を持って帰ってきた。近所の神社で行われていた夏祭りで、金魚すくいをしてきたらしい。
「仕事帰りにふらっと立ち寄ったらね、金魚すくいがあったんだよ。ちょっと懐かしくなっちゃって」
缶チューハイを右手に、金魚の入った袋を左手に持ち、同居人はけらけらと笑った。どうやら少し酔っているようだ。
私は彼女から金魚を受け取り、まじまじと見つめた。赤い金魚だ。丸々と太ったからだを揺らしながら、袋の中を窮屈そうに泳いでいる。金魚なんて、見たのはいつぶりだろうか。中学生の頃は家で金魚を飼っていたが、だんだんと世話をするのが面倒になり、飼っていたものが全滅すると水槽をごみに出してしまった。金魚の黒目が私を見つめている。
狭い空間に閉じ込められた金魚は、空気を求めてぱくぱくと口の開閉を繰り返す。丸っこい体型をしているから、おそらくこれはリュウキンだろう。金魚すくいでは単価の安いワキンを売っていると思っていたが、最近ではリュウキンやデメキンも使われているのだろうか。それにしても、こんなに大きなリュウキンをすくい上げるとは、今まで結構な時間を共にしてきたつもりだったけれど、この同居人にこんな特技があったとは知らなかった。
「いや、こいつ、桶の中で一番でかい金魚だったんだよ。見た瞬間、気に入っちゃって。何回もチャレンジしたんだけど、全然すくえなくってさあ。三千円くらい使ったときかな、店のおじちゃんが見かねてすくってくれたの。だから、別にあたしがすくったわけじゃないんだよねえ」
同居人は私の心中を察したように言った。その手には何本目か分からない缶チューハイが握られている。
「こいつの尾びれが気に入っちゃってねえ、ひらひら揺れてるでしょ。それが、あたしの中のキンギョにそっくりで……久々に思い出しちゃったよ」
呂律の回っていない声で同居人はそう言い、フローリングの床に転がった。熱を帯びたその視線は、私の持っている金魚の袋に注がれている。
「何、それ。どういうことなの?」
「ああ、言ってなかったっけ。っていうか、あたしもさっき思い出したんだけどさあ。あたし、おなかの中にキンギョがいるんだ」
全くもって意味不明だった。この同居人は時折変なことを言ったり、奇妙な行動をしたりするけれど、今回はいつにも増してわけが分からない。お手上げ状態だ。
「あたし、保育園のころ、中にキンギョの尾びれみたいな模様のついたビー玉が大好きだったわけ。で、大好きすぎて食べちゃったの。ごっくんって」
私は彼女の白くて細い喉にビー玉が流れていく様子を想像した。中に赤い尾びれを入れたガラスの球が、ゆっくりと食道を流れていく。彼女の喉に、くっきりと自身の影を残しながら。そして、重力に従って彼女の中にぽとんと落ちていく。
「本当に、その金魚の尾びれみたいな模様だった。ひらひらゆらゆら、ガラスと相まって、すごくきれいだったんだあ」
私たちは袋の中で尾びれが揺れている様子をぼんやりと眺めていた。水の中で、大きな尾びれが花開く。こんな模様をビー玉の中に閉じ込めたら、きっと今以上に美しくなるのだろう。幼い彼女が、体の一部としてしまったほど。
翌日、同居人と共にホームセンターで金魚の飼育に必要なものを調達した。私が水槽を選んでいると、同居人はこれがいいと言ってカートの中に金魚鉢を入れた。その他、空気を送るためのパイプ、エサ、水草、カルキ抜き、等々。
同居人は金魚鉢の下に入れる砂を買わなかった。そのかわり、どこからか大量のビー玉を調達してきていた。彼女が昔愛したという、キンギョの尾びれ模様のビー玉。家に帰ると同居人はそれらをばらばらと鉢の底に敷き、塩素を抜いた水を流し込んだ。
同居人が作ったすみかの中で、リュウキンは優雅に泳いでいた。金魚鉢の中に、ハイビスカスのような大きな花が咲いている。その下には、色とりどりの小さな花。美しい。ひかりが当たらずとも、その鉢は常にきらきらと輝きを放っていた。金魚鉢全体が、大きなビー玉になってしまったようだった。私は床に座り込んで、同居人の肩を借りながらその様子を眺めていた。同居人も、私と同じものを静かに見つめている。
「昔のあなたは、あんなにきれいなものに惹かれていたのね」
「きれいなものっていうか、単純にきらきらしたものが好きだっただけだけどね」
「それでも、きらきらしたものってきれいでしょう。あなたはあんなに素敵なものを、体の中に秘めていたのね」
そう言うと、同居人は困ったような顔をして頭を掻いた。
「あたしの中のビー玉は、確かにきれいかもしれないけど……あたしは、どうだかなあ」
私は同居人の左手を掴み、自分の右手と絡ませた。彼女の左手はじっとりと湿っていて、てのひらにぴったりとくっ付いた。
「私にとってのあなたは、きらきらとしていてきれいだわ。金魚やビー玉なんかよりも、ずっと……」
そこまで言ったところで、同居人は手を振り払った。すっくと立ち上がり、背を向ける。
「そんなこと言ったって、何も出ないからね」
ぶっきらぼうに言い放った同居人の両耳が、鉢の金魚と同じ色に染まっていたのを確認して私は笑った。赤い顔をした同居人はくるりと振り返り、ジーパンのポケットから何かを取り出した。それを右手の親指と人差し指で摘み、私の目の前に突き出す。透明な球体。中には赤い線が浮かんでいた。同居人はそれを、私の唇の間に乗せた。薄い唇で挟まれたビー玉。私は口を開け、口腔内に球を迎え入れる。
硬いガラスのかたまりが、舌の上に転がり込んできた。彼女の中にあるものと、同じビー玉。それは熱を持って次第に熱くなっていく。ころり、ころり。
同居人はビー玉を舐める私の様子をじっと眺めていた。私は微笑んで、ビー玉を飲み込む。彼女の目が見開かれた。ビー玉はゆっくりと食道を通り抜け、音も立てずに私の中に落っこちた。ぽとり。
まさか飲み込むとは思わなかった、窒息したらどうするつもりだったんだと私の肩を揺らす彼女を見て、ビー玉が楽しそうに転がった。心配してくれたのね、ありがとう。両腕を彼女の首に絡ませて抱き着くと、彼女は呆れたような顔をした。体の中で、ビー玉が大きく脈を打つ。
私は彼女の顔を覗き込む。彼女の澄んだ黒目は、この世のどんなビー玉よりも、昔彼女をとりこにしたビー玉よりも美しかった。昨晩見た金魚の黒目を思い出す。彼女のものと少し、似ているかもしれない。
彼女はポケットの中から新たなビー玉を取り出した。それを、自分の口の中に放り込む。ビー玉をふくんだ彼女が、私の黒目を見つめていた。
部屋には西日が差し込んでいた。夕焼け色に染まった部屋の中、ガラスに閉じ込められた金魚だけが、私たちの秘密を知っていた。
金魚鉢 朝海いよ @asm_iyo
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