気分がアガる短い恋の話
槇鳥 空
第1話 なぐさめるならパリで。
「それで、陸君は、諦めちゃったの?」
千紗は生ハムとチーズが挟まったクロワッサンに大口でかぶりつきながら言った。目の前の石畳を、ガタガタ音を立てながら自転車が通り過ぎる。千紗は口をもぐもぐ動かしながら、無言のままで丸テーブルの隣に座っている陸をじっと見つめた。耳の後ろまで伸びた、ボサボサの長い黒髪。きちんと食事を摂っていない感じの、長い筋張った首。陸は細くて長いゴツゴツした指でタバコを弄びながら、道路をぼんやりと見つめて首を横に振った。
「諦めた、か。選択肢は僕には無かったんだよ。」
そう言うと、ゆっくりと煙を曇り空に向かって吹いた。千紗はすうっと煙が消えていく様子を、クランベリージュースをすすりながら目で追った。
「未練たらたらなのね。」
千紗は手からパン屑を払って立ち上がり、スカートをパンパンと叩いた。すぐに灰色の鳩が二羽テーブルの下にやって来た。陸がビーチサンダルの足をぶらぶらと揺らしてそれを追い払う。
「まったく、わざわざロンドンから会いに来てあげたのに。陸君はパリの曇り空よりもどんより模様なのね。ね、私パリって美術館以外はあんまり散策した事無いの。フランス語もわからないし。どこか楽しい所に連れて行ってよ。」
千紗は陸の顔を覗き込んで言った。陸は目だけで千紗を見上げると、んー、と唸った。そして千紗の頭をポンポンと撫でた。
「常識知らずのお嬢様なんだな、千紗は。」
陸は立ち上がると、ポケットから小銭を取り出して、テーブルに置いた。
「じゃあ、とりあえず僕の部屋に行く?すぐそこだから。セーヌ川を渡った向こう岸。あんまり治安がよく無いから、離れないでね。」
陸の黄土色のセーターは、腰のあたりでほつれている。ふわふわと揺れる毛糸を追いかけるように、千紗は両手を革のロングコートのポケットに突っ込んで小走りで陸の後ろを歩いた。古いチーズのようなムッとした匂いの狭い路地を早歩きで通り過ぎる。パリの街並みは、ロンドンよりもちょっとだけお洒落で、心踊る。千紗は小さなバルコニーにぶら下がった色とりどりの花や、洗濯物を見上げては微笑んだ。首からぶら下げた一眼レフで、雲間に覗く青空を撮る。立ち止まって上を向いてカメラを構えていると、10歩先を歩いていた陸が振り返って言った。
「おーい。のんびりしていると、スリに遭うぞ。」
「んー、陸君が守ってくれれば良いんじゃ無いの?」
千紗は上を向いてカメラを構えたまま言った。陸はスキップするように石畳の水溜りを避けながら戻って来た。
「本当にオタクっぽいなあ、千紗。」
千紗の焦げ茶色のお下げ髪を指で弾き、んー、と唸ると陸は千紗の左手をとって、自分のセーターのポケットに突っ込んだ。
「さ、これで遅れないね。」
千紗は頬が赤くなるのをマフラーで隠すようにして、うつむいてフフフ、と笑った。
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