第11話 絶望の底

 恋愛マニュアルを作ってくれた三人――ヴェサリス、マッコンエル、オルランジェに、失態を重ねてしまったことを正直に打ち明ける。

 オルランジェは「まぁ!」と驚いた様子で口元を両手で覆うと、瞳をきらきらと輝かせた。


「品行方正なアル様が女の子をからかうなんて! キャ〜、初めて聞いたわ! 失敗なんかじゃない。むしろ上出来よ!」

「アル王子の笑顔を引き出すなんて、すごいじゃん!」

「全然そんな……。わたし緊張してしまって、うまく話せませんでした。もっとちゃんとできるよう、頑張ります。完璧な女性になれるよう、精一杯努力します。ですからどうか、ご指導お願いします!!」

「なにか勘違いしているようですね」


 深々と下げた頭の上に、ヴェサリスの声が降ってくる。


「勘違い?」

「そうです。完璧な彼女役など誰も求めていません。わたしたちが求めているのは、アルオニア様を笑顔にしてくれる方。リルエさんは、真面目さが裏目に出ているようです。うまくやろうとして肩に力が入り、それがミスを誘うのでしょう。緊張したときは深呼吸をしてください。自然体でいたほうがうまくいきますよ」

「そうそう! 完璧になろうとしなくていいんだ。アル王子の性格的に、そういう女性って息が詰まると思うからさ。思わず手を差し伸べたくなるぐらいの、危なっかしいリルエちゃんでいてよ」

「マッコンエルさん、ヴェサリスさん、オルランジェさん。励ましてくださってありがとうございます! 元気がでました!」

「ふふっ。恋愛マニュアルその一、成功ね!」


 オルランジェが人懐っこい笑顔で、手を叩いてくれた。

 三人に出会えた喜びで胸がいっぱいになっていると、ヴェサリスは二つ折りの紙をわたしに差し出した。


「マニュアルその二です」



【恋愛マニュアルその二。自分のことを知ってもらう(家族を紹介しちゃおう! リルエちゃん、頑張って😘)】



 マニュアル内容に、目が点になる。

 マッコンエルが両手を頭の後ろで組んで、口笛を吹いた。


「ぴゅ〜ぅ。リルエちゃんは今度はどんなドジを披露するんだろうな。楽しみだ」

「アル様は、どのようなドキドキなことをしてくれるのかしら。ワクワク」


 マッコンエルとオルランジェのはしゃいだ声を聞きながら、わたしは(この人たち、絶対におもしろがっている……)と遠い目になったのだった。



 ◆◆◆



「どうやって、家族に会わせればいいんだろう……」


 ジュニーとトビンが絵本を読んでいるのを眺めながら、わたしは頭を抱えた。

 二人の読んでいる絵本はぼろぼろだし、服はつぎだらけ。

 我が家は、嵐がきたら壊れてしまいそうなほどにボロい。家に王子を招待するわけにはいかない。しかしだからといって、ジュニーとトビンを王子の屋敷に連れていってもいいものか悩む。


「それに……お母さんのことは、どうしよう……」


 母は家を出て行ったきり、帰ってこない。

 父が生きていた頃の母は優しかった。父が病弱だったから貧乏ではあったけれど、「お金がなくても、家族仲がいいのが一番よ!」と明るく笑っていた。

 けれど父が亡くなり、アーロンと付き合うようになってから母は、服装も化粧も派手になった。イライラすることが多くなり、お酒の量が増えて、煙草を吸うようになった。

 母は、付き合う男性の色に染まりやすいのかもしれない。

 心が重くなってテーブルに突っ伏していると、ジュニーが叫んだ。


「お姉ちゃん! 怖いおじさんが来た!!」


 ジュニーとトビンに家から絶対に出てこないよう言い聞かせ、すぐさま封筒を手にして外に出る。


「よお、嬢ちゃん。お出迎えとは感心なこった」


 四角い顔の中年男が片手を上げた。その男の隣には、目つきの悪い二十代後半ぐらいの男がいる。

 派手なシャツを着た、いかつい男二人を前にして足が震える。

 それでもわたしは奥歯を噛みしめ、足を踏み出した。四角い顔の男に封筒を差しだす。


「借金を全額お返しします!!」


 男はわたしをチラッと見ると、やけにゆっくりとした手つきで、封筒の中身を確認した。


「ははっ! まさか、一度で大金を用意できるとはね。驚いた。だが、嬢ちゃんは利子を忘れている」


 目つきの悪い男が、借用書を広げて見せた。利子の欄に記入してある金額に、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走る。


「うそ……こんなお金、払えません……」

「ゴラァッ! 借りた金が払えねぇなんて、甘えたこと言ってんじゃねぇぞっ!!」


 目つきの悪い男が腕を振り上げた。わたしは反射的に後ずさりし、恐怖を和らげるためなのか、服の上から胸元を掻きむしった。


「こんなに利子がつくなんて……へ、変です……」

「あぁっ⁉︎ なんだって? もう一度大声で言ってみろっ!!」

「あ、あの、あの、待ってください。給料が出たら……」


 四角い顔の男は身を乗り出すと、わたしの顔の横で鼻にかかった笑いをした。煙草臭い息が頬にかかり、その不快さにわたしは顔を背けた。


「時間が経てば経つほどに、雪だるまのようにどんどん利子が増えていくぜ。嬢ちゃんの給料では返すのが大変だ。おじさんが助けてやろうか?」


 男は気味の悪い猫撫で声でそう言うと、いきなりわたしの顎を掴んだ。無理矢理に男のほうを向かせられる。


「ぱっと見は地味だが、なかなかに可愛い顔をしている。化粧をしたら化けそうだ。俺がいい仕事を紹介してやる。なあに、簡単な仕事だ。足を開くだけでいい」

「それって、どんな仕事……」


 男がわたしの耳に、卑猥な言葉を吹き込んだ。

 一瞬で血の気が引き、まともに立っていられない。けれどわたしを逃さないためなのか、男がわたしの腕を掴んで離さない。


「む、むりです……そんなこと、できません。あの、待ってください……」

「待たない」

「一日だけでもいいです、少しだけ待ってください! あの、あの、考える時間をください!!」

「まぁ、俺は悪魔じゃないからな。一日だけ考える時間をやってもいいぜ」


 男はわたしの腕を掴んだまま、目つきの悪い男に目をやった。


「家の中に妹がいるはずだ。連れて来い」

「妹になにをする気ですか!!」

「待ってやる代わりの人質ってヤツだ。なあに、手荒なことはしない。可愛がってやるだけだ」

「やめてくださいっ!! 妹に手は出さないで! ひどいことをしないで!!」


 男の長い爪が腕に食い込んで痛い。その痛みが、皮肉なことにわたしを現実世界に繋ぎ止めている。悪夢のような目の前の出来事は、決して幻でも夢でもないのだと、男の与える痛みが突きつける。


「十分以内に荷物をまとめて来い。そしたら、妹のことは見逃してやる」


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 アルオニア王子から前払いしてもらった給料で、借金を終わらせることができるはずだった。借金の恐怖から解放される目前で、蟻地獄に落ちてしまった。不幸から抜け出せない。


 ——助けてっ!!


 声にならない声で、叫ぶ。アルオニア王子の笑顔が、脳裏に浮かんで、消えた。

 言葉にできない叫びも、願いも、誰にも届くわけない。助けてもらえるわけ、ない。

 これが運命なのだと諦めるしかない。妹と弟を守るために、わたしが耐えて我慢すればいいだけの話。


 

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