ふたつの生命
回めぐる
第1話
深夜の二十五メートルプールは黒い。水底に一本通っているはずの直線は見えない。飛び込んだら最後、沈んで二度と戻ってこられない底なし沼のようだ。
僕はプールサイドに立って、その沼底をのぞきこんだ。ぽつんと寂しく佇む電灯には、羽虫がたかっている。その寒々しい光に照らされている水面部分は、石油のようにどろりとして見えた。
あいつの遺体は、浮かび上がっていたところを、朝練に来た水泳部員に発見されたらしい。僕はその光景を直接見たわけではないので、本当に浮かび上がっていたのかを疑ってしまう。プールは死海ではないのか。
ああ。でも、確かにあいつはぷかぷか浮かんできそうなタイプだな。フットワークもノリも軽い。ついでに、すぐに相手が変わる尻軽。で、あまりの軽さにそのまま羽が生えて、天に召されたわけか。ウケる。
しゃがんで、顔を水面に近づけてみる。塩素の匂いが鼻に付く。あいつの甘い匂いとは似ても似つかないが、人工的な匂いという点は同じだ。
あいつはいつも香水を付けていた。横を通り抜けるたびに、形容しがたい匂いがふわりと香る。自分を良く見せることが好きな奴だった。匂いだけではなく、顔面も、爪も、人工的に改良されていた。赤が好きらしい、目元もネイルもいつも赤だった。「殴られたみたいな目だな」と言うと、殴られた。「あたし、そういう人の気持ちがわからない正直さはきらい」と、にっこり微笑んだ。
たぶん、この自殺も自分を良く見せる手段の一環に過ぎない。あいつは老いることを恐れていた。永遠の少女だったのだ。そして見事、永遠の若さを手に入れることに成功したのである。バートリ・エルジェーベトもあいつを見習うといい。
しかし、水死体は美しさからは程遠い。肌が青や赤に変色して、髪が抜け落ちて、服からはち切れんばかりに体が膨張するらしい。あいつが死んでからネットで調べた。
あいつはそのグロテスクな膨張を知っていたのだろうか。たぶん、知っていたんだろうな。
――雲隠れの月が、不意に顔を見せた。無人のプールサイドが仄かに照らされる。水面に僕の顔が映り込んだ。微かな夜風に吹かれて揺蕩う水面の僕は、ぼやけていて輪郭がない。
だが、じっと見つめていると、だんだんと鮮明に見えてきた。僕の顔ではない。プールの底の世界が見えてきた。
二十五メートルプールの底は、街だった。そこに人々は暮らしている。あいつの姿もあった。あいつがいるということは、あそこは天上の世界なのだろうか。
あいつが空を仰いで俺を見た。視線が合う。赤い目元にぎゅっと皺を作って、にっこりと笑った。
「おいでよ」
おいでよって、それはつまり死ねってことだろ。おいおい、あんたは自分の言動に責任を取れるのかよ。人ひとりの命が掛かってるんだぞ。
「後追い自殺なんか、してやらない」
あいつはまたにっこりと、少女の笑みを浮かべた。僕は色々とあいつに聞いておきたいことがあった。あんたが死ななきゃいけない原因を作ったのは誰なのか、そいつに制裁を加えてほしいのか、ほしくないのか、それから、最後に僕に言っておくことはあるか。しかし、何一つ聞けないまま、あいつは水の底に掻き消されていった。小さな子どもに手を引かれて、振り返りもせずに。
「あんたなんか好きじゃない、から、後追い自殺なんかしてやらない」
水面にはしかめ面の僕が映ったが、すぐにまた月が隠れて何も見えなくなった。雲隠れだ。
ふたつの生命 回めぐる @meguruguru
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