三 サロン
広間にしては小さめらしいが、豪華な装飾が施された壁には大きな鏡が張られていて、とても広々として見えた。そんな場所で仕立てのいいローブやドレスの大人達が優雅にガラスの器でお酒を飲んだり、軽食やお菓子を食べたりしながら会話を楽しんでいる。
「吟遊詩人のエテンともうします。このたび、アルラダ様の弟子にしていただきました」
キラッと朝日がこぼれるように笑い、華やかにお辞儀をする。「これはこれは、ご丁寧に」と相手が礼を返す。高名な学者や貴族の集う会だと聞いて緊張していたが、普段通りの態度で問題なさそうだ。
けれどいつも通りに話すエテンは今、房飾りのたくさんついた深紅のマントの中に焦茶色に金刺繍の魔術師みたいなローブを着る、ちょっといつもとは違う格好をしていた。胸元には星の金貨を見えるように下げる。着替えを渡された時はちぐはぐな感じになるかと思ったが、着てみるととても格好良くて気持ちが盛り上がる。歩く度に裾がふわっと翻るのも素敵だ。
灰色のローブをきっちり着込んだ師匠には挨拶の人が次々に訪れ、その度にエテンが紹介された。中には「塔の承認はもう?」とか少し底意地の悪い顔で聞いてくる人もいたが、師匠が「手続きはまだですが……この子は風持ちでしてね」と言うとみんな目を丸くして、壊れたおもちゃの人形みたいに「ああ、なるほど」とがくがく頷いた。
「ほら……あの広場の」
「時の管理者の被害者か」
「あの子が風持ちだったとは」
隅の方でこそこそと噂が広がってゆくのが聞こえる。「時の管理者」というのは、エテンの家族を皆殺しにした殺人犯の名前だ。けれど、悪い気はしない。この部屋には、可哀想な孤児を憐れんでいる人間はほとんどいなかった。数人のご婦人が痛ましげにしているだけで、あとは嫉妬と、羨望のまなざしだ。月の塔の魔術師に拾われるなんて幸運だったなという嫌味混じりの目と、風持ちの子供を自分が先に拾っておけばという羨みの目。どっちも嫌な感じだが、エテンの肩を抱いた師匠はそんな視線をさらりと笑みで流している。そして小さな声で言うのだ、「ふむ、なかなか気分がいいね」と。
風持ちではあっても、自分は簡単な魔術ひとつ使えない──そんな考えがちらりと胸をよぎりはしたが、その時広間の入り口の方からさあっと息を呑む音が流れてきて、エテンはすっかりそちらに気を取られた。
さざめき笑う人の声が波の引くように消えてゆき、広間が静まりかえった。皆が胸に手を当てて、道を開けながら礼を取る。エテンも同じようにしようかと思ったが、師匠が棒立ちのままなのでとりあえず立ったまま入り口の向こうを見つめた。
「あ、賢者様」
呟いた声が静かな広間に響いた。数人が責めるようにエテンを睨んだが、入ってきた賢者様が「聴きに来た、エテン」と言って片手を上げたので、驚愕にぽかんと口を開ける。
「アルラダ様の弟子殿と……お知り合いなのですか?」
特別豪華な服を着た貴族っぽい男の人が、賢者様に話しかけた。賢者様が頷いて「茶を共にして、少し魔術を見た。歌も聞いたことがある。素晴らしい声の持ち主だ」と言う。その瞬間に大人達が一斉に振り返ってこちらを凝視したので、エテンはビクッとして一歩下がった。みんな飢えた獣のような目をしていた。師匠がすぐ間に立ってくれる。
「私の弟子をそんな目で見ないでくれるかな」
笑みを含んだ声が冷たく響いて、それを聞いた賢者様が周囲の大人達の顔をぐるりと見回した。すると魔法のように全員品のいい笑顔になって、飲み物を手にすると世間話へ戻ってゆく。気持ち悪い。
「この人達って……」
囁くと、師匠は「外の世界の大人なんてみんなこんなものさ」と少し冷たい顔で言った。
「でも安心するといい、塔の人間は皆、そういう意味ではまともな人間ばかりだよ。世間知らずだけどね」
「師匠みたいに?」
「私は世間知らずじゃない」
「大人がみんな我慢するような本当のこと、平気で言っちゃうじゃないですか。それに金貨も」
「──確かに」
ゆったり歩いてきた賢者様が会話に加わった。こちらをちらちら窺っている大人達の視線が怖い。
「賢者様って、とても人気者なんですね」
そう言うと、賢者様は「私個人ではなく、この国では賢者という存在が人気らしい」とぼそぼそ言った。とても落ち着いている。ギラギラした目で凝視されていても、そんなに気にならないらしい。
「いえいえ、製紙業と保護書架に革命をもたらしたアトラ様は特別人気者だと思いますよ」
師匠が言うと、大人達がすごい勢いで頷く。怖い。
「保護書架って? この国の大人の人ってみんなこんな感じなんですか?」
「日光や虫や湿気から本を守る魔術がかけられている本棚のこと。この『書架の賢者様』のおかげで、書物が長持ちするようになった。この国の大人は……まあ大体こんな感じだよ」
「へえ……」
何度か訪れ、知ったつもりになっていたこの国がとても変なところだったと知ってエテンは遠い目になったが、少年を見下ろした賢者様がどこかそわそわした様子をしていたので見つめ返した。
「賢者様?」
「保護書架について……詳しく知りたいかね?」
あ、これ自分の好きなものについてすごく喋りたい人だ。
「ええ、ぜひ」
エテンは愛想良く微笑み返したが、しかし師匠が「待った」と割り込んできた。
「アトラ様は本棚の話になると長いんですから、今日はこの子の演奏を聴いてあげてください。病み上がりなので、何曲か演奏したらすぐに部屋へ下がらせる予定なんです。エテンにはあなたの論文を読ませておきますから」
「……そうか」
「師匠、僕大丈夫ですよ」
「だめだ」
ちょっと残念そうな賢者様に「またいずれ」と声をかけ、師匠に促されて部屋の端に置かれた大きな楽器の隣に立つ。たぶん、これがピアノだろう。見覚えのある従業員がさっと小さな椅子を出してくれたのに礼を言って、ルェイダを取り出して座る。素早く音を合わせると、その手つきを見た人が感心した顔になった。けれどまだ「しかし……旅芸人だろう?」と囁いている貴族風の人がいる。
ふうん、このラゥガ一座に喧嘩を売るなんていい度胸だな。ニヤリとしそうになるのを我慢して、いつもより上品に目を細めて微笑む。音合わせの終わったルェイダを抱えて立ち上がり、指先を揃えてそっと胸に当てると片足を引いて深く礼をした。この国の宮廷風の挨拶だ。
「きかいをいただきましてこうえいのいたり、ラゥガ一座のエテン、魔術師アルラダの弟子にございます。まずはご挨拶として『泉の讃歌』を。この国の南東にそんざいする、叡智の神の泉を歌った古典がっきょくをおきかせいたしましょう」
そう言って椅子に座り、優しくやさしく、弦をつま弾く。ルェイダはひび割れた強い音が特徴の楽器だが、こうしてそっと弾けば冷たい冬の風が歌うような、幻想的な和音を出せるのだ。そこに普通よりもオクターブ上の、高い高い歌声を乗せる。
メル・サーリア・イオラ
聖なる泉よ
叡智の湧きいでし夜の泉
差し込むは星明かりのみ
満ちる大気は冬のつめたさ
霜が降り 粉雪が舞う
冷えた風に冴え渡る
明日をも見透かす神の叡智
メル・サーリア・イオラ
聖なる泉よ
一曲歌い終わっても、拍手の機会はまだ与えない。後奏を奏でながら少しずつ移調して、似ているけれど少し違う曲の前奏に変えてゆく。より深く、暗く、夜の時間を司る大気の神様の時間に呑み込まれるように。部屋のあちこちで控えていた給仕係が、そっと部屋の明かりを消した。暗闇のなか、エテンの頭上にあるシャンデリアだけが月明かりのような青白い光を放つ。
澄んだ水に手をひたす
夜の泉よ
口にすれば叡智を得ると
その昔 神は言った
澄みわたる叡智を得ると
粉雪舞う 夜半の泉
星明かりもうつらぬ 暗き
水辺に眠れば 夢に見る
知恵の回廊を歩む夢
失われた叡智を求めて
作詞が得意だった母さんの作った歌だ。「知恵の回廊」は太古の時代に存在したと言われている風の神の大神殿のことで、思考回路を示す古典的な表現でもある。
「この声、目の色も……妖精混じりかしら?」
大喝采の中に、呆然とした囁き声。エテンの瞳はハシバミ色だ。光の当たり方で茶色にも金色にも緑色にも見える。それともまた魔力で黒く染まっていたのだろうか? 青いドレスの貴婦人を見つめ、微笑みを浮かべてそっと首を振る。彼女は両手で口を押さえると目をまん丸くして、隣の男性に「今、いま……!」と興奮した様子で話しかけ始めた。そう、こんな拍手の中でも囁きが聞こえるなんて神秘的だろう? でも妖精の音楽会は、まだ始まったばかりだ。
「エテンって、もしかして妖精混じりかい?」
その時近くに立っていた師匠が呑気な声でそう尋ねて、挑戦的な気分だったのが一気に崩れた。
「違いますよ」
「でも、妖精の国から響いてくるみたいな歌声だった」
「声の出し方にコツがあるんです」
「ふうん──どうでした、アトラ様?」
師匠が賢者様に尋ねると、場がさっと静まった。そんな風にされると、エテンも緊張する。
「素晴らしい。次に塔を訪れた際は、弟子にも聞かせてやってほしい」
賢者様が言った。大人達の視線がエテンを一斉に見つめ、キラキラと憧れの眼差しになる。ものすごい人気者になった気分だが、たぶん賢者様の評価に影響されてるだけだ。相変わらず、大人って目の前のものをちっとも自分で見聞きしないんだな。
「お弟子さんって、シラさん」
「うむ、音楽好きらしい。君の音楽を気に入るだろう」
「はい、ぜひ」
エテンがにっこり頷いたのに頷き返すと、賢者様は「では、また」と片手を上げてサロンを出て行った。彼に話しかけたそうにしていた大人達が一斉に残念そうな顔になって、何人かは後を追うようにして部屋を出てゆく。もう何曲か演奏しようと思っていたが、すっかり雰囲気が壊れてしまった。もしかしてここまで計算して賢者様に声をかけたのだろうかと師匠を横目で見ると、彼は「病み上がりだからね」と肩を竦めた。
「少し食事をとって、部屋へ帰ろう」
「はい」
賢者様の背を視線で追いかけている人が大半だったが、それでもエテンがお辞儀をすると拍手が沸き起こった。青いドレスの女性がそわそわと近寄ってきたので、挨拶しようとそちらに微笑みを投げる。綺麗な薄緑色の目が見開かれ、白い頬がパッと薔薇色になった。
「あの、妖精さん」
「──アルラダ殿、貴殿ほどのお方がこんな野良の子供を弟子に取られるとはね。まあ、拾いものにしてはそれなりのようですが」
嘲笑うような男の声が割り込んで、青いドレスの女性が薄茶色のローブの肩にぐいと押し退けられた。女性の手を取って歩いていた男性が怒った顔になり、けれど文句を言うのは我慢したらしく、守るように彼女の背を押して去ってゆく。
「実に多才で聡明、容姿も性格もいい。羨ましいだろう?」
言い返しながらさっと師匠が前に出て、僅かにマントを広げてエテンを隠すようにした。背中からそっと顔を覗かせると、ぼさぼさ髪に小太りの意地悪そうなおじさんが、師匠に向かっていやらしい笑みを向けている。すらっと背が高くて涼やかな目をした師匠と比べると、お化けみたいだと思った。
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