二 吟遊詩人魔術師探偵



 そうして暇つぶしに手にした小説──『探偵マシエラと縞々の紐』に、エテンはすっかり夢中になった。不気味な事件に、「探偵」などという地に足のつかぬ──これは本文からの引用だが──肩書きを名乗りながら、街の騎士達に頼られているマシエラ。彼は魔力を持たず、魔法も魔術も一切使えないのに、その鋭い頭脳で前代未聞の謎に満ちた殺人事件を解決してしまうのだ。


 少しした頃に師匠が「ほら、これが薬草の包みだよ」といい香りのする白い布の包みを持ってきてくれたが、少年はそれに「はい……あとで見ます」といい加減な返事をして続きを読み続けた。眠気はすっかり吹き飛んで、最後の一文字を読み切るまで食い入るようにページを捲り続けた。


「師匠……」

「ん? 読み終わったかい?」

「ぼく探偵になる!」

「……ん?」

「僕、名探偵になる!」


 張り切って将来の夢を告げたところ、師匠は笑顔のまま少しだけ眉をぴくりとさせた。


「……探偵になるの?」

「うん! 探偵事務所を開いて、それで依頼人から話を聞くの」

「吟遊詩人はどうするんだい?」


 困った子供を見るような顔でそう尋ねてくる。しかしエテンはそれに自信満々の笑みを返した。普通の子供と一緒にしてもらっては困る。エテンは叡智の愛し子だから、そう簡単に自分の目標を忘れたりしないのだ。


「もちろん、吟遊詩人も続けますよ。マシエラも、ギォリンって楽器が上手いんです。ギォリンって何ですか?」

「弦を弓で擦って鳴らす楽器。ルェイダみたいに抱えるんじゃなく、顎の下に挟んで弾く。共通語だとヴィオリーニア」

「師匠は弾けますか?」


 勢い込んで身を乗り出す。師匠ができるなら、教えてもらえるかもしれない。エテンもマシエラみたいに推理に行き詰まった時はギォリンを弾いて、思考を整理したい。


「弾けない。タナエスが上手いから、教わりたいなら彼に頼んでみるといい。私ができる楽器は私はフルートだけだね。それもそんなに上手くない」


 タナエス、あの彫刻の人か。


「タナエスさんって……優しい人ですか?」

「まあまあだね。物言いは冷たい感じだけれど、心根は曲がっていないと思う」


 師匠はそうエテンの疑問に答えてから、苦笑いで首を捻った。

「それで……吟遊詩人探偵をやりながら、魔術師もやるのかな?」


 何を当たり前のことを。師匠は心配性だなあと思いながらエテンは重々しく頷いた。


「はい、吟遊詩人魔術師探偵です」

「そっか……」

「師匠、誘拐事件の聞き込みに行きましょう」

「今日は寝てなさい」


 師匠がきっぱり首を振ったので、エテンは唇を尖らせて主張した。


「もう元気になりました。だるさもないし、頭も痛くないし、師匠のレモネードが効いたんです」

「熱が下がって、昼をちゃんと食べられたら、夜はサロンに連れて行ってあげてもいい。でも、外に出るのは明日まで我慢しなさい」

「……はい」


 言い方が、兄さんに寝床の片付けを命じる時の父さんそっくりだ。こういう時の大人は、何を言ったって自分の言葉を曲げないものと決まっている。エテンは調査を諦めて、次の本を手に取った。推理小説は一冊だけだったので、あの司書の青年が書いたという魔術の本だ。丁寧な図と共に、魔法陣の詳しい描き方が解説されている。


「はじめに、央点おうてんを取って、発現領域の円……を描く。央点が真ん中のことで、はつげん領域が、範囲を決めてる周りの円のこと──師匠、コンパス貸してください」


 顔を上げて言うと、師匠は「それより昼食が先だよ」と寝室に食事の乗ったカートを運んできた。


「まだお腹空いてません」

「それでも、時間通りに食べた方がいい。それより、コンパスなんてどうするんだい? 持ってないけどさ」

「魔法陣はそうやって練習するって本に書いてあります」

「そんなものなくても、君はちゃんと中央を取れてただろう」


 器が差し出される。本を置いて受け取ると、麦を煮込んで作ったお粥だった。細かく刻んだ肉と野菜がたくさん入っている。かなり好きな感じの匂いがした。師匠も一緒に食べるらしく、枕元に椅子を持ってきて腰掛ける。


「やった、パン粥じゃない」

「おや、パン粥は嫌いかい?」

「べちゃべちゃするから……パンって、スープに溶かすものじゃないと思います」

「まあ、病人食だからね」


 具沢山の麦粥は、なんだか高級な味がした。食べながら、さっき本で見た魔法陣の描き方を思い出す。真ん中の点を決めて、その周囲に円を描いて、真ん中の図と、弧と、呪文と──


「師匠、央点の上に描く授図じゅずって、どうして星でも花でも雪の結晶でもいいんですか?」


 パッと顔を上げて問うと、師匠は口の中のものをごくんと飲み込んで答えた。


「放射状になっている図なら何でもいいんだよ。自分が描きやすいとか、思い入れがあるとか、使ってみてしっくりくるとか、好きに決めていい」

「じゃあ星にします」


 絶対、師匠とお揃いがいい。そう思って微笑むと、師匠は「星、好きなのかい?」と首を傾げた。


「別に」

「ならなぜ? 特に思い入れがないなら全部試してみた方がいいよ」

「思い入れはあります。でも、内緒です」

「そう」


 師匠は特に詮索することもなく、食事に目を戻した。会話が途切れるが、気まずい感じはしない。エテンも自分の考え事に戻った。師匠が食後にまたレモネードを作ってくれたので、それを飲み切ってから再び本を開く。央点を取って、それを中心に円を描く。指でなぞるのではなく、視線でなぞる。その方がずれが少ないと書いてあった。手のひらから空中に見えないくらい薄く魔力を広げて、視線で定めたところに線を作る。線が描けたら、広げた魔力だけを引っ込める。意外と簡単だ。


「おっと……エテン、実践は体調が良くなってからにしなさい」

「もう治りました」

「いや……確かに熱は下がったけれどね」

「師匠、円は発現領域なんですよね? 円の中が術の範囲なら、どうして円から模様がはみ出てる魔法陣があるんですか?」


 本の後ろの方に載っている難しそうな魔法陣をいくつかパラパラと見せながら質問すると、師匠は面食らったように一度言葉を飲み込んでから答えた。


「え……ああ、それは『発現領域』だからだよ。たくさん紋様が必要な複雑な術を小さな範囲で使いたい時、そういう風にする」

「あ、なるほど」


 そしてページをまた始めの方に戻す。


「師匠、回転させるのは初めだけやれば後は魔法陣が勝手にやってくれるって言ってましたよね。『勝手に回してくれる』のってこの模様のどの部分なんですか?」

「はい?」

「最初から全部、魔力を通すだけで勝手に回ってくれる魔法陣ってないんですか?」

「それは、エテン、つまり」

「魔導具と魔石があれば、全く魔力がない人でも魔術が使えるって書いてあります。それはなぜですか? 魔石があれば僕も魔術を使えますか?」

「エテン……少し、深呼吸しようか」

「え?」


 質問に答えて欲しいと思ったが、言われた通り深く息を吸って吐いた。すると頭の中をぐるぐると巡っていた熱のようなものがすうっと引いて、思考の速度が緩まってゆく。


「あれ」

「瞳が黒くなっていたよ、エテン。気の魔力が体の中で大きく動いている証拠だ。君はどうも、思考能力を上げる魔法を無意識に使えるらしい」

「え?」

「素晴らしい力だけれど、今はやめておきなさい。熱がぶり返すよ」

「……はい」


 よくわからないまま頷くと、師匠は「あたたかい服に着替えて、隣の書斎に行ってみようか。君にはもっと専門的な魔術書も必要そうだ。歩いてみて目眩がしなかったら、夜はサロンで演奏会だよ」と言った。


「サロン」

「そう。ここに泊まっている学者相手に、短時間の興行だ。まだ時間はたっぷりあるから、気分転換に少し楽器の練習もしたらどうだい? 連絡すれば賢者様もサロンへ聴きにきてくれると思うよ」

「えっ!」


 ぴょんと寝台から飛び上がったが、目眩はしなかった。楽器を取りに走ろうとして、師匠に「ゆっくり歩きなさい。それに着替えが先だ」と肩を押さえられる。パン粥と一緒に届けられていたあたたかいローブとマントを着込んで、エテンはルェイダの鞄を抱きしめると居間のソファに座り込み、鞄の外ポケットに入っている楽譜集を膝の上へ広げた。どの曲を、どんな構成で演奏しよう? ああ、口上も変えなくっちゃ。自分はもう『エテン』なのだから、ただの孤独な吟遊詩人じゃない。すごい魔術師の弟子でもあって、そして将来は吟遊詩人魔術師探偵になるのだ。素敵な挨拶を決め直さなくちゃ。それで曲も、魔術師の弟子らしい知的な組み合わせにしなくては。曲調に幅を持たせながらも、物語に関連性があって、時に涙し、最後は明るく華やかに──


 じっくり思案を始めたエテンの後ろで、「また目が黒くなってるよ……」と師匠が頭を抱えた。





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