一 究極の選択



「師匠、もう月の塔に行きましょう。学会の仕事は終わったんでしょう? この国を離れた方がいいですよ」


 神殿の人間に言われたことを思い出してまた腹が立ってきたロゥラエンが、不機嫌な声で言った。すると師匠は真っ白い紙に綴られた夕食の献立をソファでゆったり眺めながら、緩やかに首を振る。


「いや、まだ観光したいところがあるからね。図書館にもまだ二箇所しか行けていないし、自然史博物館と、美術館と、王宮の庭園も外側の方は入れるらしいし」

「師匠……」

「ロゥラエンは夕食、肉と魚のどちらにする?」

「お肉」

「よし」


 師匠が頷いて、手のひらにさっと光の紋様を描いた。ロゥラエンが「あ、鳥を出すやつ」と呟くと、少し驚いたように瞬いて「その通りだよ」と言う。


「よく見ているね。呪文は覚えているかい?」

言葉の鳥よイフラ=アーヴァ

「へえ!」


 師匠はさっと鳥を呼び出して「夕食は肉と魚ひとつずつ。肉の方が子供用」と言うと、飛び立つそれを見もせずに体ごとロゥラエンの方に向き直った。


「ちょっと、どれくらい覚えているかここに描いてごらん」


 そう言って献立の紙を裏返し、懐から万年筆を取り出してテーブルの上に並べる。イライラする気持ちが収まらなかったので夕方の興行はなしにしたが、せっかく早く宿に帰ってきたのだからあの地下通路を探検したいのにとロゥラエンは思った。けれどそれはそれとして期待されるのは悪い気がしなかったので、歩み寄って万年筆の蓋を取る。


「こんな綺麗な紙に描いていいんですか?」

「いいよ。裏紙だし」

「裏紙?」

「もう使い道のない、裏が白紙の書類。献立は毎日新しいものが届くし、使わなければゴミになるんじゃないかな」

「贅沢すぎませんか?」

「この国じゃそんなに木綿紙は高価なものじゃないよ。郊外で綿花の栽培が盛んだから」

「ふうん……」


 鉛筆と違ってペン先が変な形で使いにくいなと思いながらロゥラエンが紙に小さめの円を描いていると、師匠は「へえ、なかなか上手だ」と感心したように頷いてから話の続きを始めた。今まで絵も字も褒められたことなんてなかったので、素直に嬉しい。


「栽培といってももちろん広範囲を開拓するのではなくてね、森の少し開けたところに一面、ふわふわの白い花畑が広がっているんだ。そういう場所があちこちにあって、湖に面していたりすると特に童話の一場面みたいで綺麗だよ」

「それ、何年か前にこの国へ来た時に見たことあります。その時は春で、湖はなかったけど……へえ、あれって畑だったんだ」


 少々おざなりな声で返事をし、じっと紙を睨んで真ん中の星模様の棘がいくつだったか慎重に思い出していると、師匠が隣で頬杖をついてそれを覗き込みながら言った。


「おや、知ってたか。その事業を主導していた賢者様が学会のためにこの宿に泊まっていてね、もうすぐ国へお帰りになると思うから、せっかくだしその前にちょっと会ってみるかい?」

「賢者様に?」


 ぎょっとして紙から顔を上げ、師匠を振り返った。賢者様というのは世界にただ一人しかその名前を名乗ることを許されていない、この世界の全てを知っていると言われている、とにかくものすごくて偉い人だ。そんな人とそんな簡単に会ってみようだなんて、師匠は一体何者なんだろう。


「それは、会えるなら……会ってみたいですけど」

「じゃあ、お茶に誘ってみようか」


 そう言って師匠がさっと手の甲に光の円を描いたので、ロゥラエンは慌てて顔を背けてそれを視界から外した。今は魔法陣を思い出しているところなのだから、ずるをしちゃいけない。


「おや、ヒントをあげようと思ったのに」

「いりませんよ、そんなの」

「へえ」

 師匠は面白がるように目を細めて、鳥に向かって話しかけた。


「アトラ様、弟子を自慢したいのでお茶をご一緒しませんか。明日の青の零時はいかがでしょう」


 小さなミミズクがホーと鳴き、壁をすり抜けて上の方へ飛んでゆく。それを見送って、ロゥラエンは言った。


「賢者様には、ちょっと丁寧に話すんですね」

「尊敬すべきお方だからね。彼にも若い弟子がいるんだけど、今回は連れて来ていないみたいだ」

「賢者様のお弟子さん」

「シラ君っていうんだけどね、彼が面白いんだよ。研究で塔に来る度に、エルフの子供に後ろをこっそりつけ回されてるんだ」

「……え、どうして」

「さあ? でもおもしろ可愛いから、今度観察してみるといい」

「観察……」


 それにしても月の塔とやらには妖精だけじゃなく賢者様まで出入りするのかとロゥラエンは感心していたが、彼の手元を見た師匠が「もう降参かい?」と言ったので、慌てて魔法陣を完成させにかかった。


「まだです! まだ半分も描いてない」

「そういえば、地下の探検がまだだったね。夕食まで時間があるし、それを終えたら出かけようか」

「はい!」


 勢い良く頷いた時、窓をすうっとすり抜けて大きな黒い何かが部屋に入ってきた。息を呑んだロゥラエンが飛び上がって身構えると、師匠が「大丈夫だよ、伝令鳥の返信だ」と言う。小さな羽音を立てて師匠の腕にとまったそれは、確かによく見るとミミズクの形をしていた。


「なんだ……」

「ほらロゥラエン、これが気の魔力の色だよ」


 鳥は透き通った黒というか、影を立体にしたらこういう感じになるのかなという色をしている。手を伸ばして触ってみると羽毛とは少し違う、ふわっと跳ね返されるような感触がした。


「どうぞ」


 師匠が鳥に向かって言うと、ミミズクが嘴を開いて重々しく「うむ」と言った。低い男の人の声のようにも、フクロウの鳴き声のようにも聞こえる不思議な声だ。


「うん」

 師匠が頷くと、ミミズクがホーと言ってふわりと姿を消す。


「……え? 今のって」

「『うむ』というのが返事だろうね。明日の午前中は空いているみたいだ」

「短すぎませんか?」

「そういう人だから」


 どういう人だよと思わないでもなかったが、今はそれよりも賢者様とのお茶会が決まってしまったことの方が気になる。


「じゃあ……明日、賢者様とお茶を飲むんですか?」

「うん」

「……ルェイダも持って行っていいですか」

「もちろん、聞かせてあげるといい。賢者様もピアノがお上手だからね、君の音楽を気に入ると思う」

「はい」


 凄い人に自分の歌を聞いてもらえるかもしれないと思って、ロゥラエンは緊張と期待で息が苦しくなった。両手で胸を押さえ、その奥で「父さんが羨ましがるだろうな」と一瞬考えて、その考えをすぐに意識の底に沈める。あまりこういうことを考えるとまた悪夢を見るし、寂しさと苦しさで何もできなくなってしまうのだ。


 少し気を逸らそうと師匠の方を見ると、彼はエテンが置いていた万年筆の蓋を指先でいじくり回しながら「まあ、返事はいらないかな。場所は直前に決めればいいし」とのんびり言っていた。


「返事はしてたじゃないですか、『うん』って」

「あれは伝言を聞き届けたことを伝令鳥に伝えているだけだ。返事はこちらから鳥を飛ばさないといけない──万年筆は少し寝かせた方がいいよ」

「へえ……あ、ほんとだ」


 試しにペンを傾けて線を引いてみると、途端にインクが途切れなくなった。もう一度深呼吸して気持ちを整え、じっと頭の中の映像を見つめて、師匠の手に描かれた紋様の細かいところを観察する。思い出しては描き、描いては思い出す。自分もやってみたいと思ってよく見ていたから、かなり正確に思い出せたと思う。


 一番小さな丸の中に呪文のような文句を細かい字で書き込んでいっていると、楽しげに喋っていた師匠がいつの間にかとても静かになっていた。ちらっと見上げると、眉間に皺を寄せてものすごく真剣にロゥラエンの手元を見ている。


「……あの、そんなに見られてると緊張します」

「ロゥラエン、この魔法陣を知ったのは私が使って見せたのが初めてかい?」

「はい」

「貸してごらん」


 手を差し出されたので、最後の星を書き上げてから紙を手渡した。師匠はそれを端から舐めるようにじっくりと見て、そしてテーブルの上にそっと戻した。


「見ててごらん、ロゥラエン」


 描かれた魔法陣の中央の星に、師匠が指先をポンと乗せる。するとロゥラエンの描いた線がキラキラと白い光をこぼし始めた。


「その万年筆には、魔力伝導率の高い特殊インクを充填してあるんだ。描いた魔法陣がそのまま魔導具になる」

「魔導具」

「魔力を流すだけで魔術が使えるようになっている道具のこと──言葉の鳥よ」


 キラキラしていた魔法陣が大きく輝いて、次の瞬間、紙の上に一羽のミミズクが出現した。


「うわ」

「ちゃんと伝言もできるはずだ。尾羽は長いけれどね」


 そう言われて覗き込むと、確かにミミズクの尾羽はロゥラエンの身長の半分くらいの長さがあった。師匠が「よくできました」と言うのを聞き取った鳥が、ホーと鳴いて尾羽を少し床に引き摺りながら飛び立ち、ロゥラエンの肩にとまる。


「き、来た」

「何か声をかけてあげなさい」

「えっ……こんにちは」

「よクでっ、きィましタ」


 真似の下手くそなオウムのような話し方でミミズクが喋った。師匠が「返事して」と言うので「ありがとう」と言うと、ミミズクはホーと小さく鳴いて消え失せる。


「すごい」

「すごいのは君の記憶力だよ。ほぼ完璧だ。昔からこうなのかい?」


 どうしよう、僕、魔術師の才能があるのかも。手放しに褒められて頬を染めながら、ロゥラエンは俯いて小さな声で答えた。


「ううん……好きなことだけ。好きな曲はすぐ暗譜できるけど、練習曲は全然覚えられない」

「なるほどなぁ……このままでも十分だけれど、覚えたいものを覚えられるように訓練すると凄いことになりそうだ」


 今まで家族には「わがままな記憶力だなぁ」とか「好きなもの以外も勉強しなさい」とか言われてきたが、そういう風に言われるとなんだか凄い能力な気がしてくる。嬉しくなったロゥラエンは色づいた頬を更に真っ赤にして「他の魔法陣も覚えるから教えてください! あと、光で線を描くやつもやってみたいです!」と身を乗り出す。師匠はそれににっこり優しい笑顔を返し、そして弟子に究極の選択を強いた。


「構わないけれど、地下の探検とどっちにするかい?」

「あっ……」


 どうしよう、どっちもやりたい。


 今にも飛び跳ね出しそうな顔をしていた少年は途端に腕を組んで気難しげに眉を寄せ、真剣に二つの選択肢を吟味した。謎の地下通路へ冒険に出るか、光の玉を出す魔法陣をもう一度見せてもらうか、通路の先に宝があるか確認するか、空中に円を描くやり方を習うか──


 じっくり三分は考えて、そしてロゥラエンは結論を出した。凛々しく顔を上げ、真っ直ぐな目で師を見つめて口を開く。


「探検がいい!」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る