二 ひきだしの学者



 その夜はとても冷え込んだ。寝床に入ってもまだ寒かったので、ロゥラエンは馬車にある毛布を全部かき集めてもこもこに包まった。何枚かは事件の時にダメになってしまったが、母と兄と予備の分は無事だったので、彼はひとりで三人分の毛布を贅沢に使えるのだ。


 カーテンの隙間から外を覗くと、真っ黒な空からしんしんと雪が降っていた。街灯の薄青い明かりに照らされて、積もった雪がぼうっと淡く光る。緩やかな風に雪片がくるりくるりと翻り、無数の白い蝶が舞い踊っているかのようだ。


 静かで冷たい情景を見つめていると、通りの方からギュッ、ギュッ、とブーツで雪を踏む音が聞こえてきた。見回りの騎士だろうかと考えていると、小さく「寒っ……」と呟く声に聞き覚えがあったので、ロゥラエンはそっと窓を開けて彼に声をかけた。


「アルゾさん」

「おわっ! びっくりした……ロゥラエン、もう真夜中近いぞ。子供は寝る時間だ」

「眠れなくて。あの……捕まりましたか?」


 小さな問いに、騎士は難しい顔をして首を振った。やっぱりと思いながらも落胆して、肩を落とす。


「もう国を出てるみたいだ。似たような事件が西の方であったって聞いた」

「西の国……」

「おい、追いかけようなんて考えるんじゃないぞ? せっかくお前の母さんが救ってくれた命だ。無駄にするな」


 厳しい顔で忠告した若い騎士アルゾは、衣装入れの木箱の中で気を失っていたロゥラエンを発見してくれた人だ。彼は無惨に切り裂かれた家族の遺体を前に茫然自失のロゥラエンを治療院へ連れてゆき、仲間の騎士達に声をかけて血塗れの馬車を元通り使えるよう掃除してくれた。そして今もこうして、広場で暮らす八歳の少年を心配して見回りに来てくれる。


「おい、聞いてるかロゥラエン? 絶対だめだからな」

「わかってます。追いかけたって、僕は歌しか歌えませんから」

「ならいいが」


 家族を殺した殺人鬼は、未だ行方をくらませたままだった。しかし早く捕まってほしいと思いはするものの、ロゥラエンは犯人に対してそれほど激しい怒りとか恨みとか恐怖とか、そういう気持ちは抱いていなかった。なんだかあの夜以来、詩や歌以外のことについては全てがぼんやりしていて、あまり何も感じないのだ。漠然と苦しくて、漠然と悲しくて、少し前までは時々握り潰されるように胸が痛んだけれど、時間が経って落ち着いたのか最近はそういうこともない。


 自分はどうしてこんなに冷たい人間なんだろう──ロゥラエンはそう思って少し悲しくなった。けれど涙が出るほど悲しいわけでもなかったので、風が吹き込んで寒い窓の開け具合をせばめながら、アルゾがこちらへやってくる同僚の騎士らしき人物へ手を上げるのを見守る。


「あれ、交代か? お前、今日は待機じゃなかったっけ」

「待機だからここへ寄越されたんだよ。おいアルゾ、その子を保護しろ。一晩騎士団で預かって、明日の朝に孤児院へ連れてく」


「えっ?」

 ロゥラエンが声を上げると、アルゾがちらりと振り返ってから同僚の騎士に向き直る。


「期限までもう四日あるはずだが」

「誘拐の三件目が出たんだよ。三人目も子供、今度は六歳の女の子だ。その少年も確か八歳とかそこらだろう?」

「うーん、しかし約束は約束だしなあ……」

「たかが四日、されど四日だ。約束を守って攫われたんじゃ何の意味もない」

「……まあ、仕方ないな」


 アルゾがそう言ったのを聞いて、ロゥラエンは真っ青になった。

「待ってください! 孤児院は、孤児院には入りたくありません!」


 少年のよく通る声が広場に響いて、二人の騎士が「しぃっ」と口の前に人差し指を立てた。

「孤児院はどうか、勘弁してください」声をひそめて言う。


「ロゥラエン……前にも言ったけどな、別に永遠にそこで暮らせってわけじゃないんだぞ。十五で成人したら、また吟遊詩人として旅に出ればいい。この国は教育体制も整ってるから、この機会に神官様に勉強を教わってだな、教養を高めて、もっといい詩を──」

「孤児院はいやだ!」

 ロゥラエンが騎士の言葉を遮り、馬車の窓をバンと大きく開けて大声を出したその時。


「──一体何事だい?」


 突然すぐ近くから優しげな男の声がして、三人は飛び上がって驚いた。少年は素早く馬車の中に引っ込み、騎士二人は剣に手を掛けている。


「お前、どこから現れた」

 名を知らない方の騎士が低い声で言いながら、地面に放り出していたランタンを拾い上げて男の方へかざす。


「どこって、宿から歩いてきたけれど」

 長いローブの裾を雪で濡らしながら、男が背後に点々と残った足跡を示す。騎士がランタンを高く持ち上げてそちらを照らし、馬車の中のロゥラエンからも男の顔がはっきり見えた。


「あ、魔法使いさん」

 ちょっぴり弾んだ声を上げた少年に、皆が一斉に注目する。


「知り合いか?」とアルゾ。

「惜しいね、魔術師さんだよ」と魔法使い。

「魔術師?」とロゥラエン。

「そう。魔術師」

「どう違うんですか?」

「魔術師はね──」

「おい少年、先にこちらの質問へ答えろ。この男は知り合いなのか?」


 騎士が厳しい声で尋ね、ロゥラエンは少し考えて答えた。

「知り合いというか、今日歌を聞きにきてくださったお客さんです。金貨を入れてくれて」

 思い出すと胸がぽかぽかとなってきて頬を緩めながら話すと、騎士は「金貨だと?」と更に顔を険しくした。


「ちょっと騎士さん、魔法使い……魔術師さんにそんな顔しないでください。僕の歌を一番認めてくれた人なんです」

「いくら認めたからって、普通は金貨なんか入れない……おいお前、それでこの子に何の用だ。まさか誘拐犯じゃないだろうな」


 アルゾが剣をカチャっと言わせながら威嚇すると、魔術師は困ったように微笑んで「確かに、金貨は普通じゃなかったみたいだね」と言った。


「宿の給仕に君の歌の話をしたら、金貨を袋にも入れずに渡すのは危ないって言われたんだ。子供が大金を持っていると知られたら、強盗に入られるかもしれないって。だから様子を見に来た。そうしたら、何か揉めてる様子だったから」

「揉めてるんじゃない。ここ数日子供の誘拐事件が多発しているから、親のいない子供達を保護しているんだ」

「それで、彼はそこらの子供と一緒くたに孤児院へ押し込まれるのが嫌だと言っているんだね?」

「嫌だとか、そういうことを言っていられるような状況じゃないんだ。攫われてからじゃ遅い」

「──でも孤児院じゃなくても、他の吟遊詩人に弟子入りとか!」


 ロゥラエンは必死に言葉を紡いだが、騎士達は有無を言わせぬ顔で首を振った。と、それを交互に見ていた魔術師が首を傾げる。

「その辺りの吟遊詩人に弟子入りなんかしても、さして勉強にはならないと思うよ。君の方がずっといい歌を歌うからね」


「えっ」

 少年がちょっと照れていると、魔術師は更に続けて言った。

「弟子入りを志願するなら、もっと違う分野の専門家がいいだろうね。詩人とか、歴史学者とか、作曲家とか……何かもっと君の人間性に引き出しを増やしてくれそうな人物がいい。学者ならそれなりに知り合いがいるから、紹介してあげようか」


「……ひきだしの学者?」

「えっ、いや……そうじゃなくて」

「待ちなさい」


 とそこで、難しい言葉が多くてぽかんとしているロゥラエンの前に厳しい顔のアルゾが割り込んだ。

「盛り上がってるとこ悪いが、いきなり現れた怪しい男に子供を預けるわけには当然いかない。魔術師、何か貴殿の身分を証明できるものは?」


 その言葉を聞いた魔術師は意外そうに目をパチパチして、着ているローブの合わせ目のあたりをちょっと持ち上げて見せ、そして小さく「ああ、暗いのか」と呟いた。彼は肩のあたりで雨を受けるように手を開き、そして──


 目の前で起きた出来事に、ロゥラエンは息を呑んで窓から身を乗り出した。


 魔術師の手のひらに、一体何をどうやったのか、不思議な白い光ですうっと円が描かれたのだ。そしてキラキラ輝くその中に、ものすごい速さで複雑な図形が描かれてゆく。


「光を」


 優しい声で魔術師がそう言うと、緻密なその光の図形が一瞬強く光って、次の瞬間にはふわふわと浮かぶ光の玉が彼の手のひらの上へ出現していた。ランタンの炎の赤っぽい色とは違う、朝日のように明るくて少しあたたかい白色の光だ。


「えっ、えっ……それ、魔法?」


 ロゥラエンが身を乗り出しすぎて窓から落ちそうになりながら言うと、魔術師は光を持っていない方の手を伸ばして少年の肩を支えながら「魔術」と言った。


「魔術……って、魔法とは違うの? その図形が何か関係ある?」

「君、なかなか賢いね。その通りだ、この魔法陣を描くのが」

「──身分証明!」


 アルゾがイライラした声で会話を遮り、魔術師はちょっと気分を害したような顔で振り返った。もう一人の騎士の方も怒っているのかなとロゥラエンはハラハラしながら皆を見比べたが、そっちの騎士はなぜか焦ったような顔でアルゾの腕を叩いている。


「おい、アルゾ……ローブの刺繍をよく見てみろ。月のお方だ。しかも灰色」

「はぅぇいロッ?」


 アルゾがすごく間抜けな感じの裏返った声を上げた。何だろうと視線を追うと、確かに魔術師の灰色のローブの縁には綺麗な三日月と蔓草の連続模様が刺繍されている。おしゃれな柄だな、とロゥラエンは思った。


「イレ=エルレンだ。月の塔の『灰』で、魔法名はアルラダ」


 魔術師が言いながら、服の下から首飾りのようなものを引っ張り出した。その途端に騎士達が片膝をついて胸に手を当てたので、ロゥラエンはびっくりして三人をきょろきょろと順番に見た。


「大変な失礼をいたしました、アルラダ様!」

 アルゾが突然号令が何かのようにハキハキと言って、魔術師が少し困った顔になる。


「えっ、ちょっと君達、立ちなさい……灰色ってそこまで敬われるような立場じゃないでしょう。膝が濡れているよ」

「いえ! まさか『白』候補にして賢者様の共同研究者様でいらっしゃったとは! 貴殿のご紹介をいただけるとは、ロゥラエンはなんと幸運な少年でしょう!」


 急にぺこぺこし出した騎士達が何に感銘を受けているのかはよくわからなかったが、何にせよロゥラエンからすると彼らはすごく馬鹿みたいだった。名前とか立場とかそういうものの前に、彼らはもっと凄いものを見たと思う。魔術師も同じことを考えたのか、彼はちょっと白けたような顔で肩を竦めた。手のひらの上の光が、それに合わせてゆらっと揺れる。そんな様子を見て、ロゥラエンは自分の心にむくむくとひとつの夢が膨らみ出すのを感じた。


「まあ……信用してもらえたならそれでいいか。ええと、ロゥラエン? 引き出しの学者じゃなくてね──」

「ひきだしじゃなくて」

「ん?」


 思わず彼の言葉を遮ってしまったが、魔術師がそれにちっとも嫌そうな顔をしなかったの見て、ロゥラエンは勇気を出して望みの続きを口にした。思い立ってからあまりにもすぐの行動だったが、今言っておかないと永遠に次のチャンスは巡ってこないと思ったのだ。


「ひきだしの学者じゃなくて──僕、あなたに弟子入りしたい!」





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