第3話 昼休みの女王
僕、高井戸和真が解柔院薫子先輩と初めて出会ったのは、高校の入学式から数日たった、晴れた日のことだ。
私立の名門である誠心学院高校には、築二十年になるというえらく立派な図書館がある。
午前の授業が終わり、購買部で総菜パンを買って腹に詰めこんだあと。僕は残り四十分ほどの昼休みを心静かに過ごす場所を探して、赤レンガ風に仕立てられた壁面が目を引くその建物に入り込んだ。
地方からいささか背伸びをして出てきた僕は、東京の物価だとか微妙に通じない言葉とか、いくつかの些細な悩みを抱えていて、それを整理するためにしばらく人目を避けて一人になりたかった。
春の日差しを浴びて芝生が鮮やかな緑色に輝く、小さな中庭がガラス戸の向こうにあった。そこには、芝生に腰を下ろして一心に何かを読みふける、髪の長い女子生徒がいた。
その人を見た瞬間。不思議なことに数日間抱えていた悩みや、不慣れな生活からくるストレスがどこかへ消え失せていた。
(うっわあ……きれいな人だなあ……)
きれい、というのにもいろいろあるが、その女子生徒は髪だけにとどまらず、やたらと豊かな毛髪が印象的な人だった。
眉は描いたよりも黒々と見事な曲線を描き、まぶたからはまつげエクステの力を借りるまでもなく、バキバキのまつげが櫛の歯のように並んで延びていた。それはやや薄い色をした瞳の上に、夢見るような繊細な影を落としていた。
女子の平均をはるかに超える長身、ゆったりと自信ありげな肩幅。引き締まった腰からスラリと延びた二本の脚――普通の男子ならむしろ敬遠しそうな華やかな容姿。
一目ぼれというものが実在するのだと、僕はそのとき初めて知った。
襟章の色が違うから、その人は上級生であるらしい。だが、奇妙なことに胸ポケットのあたりにピンかクリップで留めているはずの名札がない。厳密に言えば校則違反だったが、指摘する気にはなれなかった。彼女にはなにやら侵しがたい、女王のような気品と独特の雰囲気があった。
僕はその美貌をせめてまぶたに焼き付け、いたずらを見つかった子供のように図書館を離れた。
――二年か三年だと思うけど、背が高くて髪の毛の多い、きれいな人いますよね。誰か知ってる人いません?
部活動や押し付けられた委員の仕事ついでに、だれかれ構わず情報を求めて尋ねまわる。多分、数日を待たずに本人の耳にも僕のうわさが伝わったに違いない。
彼女の名はすぐに知れた。当然のごとく、校内で知らない者のない存在だった。解柔院薫子――生物部に所属の、本校始まって以来とうたわれる才女だ。政財界にも影響力を持つ旧華族にして資産家、解柔院家の長女であるという。
高嶺の花という概念が人の形を取ったような彼女のデータを知っても、僕は何の気後れも感じはしなかった。
関係あるか、そんなもの。僕はあの人に惹かれているのだ。
入ったばかりの美術部を辞して生物部に乗り換えた。掛け持ちもできなくはないのだが、そんな選択肢は頭に浮かばなかった。
放課後の理科棟で顔を合わせると、彼女は不思議そうな顔で僕の方を見つめ、やがて何かに納得したようにうなずくと、ふっと頬を緩めて笑った。その顔がまた、何とも言えず美しかった。
「高井戸和真くん――だったかな。私のことをあちこちで訊いて回っていたそうだね」
彼女が初めて、直接話しかけてくれた時の感激といったら。大柄な体に似合ってややハスキーな深いアルトが耳をくすぐった。ああ、この人はこんな声で、こんな風にしゃべるのだ。口調もあまり女の子らしくなく、苦しいというか軍人か何かのようなものだったが、不思議と彼女に合っている気がした。
「は、はい。その……あんまりきれいな人だったので、知らないままでいるのが我慢できなくて」
「ずいぶん率直なのだなあ。君のような人は初めてだよ。普通はみんな、私の姓を知っただけで口をつぐんで距離を取り出すのだ。たまりかねて名札を着けないようにしてみたが、まるで効果がなかった」
――ああ、それであの時も名札がなかったのか。
「君は違うらしいな。まあ、同じ部活ということでよろしく頼む」
「は、はい」
それからというもの、僕は状況が許す限り、忠犬のように彼女の行く先々に付き従った。実験器具を取ってくれと言われれば真っ先に手を上げて棚まで走ったし、昼休みは彼女を待ってチャイムが鳴るまで図書館の中庭ですごした。
彼女の図書館詣ではやや気まぐれに左右されるらしく、報われない日も多かったが。
ある日、幸運にも顔を合わせることができた芝生の上で、彼女はとうとう僕にこう切り出してきた。
「ふうむ。高井戸くん、君はその、随分と熱心に隠すそぶりもなく私に接近してくるのだね?」
先輩の頬が少しだけ赤い。こちらを見る目には、ありありと好奇の色が浮かんでいるようだった。
そりゃあね、あたりまえじゃないですかそんなの。僕はあの中庭以来、あなたのことが――
「バレバレだと思いますけど……僕は解柔院先輩のことが好きなんです。初めて見かけた時から、どうしようもなく惹きつけられて目が離せない。もっと先輩のことを知りたい。許される限り隣を歩いていたい――そんな気持ちです」
「……それは困った」
薫子先輩はため息をついた。
「あ、やっぱりその、ご、ご迷惑でしたか?」
「……いや。そうではないよ。実はこの一週間ずっと考えていた交際申し込みのメッセージが、ようやく完成したところだったのだ。こちらから告白しようと思ってね。だがどうやら無駄になってしまったようだな」
「え、それってつまり……じゃあ」
「ああ。私も君のことを好ましく思っている。学校生活の中で君とともに過ごせる時間を、愛おしく感じている。私のことを好きだと言ってくれるのなら、とても嬉しい」
「ぃやったああああ!!」
かくして。それまでよりも打ち解けて会話を交わしたあと、僕は晴れて薫子先輩と付き合うことになった。
周囲はしきりに不釣り合いだなどと言い立てて、僕を思いとどまらせようとしたが、僕は耳を貸さなかった。そもそも、不釣り合いであることは僕だって知っている。
ましてや高校の三年間などあっという間。この恋はきっと、幻のような仮初めの関係で終るに違いない。
だが、それでも――少なくとも彼女が卒業するまでの一年と数か月、僕たちは僕たちの歴史を作ることができる。そのはずだった。
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