【文庫版】培養カプセルを抜けだしたら、出迎えてくれたのは僕を溺愛する先輩だった【期間限定先行試し読み】

冴吹稔

第1話 後輩めざめる

 闇の中に、金色の泡がぽこりと浮かんだような。そんな感じがして目が覚めた。

 

(あれ……なんだこれ。水の中?)

 全身が何か温かい液体に浸かっている。風呂ふろに入っていて寝落ちでもしたんだろうか、どうもよく思い出せない。

(溺れるとこだったかな……危ない危ない……上がるか)

水面へ顔を出そうと体を起こしてみるが、うまくいかなかった。何だか狭くて自由がきかないし、体に力が入らない。


なぜか息苦しさは感じなかった。しばらくもぞもぞと身をよじる。右腕を前へ突き出すと、まだ伸ばしきらないうちに固いものが手に当たった。

僕の体の前すぐ近くに何か透明な壁があるようだ。その向こうには液体越しではっきりしないが、白い壁と点滅するあかりがあるようだった。

(風呂じゃ、ない……?)

ああ、だいたい僕のいた男子寮にはシャワーしかなかったよな――ぽつんとそんなことだけ思い出した。頭がまだどうもぼんやりしている。

(『男子寮』って……どこのだ? いやそれより……)

 僕は、誰だっけ。

 まあいいや。ここは温かくて気持ちがいいし、べつに危険もないようだ。どうにもまだ眠くてしょうがない。

(うん……あと五分……)

 そんな感じで二度寝を決め込もうとしかけた、その時。


〈たカぃどぉくん……おォキたのカ?〉

 液体をつたわって、そんな声が耳に響いた。耳の中でゴボゴボ余計な音がして、よく聞き取れない。ああ、でも確かそんな名前で呼ばれてた気がするな――

 そうだ、思い出した。僕の名前は高井戸たかいど……高井戸和真たかいどかずまだ。

 今の声にも、聞き覚えがある。ややハスキーで、それでいて深みのあるアルトの声質。

 ああ、そうだ。先輩の声じゃないか、これは……?

(先輩……そうだ。薫子かおるこ先輩……)

「かお――」ゴボッ。

 声を出そうとして、喉の奥で液体が空しく動いた。

(……あれ? 何でこれで窒息しないんだ、僕は……?)


 その時、体の周囲で液体が動き出した。どこかへ排出されていくのか、体に感じていた浮力と温かさがなくなっていく。なんとなくくるまった布団をはがされる様子を連想して、思わずクスクスと笑った――つもりが、ゴボゴボとまた喉が音を立てた。


〈……目覚めたのか? そうなのだな? 慌てるな、今出してやるから……排水もすぐ終わる……〉

 今度ははっきりと、先輩の声がした。

 頭がやけに重い。何かヘルメットのような物がかぶせられている。手を伸ばして触ると、その表面には電線か何かが無数にくっついていた。手首やほかの場所にも、何か細い管がいくつも挿しこまれているようだ。

(……なんだ、これ)

急に喉の辺りがむず痒くなって、僕は肺の中にあった液体を大量に吐き出した。

「げ、げほっ……」

 代わりに流れ込む乾いた空気。

 目の前の透明な壁が動き出す。足元の方へスイングする形でそれが開放され、まだ濡れたままの肌に空気が触れた――寒い。おまけに少し頭が痛くなってきた。自分の身に起きていることが整理できない。

 とにかくここから出よう――僕は頭に乗ったヘルメットを外そうとした。そのはずみで体につながった管のいくつかが抜け落ち、その部分から少し血が垂れた。


〈あああ、待て! そんなに焦るんじゃない。大丈夫だ、今そっちへ行くから無理に動かずに……〉

また心配そうな声がする。そんなこと言われても、このままじゃどうにも落ち着かない。

思うようにならない体を懸命に動かして、僕はその奇妙なれ物から転がり出た。まるで力が入らない指で、必死に容れ物の縁にしがみつき、体重を支える。

(……こんなに痩せていたっけか、僕は?)

 硬めの靴底が床をたたく、けたたましい足音が遠くから近づいて来た。防火シャッターを開閉するときに聞こえるような、金属の軋む重い音が響いて――

「……高井戸くん!!」

 先ほどと同じ声。顔を上げると、前方の壁が開いて人影がそこに現れたところだった。肩を激しく上下させ、全力疾走してきたように荒い息をついている。

「大丈夫か? どこも痛むところや動かないところはないか? ……私が分かるか?」 


 そう言いながら近づいてくる人の姿には、見覚えがあると思った。

「か……薫子先輩……ですよね……?」

 解柔院薫子げにゅういんかおるこ先輩。一学年上の、交際を初めて二カ月ちょっとになる僕の「彼女」――

「ああ……成功だ。ようやく成功した……! 私が分かるんだな!」

彼女の見開かれたまぶたから、大粒の涙がボロボロとあふれ出した。


「ええ……分かります。でも、なぜそんな? 僕、どうかしたんですか?」

「ん!? 記憶がないのか……? まさか失敗……い、いやしかし、処分するわけには……」

 ……処分ってなんだ。

先輩の様子にひどく不穏なものを感じて、僕はあわてて言い添えた。

「大丈夫、大丈夫ですよ……今は頭がぼんやりしてるけど、多分思い出します」

「そうか、うむ、そうだな……!」

 先輩が、しきりにうなずいて目元をこすった。

「ずっとこの時を待っていた……追い求めてきた。これまで消えた三十二人の私も、これで無駄ではなくなった」

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