奇書たる人

1 読み直し

 季節に似合わぬ柔らかな風が、帆沼の厚い前髪を揺らす。そんな穏やかな日差しを避けるようにして、彼はうつむいていた。


「……檜山サンは、俺を通報しないんですか?」

「するよ。するけど、その前に君と話す時間ぐらいは設けさせてもらう」

「……」

「結構、ここまでこぎつけるのには苦労したからね」


 檜山は苦笑すると、カウンターに置かれた和綴じの本の表紙を撫でた。その優しい仕草に、帆沼は複雑なため息をつく。


「やはり、俺を逃がしたのはあなたでしたか」

「おや、気づいてた?」

「違和感はありました。あの時の俺は足を怪我していましたし、警察側には施設内部を知る檜山サンがいた。その状況で逃げおおせるなんて、誰かが――決定的な情報を持つ人が、庇ってくれていたとしか思えません」

「鋭いなー……。まあとりあえず座りなよ。立ちっぱなしは疲れるだろ」


 檜山の手招きに頷き、帆沼は現世堂へと足を踏み入れた。それからまっすぐカウンターへと向かうと、そこに置かれた木製の丸椅子に腰を下ろす。


「だいぶ精神的に落ち着いてるようだね。いいことだ」

「……」

「これも、慎太郎君のおかげかな」


 不意をついて出された名前に、帆沼はビクリと肩を震わせた。けれど結局何も言わず、小さく首を振る。

 一方檜山は、カウンターに肘をついたまま淡々と続けた。


「確かに、さっき帆沼君の言った通り、僕は事前調査で知り得た情報をあえて警察に秘匿した。君と君の仲間がどの隠し通路を使っているか――また、逃亡の際にどこを使うかを」

「どうして……そんなことをしたんです?」

「それはひとえに君を現世堂へと招き……君と僕の夢を、終わらせる為だ」


 その言葉に一瞬帆沼は身を引く。しかし檜山は彼の腕を掴み、正面に向き直らせた。


「逃げるな、帆沼呉一。この場所に来たからには、僕は君を本の世界から連れ戻さねばならない」

「世界、から……」

「ここは古書店・現世堂。本という名の夢へ赴き、また現実へと帰着させる場所だ」

「……」

「君はずっと自分で作った世界に引きこもり、夢心地のままで生きてきた。たった一度の人生なのだから、それを頭ごなしに否定するつもりは無い。けれど」


 檜山は、大き過ぎる眼鏡の向こうからまっすぐに帆沼を見つめていた。

 

「君は人を害した。のみならず、他人の手を取って自分の世界へと誘い、殺めさせた。……もう、見過ごせない。帆沼君だけの世界だったものは他者を飲み込み、脅威へと陥れるものへ変質した。収束されなければ、歪な世界はまた同じことを繰り返す」

「でも……俺は、まもなく逮捕されます。裁判にかけられようものなら、死罪になるかもしれません。なのに、今更そんなことをする意味はあるんですか?」

「ある」


 檜山の断言に、帆沼は目を見開いた。


「当たり前だろ。何故教誨師が死刑囚を訪れるか考えたことはあるか? 罪を犯した人が聖書を読み耽る理由は? 罪を理解しないまま犠牲者を踏みにじる加害者と、罪を知り悔い償おうとする加害者。被害者遺族が望むのは、果たしてどちらの姿だろうか」

「……」

「神に祈れば許されるのは、その者が罪を深さを知っているからだ。罪のために苦しんでいるからだ。故に、罪を知らず犠牲者を嘲笑うような者は、永遠に救われることはない」


 一気に言った檜山を、帆沼はしばらくぽかんと見ていた。だけどやがて肩を落とし、長く息を吐く。


「……えらく遠回しですが、つまりあれですか。檜山サンは、俺に犯した罪の深さを分からせたいと考えてるんですね」

「まあ、そうだね」

「いつから現世堂は懺悔室になったんです」

「聖書は読んだけど、僕はクリスチャンではないよ。……それに」


 檜山は、寂しそうに目を細めた。


「君も苦しかったから、ここに来たんだろう」

「……」


 沈黙が落ちる。埃が積もる音すら聞こえそうな静けさ。しかしそれは重苦しいものではなく、いっそある種の神聖さを伴ったものだった。


「……慎太郎を、地下で監禁してた時。あの子に、人を殺したら償わなければならないと言われました」


 静寂のベールを持ち上げるようにして、帆沼が口を開く。


「人を殺したら取り返しがつかない。だから自分は、殺すのも殺されるのも嫌だと。……あの時、それを聞いた俺は、自分と異なる意見に激昂して慎太郎に掴みかかりました」

「ほう?」


 檜山に殺気がみなぎる。慌てて遮り、帆沼は続けた。


「でも、その時に思ったんです。もしかして俺は、慎太郎とは違う人間なんじゃないかって」

「……うん」

「でも、認められなかった。……怖かったんです。俺の中では、慎太郎と俺は同一の存在のはずだったから」

「……」

「実際に俺は、今でも自分がそれほど深い罪を犯したとは思っていません。殺された人は因果応報だし、俺はただ助けを求めていた人に手を差し伸べただけだと思っています。……でも、慎太郎はそんな俺の考えを否定したんです」


 「なのに」と帆沼の声が詰まる。しばらく何かを堪えていたが、それでも彼は言葉を振り絞った。


「慎太郎は……こんな俺を、友達だとも言いました。俺といるのが楽しい、これからも側にいたいと……」

「……」

「だったら……俺も、慎太郎のいる場所に行きたい」


 帆沼は、顔を上げた。


「だから……お願いします、檜山サン」


 揺れた前髪から、ちらりとひどい傷跡が見える。けれど反対側の目には、今までに無い真摯な色が宿っていた。


「俺は、この夢から覚めたい。慎太郎が俺の言葉を理解してくれようとしたように、俺もあの子の言葉を理解したい。今いる世界が歪なら、ここで終わりにさせたいんです」

「……」

「でき、ますか……?」

「ああ」


 檜山が、帆沼の手を取る。帆沼は驚いたが、されるがまま身の一部を預けた。


「できるよ」


 そして二人の手は、和綴じの本の上に置かれた。


「といっても、僕にできるのは本を読み解くことぐらいだ。故に今からすることは、帆沼呉一という物語の“読み直し”になる」

「読み直し……?」

「客観的な視点で君の半生を追うんだよ。君は、あまりにも長く自分の世界にいすぎた。だからもし強引に現実とのズレを修正すれば、またパニックに陥る可能性がある。だけど……これを第三者の物語として見なすことができれば、君は自分の世界を顧みることができるはずだ」

「……」

「読むのは得意だろ? 君は小説家なんだから」


 帆沼は檜山を見つめている。檜山も、彼を見ていた。


「僕は、君の世界の始まりに立ち会った人間だ。故にこそ、僕は君と共に一から帆沼呉一の世界を読み直し、ここ現世堂へと連れ戻してみせる」

「……」

「終わらせよう、帆沼君。あの日から始まり、途切れることなく続いてきた僕らの夢を」


 帆沼の手は檜山に導かれ、和綴じの本を開いていた。

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