3 製本

「え? 小説を書いてみたの?」

「はい」


 あの日から数日後。俺は、原稿用紙の束を手に現世堂を訪れていた。


「兄をモデルにしてみたんです。檜山サンが書いてみるといいって言ってくれたから……」

「そんなこと言ったっけな……」

「とにかく読んでみてください」


 ずいと自作小説を押し付ける。檜山サンは最初こそ戸惑っていたものの、一つ頷くと受け取ってくれた。

 パラパラとめくる。その風で、彼の白い前髪が少し浮いた。


「……なるほど。アンデルセン童話から着想を得つつ、帆沼君の得意な分野を入れ込んだのか」

「はい。俺、ヒューマンドラマ系やホラー系が好きですから。そうした方が書きやすいと思って」

「そうか」


 そのまま、檜山サンは黙ってしまった。本の世界に入り込んだのだ。

 嬉しかった。俺の作った物語が、檜山サンの視界と脳をいっぱいに独占している。その事実は、俺の胸をどうしようもないぐらい弾ませた。


「……うん、面白いよ」


 けれど、原稿用紙には限りがある。檜山サンと小説の蜜月は終わり、彼は顔を上げた。


「面白い。荒削りだけど、構成や表現には目を見張るものがある。何より……情念というべきか。迫ってくるような凄まじさがあった」

「あっ……ありがとうございます!」

「こちらこそ。君のお陰で思わぬいいものが読めたよ」


 ……当然だ。だって、この小説はあなたのことを想って書かれたものなのだから。

 檜山サンはニコニコとしている。火傷痕のせいでその笑顔は引き攣っているが、俺にはとても愛しいものに見えた。

 けれど、何故か檜山サンは原稿を眺めたまま返してくれない。不思議に思っていると、彼はふいに立ち上がった。


「ねぇ帆沼君。この原稿って、どこか出版社に送ったり手直ししたりする予定はある?」

「え? い、いや……」

「そっか。だったら、君さえ良ければ表紙をつけたいと思うんだけど、いい?」

「表紙?」

「うん。それだと保存もしやすいし、何より見た目が良くなるだろ?」

「……」


 ポカンとする俺に、檜山サンはイタズラっぽく微笑む。奥の棚まで歩いていき、いくつか厚紙を取り出してきた。


「どんな装丁が好みとかある?」

「えっと……」

「特に無いなら、この色合いとかどうだろう。君の小説の雰囲気によく合うと思うけど」

「じゃあ、それで……」

「分かった」


 檜山サンは、トントンと原稿の端を揃えてから作業に取り掛かり始めた。その手慣れた仕草に、俺は目を瞬かせる。


「やったことあるんですか?」

「何度か。僕の趣味の一つだからね」

「製本がですか」

「そうそう」

「なら他にも作ってるんです?」

「うん。例えば、君が読んだアンデルセン童話集なんかもそうだよ」


 あの本も?

 それを聞いて俺は急いで鞄を引き寄せ取り出した。あれ以来常に持ち歩くようになっていた、美しい表紙の本を。

 手に持って、眺めてみる。けれどどこからどう見ても、普通の古書にしか見えなかった。


「……すごい、全然分からなかった。ならこの人魚の絵も檜山サンが描いたんですか?」

「それは別の人が描いたものだよ。というか、元々その本は表紙と背表紙しか残ってなくてね。丸々中身が抜けてしまってる状態で骨董品屋で売られてたんだけど、あんまり絵が美しかったから、買い取って本に直してみたんだ」

「へぇ……。じゃあ、中身は適当に既存のものを印刷したんですか」

「いや、それは僕が翻訳した」


 驚きのあまり、本を取り落とすところだった。見ると、檜山サンは照れ臭そうに白髪頭を掻いている。


「デンマーク語に詳しいわけじゃないから、辞書片手にだけどね。でもアンデルセン童話が好きだから、意地で訳してみた」

「……違和感無かったです」

「本当? そう言ってもらえると嬉しいな。一応売り物にもしてたし」

「五百円は安過ぎません?」

「絵は百円で買い取ったものだったから、利益にはなってる」

「翻訳の手間賃とか……」

「趣味の範囲だし……」


 呑気な言葉に苦い顔をする。同人誌でももっとちゃんとした値をつけるだろう。この人、だいぶ人がいいな。

 ……だけど、檜山サンによって作られた本が。彼の目に止まり、言葉すら添えられた無名の画家の絵が。俺には、無性に羨ましくてならなかった。


「……俺も英語とかで本を書いたら、檜山サンが翻訳をつけてくれますかね」

「別にいいけど、だったら最初から日本語で書いてくれよ」

「俺も檜山サンと本を作りたいです。檜山サン、絵とか描けませんか?」

「幼稚園児の描くチューリップレベルでいいなら……」

「それでいいんで」

「良くはないだろ」


 本当にいいのに。俺の書いたものと檜山サンの手がけたものが混ざる。それは、とても素晴らしいことのように思えた。


「できた」


 そして数十分後、檜山サンは明るい声で俺を呼んだ。彼の近くまで行ってみると、カウンターの上に薄灰色のこじんまりとした冊子が出来上がっていた。

 ……本当に、本になっている。俺は思わずそれを手にして、ざらざらとした表紙を撫でてみた。端は丁寧に紐で綴じられ、まるで美しい模様のようになっていて、つい見入ってしまった。


「和綴じにしてみたんだ。どうだろ」

「……思ってたより、いいですね」

「それなら良かった」

「……」


 心臓が早鐘のように鳴っている。幸せな高揚感に今にも叫び出しそうだ。

 ――俺が檜山サンに向けた小説を、彼は本にして返してくれた。それが俺には、愛で一つに結ばれた恋人同士のごとく思えたのだ。

 二つがあって、初めて完成するなんて。なんというロマンチックな愛情表現だろう。

 だから俺は、思い切って切り出してみたのである。


「……ねぇ、檜山サン。この本の最後に出てくるのって、誰のことかわかりました?」

「人? 人なんていたっけ」

「――主人公は自死の寸前、窓越しに自分を見ていたかの者に語りかけました。天使のように真っ白な毛並みで、優しい目をした……」

「ああ、あの野良猫のことか」

「はい」

「野良猫は、この世に弟を残していく主人公の懺悔を聞き届け、失意の底にある弟の元へ現れた。そして愛情込めてその身をすり寄せ、弟の心の傷が癒えてもなお、ずっとそばにいた……」

「ふふ、よく覚えてくださっていますね」


 言葉を続ける檜山サンに、ぐっと顔を近づける。大きな眼鏡の向こうにある目が、俺を捉えて見開かれた。


「……え? どうしたの、帆沼君?」

「もう言わなくても分かるでしょう。これ、檜山サンのことなんですよ」

「……僕、の?」

「ええ」


 檜山サンは、うっとりと俺を見つめていた。……ああ、好きな目だ。俺だけを視界に収めて、俺だけのことだけを考えてくれている目。

 だからこそ、初めて彼に紡ぐ愛の言葉は俺からがいいと思ったのだ。何か喋ろうとした彼の先を読んであげて、俺は口を開いた。


「……分かってます。俺だって、あなたからの愛情にはちゃんと気づいていました。ずっと曖昧な態度ばかりで、不安にさせたと思います」

「待て、帆沼君。君は何を言ってるんだ?」

「何って、」


 本を置く。代わりに、檜山サンの指に自分の指を絡める。

 息のかかるほど間近へ迫り、もう一つささやいた。


「俺も、本気であなたを愛してるって言ってるんです」


 そして初めて、檜山サンにキスをした。

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