19 嘘なもんか

 ――確かにオレは、ナイフを振り上げた帆沼さんに死を覚悟した。だが、痛みが襲いくる前に。心臓が死に切り裂かれる前に。

 荒々しい絶叫と共に、部屋と廊下を隔てていた鉄製のドアがぶち壊されたのだ。


「……嘘」


 ナイフの代わりに落ちたのは、呆然とした帆沼さんの声。オレは目を開けて、自分を取り巻く世界を確認した。

 オレの上にいる帆沼さんは、涙に濡れた顔を引き攣らせてある一点を見つめている。その視線を追った先にあったのは、ベコベコに凹んで床に転がるドア。


「……嘘なもんか、帆沼君」


 そして、そのドアを踏みつけバール片手に悠然と立っていたのは――。


「たまには見えるものぐらい、信じてくれたっていいだろ」


 ――眼鏡は割れ、息は荒くし。ボロボロの身になった、檜山さんだった。


「檜山さん……!」


 オレの声に、刹那彼の目がこちらを捉える。檜山さんは何も答えなかったけど、オレの姿に少し微笑んだようだった。


「とりあえず、君の用意した駒は一通り無力化してきたよ」


 そう言って彼は、拳で口元を拭って帆沼さんに向き直る。……口の中を切ったのだろうか。頬には、血の跡が走っていた。


「少なくとも、今日中の手術は諦めた方がいいんじゃないかな。もうここに医師が来ることはない」

「は……? そんなバカなことがあるわけ……」

「そりゃ全員に武力行使するような真似は、僕だってしてないよ」


 たじろぐ帆沼さんに、檜山さんは軽くバールで自分の肩を叩きながら言う。


「だけど、僕を閉じ込める為に使おうとした部屋。それを外側に鍵のついた部屋にしたのはまずかったね。隙をついて逃げさえすれば、一瞬で中にいる人たちを封じ込めてしまえる」

「……!」

「で、僕の方は優しい誰かと違って丸腰では来てないからさ。お医者様方の前でコレをぶん回して少し乱暴な言葉を使わせてもらったら、すぐに降伏してくれたよ。彼らには今、別の部屋で待機してもらってる」


 ……今事も無げに言ったけど、この人どえらいことしてきてるな?

 帆沼さんも同じことを思っているのだろう。すっかり言葉を失くしてしまっていた。


「そして、つい先ほど警察から連絡が来た。どうやら君の腹心は、無事に確保されたらしい」


 檜山さんが一歩を踏み出す。帆沼さんの体が、ビクッと震えた。


「さぁ、これで本当にここに警察が来るのは時間の問題になったぞ」

「……」

「君は、これからどうするつもりだ?」


 檜山さんの問いに、帆沼さんはしばらく答えなかった。ただ、まじろぎもせずに彼を見つめるばかりで。


「……俺は」


 けれど、その視線がふいにオレに向けられる。前髪の隙間から見えた目は、どこか寂しげな色をしていた。

 しかしそう思ったのも束の間、またオレの胸に強く爪が食い込む。帆沼さんは、勢いよくナイフを振りかぶっていた。


「慎太郎君!」


 檜山さんの声が飛ぶ。同時にバールがオレの目の前で振り抜かれたが、そこに帆沼さんはもういなかった。彼は、向かってきた檜山さんと入れ替わる形でベッドを降りていたのである。

 オレへの凶行は、フェイクだったのだ。


「ああクソッ、やられた!」


 悪態をつく檜山さんだが、その頃にはもう帆沼さんはドアの近くまで逃げていた。それを追おうとした檜山さんだったが、オレに目をやり足を止める。


「帆沼君!」


 代わりに檜山さんは、帆沼さんの背中に向かって叫んだ。――何故か、丁寧に綴じられた手製の本を掲げて。


「待ってる! 今度は君が会いに来い!!」


 その言葉に、帆沼さんは一度だけ檜山さんを振り返った。……表情は、よく見えなかった。けれど帆沼さんは立ち止まることなく、そのまま足を引きずり部屋を出て行ってしまった。


「……」


 いきなり部屋が静かになる。聞こえるのは、檜山さんの荒い息遣いと低い機械音。それから軽い金属音がして、彼がバールを投げ捨てたのだと分かった。

 大きなため息の後、彼が本をしまいながらこちらへと向かってくる。オレは急いで起き上がった。


「ひ、檜山さん! オレのことはいいですので、帆沼さんを……!」

「いや、今は追っても意味が無い。それに……」


 檜山さんはベッドに座ると、鞄からハンカチを取り出した。


「僕にとっては、君の方が大事だ」

「あ……」

「手を出して。まずは止血をしなくちゃいけない」


 怪我をした方の手を取られ、入念に確認される。いつものほほんとした彼からは想像がつかない真剣な顔に、ついドキドキとする。が、次の瞬間思いっきりハンカチで傷口を押さえられてそれどころじゃなくなった。


「んぎゃー!」

「良かった、あまり傷は深くなさそうだ。これならすぐ血は止まるよ」

「ふぎぎぎぎぎ」

「しかし慎太郎君を刺すとはなぁ。やっぱ一発ぐらい、バール当てときゃ良かったか」

「んぐぐぐぐぐぐ」

「ともあれ、今は頑張れ慎太郎君」


 そう言われては我慢するしかないので、空いた方の手で拳を握ってぷるぷると耐える。すると、ふと檜山さんがそんなオレの手を持ち上げた。


「こっちに」


 そのまま、檜山さんの背中に誘導される。……抱きついていいってことなのだろうか。彼の顔を見ると、「うん」と頷かれた。


「人と触れ合うことにはリラックス効果があるとされている。なんでも、鎮痛作用のある脳内物質が出るとか」

「そ、そうなんですか」

「ああ。君さえ嫌じゃなかったら、しばらくこうしてるといい」

「……ふぇ」

「痛いのは我慢しなくていいよ。爪とか立てても、僕は平気だから」

「! そんなこと」


 だが答える間にまた圧迫止血を再開され、思わず檜山さんに搔きついてしまう。そうしたら、檜山さんの眉間に少し皺が寄った。……どこか強く引っ掻いてしまったのかもしれない。

 慌てて離れようとする。けれど、数センチも離れない内に腰を掴んで引き寄せられた。


「だから、行くなって」


 困ったような、でも軽い命令口調の声が耳に落ちる。


「……頼むから、もう僕から離れるな」


 その一言に、硬直する。だけど檜山さんには気づかれなかったと見え、抱え直され止血を続けられた。

 しばらく、二人とも黙っていた。でも、オレには檜山さんの息遣いが聞こえていて、というか自分の心臓の音がうるさすぎて、怪我した部分がドクドクと脈を打っていて。オレはもう、かろうじて呼吸を続けるのが精一杯だった。

 憧れの人。大好きな人。誰よりドキドキする人。――ずっと一緒にいたい人。

 そんな彼が今、オレに触れてくれている。あの時のように抱きしめてくれている。その事実が、オレの胸をいっぱいに満たしていた。

 ……だけど。


(……ああ、血の匂いがする)


 ライトで照らされた彼の服は、血や埃で汚れていた。見えないだけで、服の中はひどい怪我をしているのかもしれない。本当はオレの手当てより、自分の体こそ優先すべきなんじゃないか。


「ごめん、痛いだろ。もう少しだけ頑張ってね」


 なのに、この人はまだ優しいのだ。オレを助けに来なきゃ、こんな怪我をしなくて済んだはずなのに。せめてオレを置いていけば、帆沼さんを捕まえられたかもしれないのに。


「……慎太郎君?」


 返事をしたいのに、喉に何かが詰まったようになって言葉が出てこない。それどころか、急速に視界がぼやけて、檜山さんの姿が滲んでいって……。


「えぅっ、ええぇー……うぇぁぇぇー……!」


 気づけばオレは、ぽろぽろと涙をこぼしていた。


「うぇっ、えっ、えぐっ……! ひ、ひやまっ、さぁぁん……!」

「えええっ!? あっ、痛かった!? ごめん、でももうちょっと我慢して!」

「うぇぇぇー……!」

「ほんとあと少しだから! ね!?」


 心配した檜山さんが、顔を覗き込んでくれようとする。でもオレはもう我慢できなくて、背中に回した手に力を込め、ぐいと横に倒れた。


「わっ!」


 バランスを崩した檜山さんの体が、オレの上に重なる。慌てて起きあがろうとする彼を、手の痛みも構わず抱き寄せる。彼の胸に顔を埋め、オレは大声を上げて泣いていた。

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