5 咎人の哲学

 鵜路恒男さんは、長く勤めていた会社をリストラされた。それから再就職先を探している最中に、お母さんが倒れたという。

 お母さんは一命を取り留めたが、体に障害が残ってしまった。それでも鵜路さんは、弱音ひとつ吐く事なくお母さんを介護していたらしい。


「ところで、鵜路さんのお母さんは古い友人である古書店店主の粟野敬之さんに多額のお金を貸していてね」


 帆沼さんは言う。


「保険金で賄えなくなり、生活費に困窮し始めた頃。困った鵜路さんは、粟野さんに借金を返してもらうよう頼みに行った」

「全額返してもらうに越したことはないけれど、向こうも生活があるだろう。そう思った彼は、まず少額返してもらうだけでいいと伝えた。しかし返ってきたのは、思わぬ言葉だった」


「曰く、どこに証拠があるのだと」


「人の良かった鵜路さんのお母さんは、借用書を作っていなかった。それだけじゃない。逆に粟野さんは、鵜路さんに金を貸してやろうかと高笑いしたそうだ。鵜路さんは胃の腑が千切れそうなほどに怒り、けれど借用書が無いのでは何も言い返せず、その場を後にした」

「……明日を生きる金も無い。母が良くなる見込みも無い。しかもこの世界には、あの憎き粟野敬之が生きている。全てに絶望していた彼は、死を選ぼうとしていた」


 だけど、帆沼さんはそんな彼を説得した。そして、VICTIMSを差し出したのだ。


「彼の罪悪感が薄くなるよう、予め俺の血で巻末に架空の犠牲者の名前を連ねてね。選ぶのは君だけど、苦しみ抜いた君一人が死ぬのと、外道の誰か一人が死ぬのと。どちらに理不尽の天秤が傾くべきか、考えてごらんと伝えたよ」





 麩美虎子さんは、愛する人に裏切られてしまった。


「でも、実際の話はもっと複雑だった。何せ相手である堂尾洋さんは、麩美さんの取引相手でもあるアパレル会社の社長だったから。そしてかつて麩美さんが奥さんに直談判していたことなどもあり、彼は次第に彼女を疎ましく思うようになっていた」


 関係の終わりは、契約の終わり。麩美さんも、それは薄々勘づいていたようだ。


「そして堂尾洋さんの奥さんも、その界隈では有名なデザイナーでさ。当然この不祥事が流出しないわけは無く、麩美さんは愛する人だけでなくデザイナーとしての人生まで奪われようとしていた」


 ――破滅しかない恋愛なら、最初から近づかない方がいい。けれどそんな手垢のついた理屈など、燃え上がった感情を前にどれほどの抑止力になるだろう。


「麩美さんは、泣いていたよ。自分以外の全ての人がズル賢く立ち回っていて、それができない自分が歯痒くてたまらないと言っていた」

「この世界で息をし続けることは、純粋過ぎる彼女にとってあまりに難しかった。周りの人は易々と進んでいくのに、自分の足元はまるでぬかるみのよう。そしてその泥は、段々嵩を増して彼女の体を這い上り、とうとう喉元にまで達してしまった。……もし、あともう一押しされていたら。そうすれば、きっと麩美さんは自ら呼吸をやめていただろう」


 ――だから自分は、彼女に手を差し伸べたのだと。帆沼さんはそう言った。


「彼女がせめて、この世界でもう少しだけ息ができるように。歩きやすいように。報復という行為は因果応報という大きな流れのうちの一つなのだと、麩美さんには伝えたよ」





 丹波さんの部下でもある、警察官の戸田東介さん。彼は、ずっと自分のことを否定しながら生きてきた人だという。


「彼のご両親が、それはそれは身勝手な酷い人でね。戸田さんは愛情の無い怒鳴り声と暴力を受けて育ち、何一つ自分の価値を獲得できないまま警察官になったんだ」

「親からの愛情を満足に受けられない子は、大いにグレて他に愛情を求めると思われがちだけどね。それと同じぐらいの数、酷く自尊心の低い静かな死にたがりの子ができあがると俺は思ってる」


 そして戸田さんは、後者の子だった。


「残酷なのは、それでも彼が生きていかねばならなかったことだ。だから、どうしようもなく生きにくい世界の中で、彼が絵や文字で作られた物語に逃げ込んだのは当然だとも言える」

「そこで戸田さんが見たのは、自分と同じ冴えない子が大いなる力を手に入れる世界。誰からも愛され、必要とされる世界。それはまさしく、彼が望んだ全てだった」

「――こんな物語の主人公になれたら、どんなにいいだろう。こんな苦しいだけの世界など捨てて、彼らのような刺激的な非日常を得られたら」

「……俺はその願いを叶えてあげた。彼を、物語の主人公にしてあげたんだよ」





「――ねぇ、どうだろうね、慎太郎。加害者は本当に強者だったのだろうか。被害者は本当に、憐れまれるべきただの弱者だったのだろうか」

「俺にはね、罪を犯さざるを得なかった人たちが、酷くこの世界で生きにくい人たちに見えたんだよ」

「哲学者ショーペンハウアーの言うように、生きることは苦悩そのものだ。嫉妬や欲望、病や老い。生きている限り、人は一切の苦しみから逃れられない」

「ならば、目に映るこの世界だけでも美しくしたいと願ったとして誰が責められる? 与えられた庭に猛毒を放つ花が咲いて、そのままにしておく人はいないだろう」

「……自分を殺すのも他人を殺すのも、数的観点からすると同じマイナス1だ。そしてそのマイナス1のコインをどこに置くかは、他でもない自分が決められる。他人に預けるんじゃない、自分で決められるんだよ」

「――そうして彼らは、コインを置いた」

「それが、自らの手を汚してでも生きていくことだった。こんなにも生きにくい世界で、彼らは勇敢にも自分が息をすることを選んだんだ」

「その行為を、決意を。慎太郎、お前は責められるのか?」





 そして帆沼さんの長い話が、終わった。床の上に置かれた二人分のうどんはとっくに冷めていて、伸びてしまっているだろう。けれどオレは、帆沼さんから目を逸らすことができないでいた。

 指先が震えている。怖いのか、怒っているのか、それとも別の感情か。自分でもわからない。

 ――そうして、呼吸をするのも躊躇われるような重い沈黙のあと。


「……オレは……」


 あえて大きく息を吸い、答えた。


「たとえ、どんな苦しい事情があろうとも……人を殺すことは、償わなければならない行為だと思います」

「……なんで?」

「だって」


 咄嗟に、引き止めるように帆沼さんの手を掴む。


「命は、取り返しがつきません、から……」

「……」

「やり直せない。代替ができない。殺された命も、殺した人の過去も。……確かにオレはすごく恵まれた人間で、今まで人を殺さない生きられないと思ったことはありません。だから、鵜路さんの気持ちも麩美さんの気持ちも、どれだけ想像した所で絶対に及ばない。……でも、失われた命は絶対に取り戻せないって、それだけは知ってます」

「……」

「かけてきた時間も、知識も、言葉も。その人が抱えてきたものが、一瞬で消える。思い出の中にしかいなくなる。……オレは、それが嫌なんだと思います」


 帆沼さんを掴んだ手に、力が込もる。


「……オレは、殺すのも、殺されるのも、嫌です」


 帆沼さんは、小さく息を呑んだようだった。

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