君の姿と、この掌の刃

日諸 畔(ひもろ ほとり)

プロローグ

「俺は人を殺した」

 雨が降っていた。


 本来ならば耳を塞ぎたくなるような大音量のサイレンと眩い筈だった警告灯の光は、夜闇と雨音に吸い込まれていた。

 静寂と言い替えられそうなその空間で、タケキは奇跡とも悪夢とも思える邂逅をしていた。

 目の前には目深にフードを被った人影がひとつ。視界も悪く物音も聞こえない、そんな中で見つけてしまった。


 侵入者。


 最前線からは程遠い訓練用の基地に侵入するとなれば目的は絞れてくる。将来的な戦力になり得る訓練兵の排除だ。

 ましてやこの基地である。宿舎に爆発物が仕掛けられたり、貯水タンクに毒物でも混入されたら国を揺るがす大惨事となるだろう。

 夜間見回りをしていた警備兵が塀の穴を発見してから十五分、教官はもとよりタケキたち一部の訓練兵まで動員しての大捜索が行われていた中での出来事だった。

 警備課によると、雨に紛れての侵入と思われるが、分厚い壁に穴を穿つような大規模な爆発や振動は確認されなかったとのことだ。

 それは一体どういうことか、基地の人間が考えることはひとつであった。


 その侵入者が目の前にいる。

 タケキは反射的に雨合羽の中で身構えた。侵入者は体をタケキに向けたまま微動だにしないが、フードの下に隠れた視線はどこに向いているのかわからない。

 はっきりとは見えないが、武器を持っている様子ではない。


『やはりそうなのか?』


 タケキは背筋が凍るような心持になっていた。

 相手から目を離さず周囲を窺うが、助けになるような人影は見えなかった。一人で動くべきではなかったと内心後悔する。

 誰かが呼んでいるような気がするなどと、もう卒業してもいいような、自分が特別であるような気持ちを捨てきれなかった結果であった。

 そんな妄想はやめておこうと一瞬考えたのが仇となった。その隙を見逃さず、侵入者は低い姿勢で真っ直ぐタケキへと走り出していた。


「なっ!?」


 訓練で体に叩き込まれたはずの対人格闘の基礎は頭から抜け落ちていた。

 咄嗟に両手で体を庇う。ただ、目を背けることだけはしなかった。できなかったのかもしれない。

 後数歩、数秒にも満たない間に肉薄するであろう侵入者の右腕をタケキは見ていた。

 手のひらを上にし、指を揃え、中指を先端としてタケキを貫こうと構えている。

 そして、その手を覆うような不可視の鋭利な円錐を。


 夜の闇、大粒の雨、フードと一体になったレインコートの下、それなのに見えた。

 その事実でタケキの疑問は確信に変わり、反射速度は思考速度を超えていた。

 呼吸を止め、左を前に半身となり両掌を広げる。小指の側面で相手を叩く、所謂手刀の構えだ。

 ただひとつ違うのは、その手刀に不可視の刃が形成されていること。


 侵入者が迫る。互いの距離がなくなった瞬間、不可視の円錐はタケキの左胸を真っ直ぐに狙い突き出された。

 その右手をタケキは左の手刀で外から内側に打ち払い、その勢いで右の手刀を侵入者の腹部に当てた。

 正確には、右の手刀で侵入者の腹部を切り裂いた。


 力を失った侵入者の体が崩れ落ちた。

 反射的にその体を支えたタケキは、呼吸をすることを思い出し、鼻から大きく息を吸い込んだ。

 ほぼ止まっていた思考がだんだんと鮮明になってきたとき、タケキは事実に気づくことになる。鼻に入ってきたのは生臭い鉄錆のような血の臭いと、甘い香りだった。

 フードの下から覗くのは、雨に濡れた黒髪とタケキ自身と同年代に思える少女の横顔だった。


 血と雨の混ざった液体が体を濡らしていく中、タケキは呟く。


「俺は人を殺した」


 事実上の降伏による終戦が告げられたのはこの事件の二年後のことだった。


 そして終戦から半年、タケキは軍を退役した。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る