あの夏の童話
@y0k81
あの夏の童話
大学の図書館に入ると、最初に目につく"司書のおすすめ"のコーナーには、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が飾られていた。
白兎が導くように、僕の足元を駆けていく。
君の正解はこっちだ、と愛らしい外見に似つかないおじさんのような声で、窓際の席に案内してくれた。
隣を仕切りで区切り、人ひとりがちょうど座れるスペース。
8月の終わりと言っても、今日は真夏日並に日差しが激しい。ブラインドを閉めて、直射日光を遮った。
白兎は用事を終えたようで、いつの間にか僕の視界から消えていた。
狭い机に参考書を広げ、イヤホンを耳に付ける。図書館内に溢れる人の声は遠く、ピアノと鍵盤の静かな音が、世界を覆う。
先程隣の席を確認したら、女の子が寝ていた。黒絹のような長い髪を垂らして、机にうつ伏せになっていた。
この図書館は常に人の声で溢れている。
うるさくないのかな、よく寝れるもんだ。
ふと、視界がぶれる。
兆候だ、と気付いたときには全てが始まっていた。
机の上にイヤホンのコードが繋がったスマホが置いてある。スマホはみるみるうちに縮小していく。
背をもたれてる椅子が、どんどん大きくなっていくのを背中で感じる。
自分の手が、身長が、指先が、全てが、縮小と拡大をゆっくりと繰り返す。感覚が狂い、僕は衛星の視点となって、僕を見つめている。
ひどい吐き気を覚え、強く目を閉じた。
徐々に、目蓋を開く。
僕は図書館の入り口に立っていた。
指先がこの建物ほど肥大していたり、僕の身長がミジンコ程小さくなっているなんてことはなかった。あんな体験をしても、僕は何一つ焦ったり怖がったりすることはないんだ。なにせ、この体験は初めてじゃないから。
僕の人生は誰かが決めた正しさに支配されているから、間違った選択をすると世界の時間が巻き戻るようになっている。
初めて戻ったのはいつだったかな。何度も巻き戻っているから、遠い昔のことだと思う。
足元から白兎が駆けていく。
「こっちで合ってるはずなんだけど」
僕は「どっちでもいいけどその声をどうにかしろよ」と笑った。
困り顔の白兎は、うーんと悩んだように腕を組み、
「君がそこに座るまでに、正解があるはずなんだ」
と額に眉を寄せている。
「ありがとう。探してみるから」
巻き戻る前と同じ席にリュックを置いて、今度はブラインドを閉めずに窓越しに外を眺めた。
傍の自動販売機を見るとやたらとコーラが飲みたくなったので、リュックから財布を取り出した。
たまたまなのか、普段の僕がだらしないからなのか、財布のジップがしっかり閉まっていなかったらしい。床に小銭をぶちまけてしまった。
大事なお金だ、すぐに拾わないと。
「まったく、だらしないなぁ」
背後で白兎の声がした。
「まったく、だらしないなぁ」
隣で女の子の声がした。
どきっとして見上げると、隣の席で寝ていた女の子が僕を見下ろしていた。
「あ、すみません」
僕は取り繕うように苦笑いを浮かべた。
女の子は小銭を拾うのを手伝ってくれた。
「萩村君」
凛とした声で、女の子は僕の名前を呼んだ。
「夏川さん?」
僕は彼女の顔を目で捉えるなり、彼女の名前を呼んだ。
どうしてその名前を声に出したのか、僕にはわからなかった。知らない人のはずだ。でも、なぜか彼女は夏川さんであるという確信があった。
「どうして私の名前、知ってるの?」
「ごめん、なんでだろう。夏川さんこそ、どうして僕の名前知ってるの?」
「私が君を知ってるのは、正解なんだ。でも萩村くんが私の名前を知っているのは間違いなの」
「それはちょっとずるくない?」
夏川さんは下を向いて少し笑うと、はいと集めた小銭を僕に渡した。
「小銭拾ってくれたお礼にジュースでも奢ろうか?」
「じゃあ缶コーヒー。ブラックね」
僕と夏川さんは図書館を出て、自動販売機へ向かう。
何故だろう、彼女とは、ずっとどこかで一緒に過ごしてきたように思える。どこか覚えのある暖かさを感じるんだ。
「夏川さんはここの大学の生徒?」
「そうだよ。萩村くんより2歳年上」
「僕はさ、さっき初めて夏川さんに会ったんだ。でも、ずっと昔から友達だったような気がする。変な話だろ?」
「ちっとも変じゃないよ。だって、ずっと前に私と萩村くんは恋人だったから」
自動販売機でコーラとコーヒーを買う。その場で空けて、一気に飲み干した。
私と萩村君は恋人だったと、夏川さんは言った。普通なら理解し難い話だけど、僕はすんなりと飲み込むことが出来た。
だって、僕の人生は気付いたときには普通じゃなかったから。
「どれくらい前の話なの?」
「うーん…どれくらいだろう。ていうか、恋人だったって聞いてちょっと動揺したりとか、ないわけ?」
「不思議とないんだよ。きっとその未来は、僕にとって正しい選択だから」
「そう。ずっと前の未来の話。でも、そろそろ時間切れ。またすぐに会えるからね、萩村君」
視界がぐらりと揺らいだ。
兆候だ。
僕が見る世界の縮尺はめちゃくちゃになる。
目を閉じ吐き気を堪えながら、またすぐに会えるという夏川さんの言葉を反芻した。
なるほど、正解はこういうことだったんだ。
ゆっくりと目を開くと、図書館の入口に立っていた。
"司書のおすすめ"のコーナーにある『不思議の国のアリス』を手に取った。
「ほら、正解だっただろう?何で戻ってきたんだ?」
白兎はいつの間にか背後に立っていた。相変わらずおじさんのような声をしているのが面白い。
「たぶん、彼女に拒まれたんだ」
「そんな風には見えなかったけどな」
僕はいつもの窓際の席に座り、リュックを下ろした。
「さっきぶり、萩村君」
夏川さんは仕切り越しに僕を覗いて、悪戯っぽく微笑んだ。
「夏川さん、僕が戻るまで時間はどれくらいあるの?」
「12分と34秒」
「次の正解は、12分以内に君に惚れてもらうってことか。骨が折れそうだなぁ」
これまで生きてきた20数年の中で、どうしても正しい選択肢が分からないときは時間いっぱいパズルで遊ぶことにしていた。そうするといつしか、答えが浮かび上がってくる。
今回は正解のピースはわかるのに、どこに嵌めれば良いのかわからない、そんな気分だった。
「よく正解が分かったね。そう、萩村君は12分後には私と恋人にならなきゃいけない」
「正解はすぐにわかったよ。きっと僕は、君に一目惚れしたんだ。そういう経験が皆無の僕は、突拍子もなく君のことを好きだって、そう言うんだ」
崖から少量の水が流れて、少しずつ滝壺が出来ていく。そんな風に、僕の記憶は蘇っていく。
夏川さんは、いつの間にか瞳に涙を浮かべていた。どういう表情かはわからないけど、懐かしんでいるように泣きそうだった。
「僕の人生は、夏川さんに支配されていたんだね」
正しい選択をするのに何度も何度もやり直してきた。それは全て、この場所で夏川さんに出会うためだったんだ。
「萩村君は、自分の人生が嫌い?」
「まさか。正しい選択を導くのは、実は結構簡単だったんだ。だって、ほとんど僕の本当にやりたいことが正解だったから」
「じゃあどうして、何度もやり直してきたの?」
「そこに至るまでの努力が辛かったから」
夏川さんはくすりと笑った。
「だってこの大学だって結構難関だよ?僕は頭が悪いから、センター試験を何度もやり直した」
「怠け者でだらしないのは相変わらずだよね、萩村君」
刻一刻と、時間は過ぎていく。
さっき初めて出会った僕らは、数年ぶりに再開した友達のように、お互いのことを話し始めた。
「そうだ、夏川さん。次巻き戻ったらデートに行こうよ」
「デート?」
「そうデート。どこがいい?」
「その前に恋人にならないと、デートとは言わないんだけど」
「あ、そうか。じゃあ普通に遊びに行こうよ」
夏川さんはわざとらしく「はぁ」とため息をついた。
「12分しかないんだよ?」
「そう、12分間のデート。行けるとこまで行くんだよ」
仕方ないなぁと呟く夏川さんを見て、僕は笑う。
そして、視界は揺らぐ。
兆候だ。
楽しみなことがあるだけで、こんなにも気の持ちようが違うなんて。
ぐっと目を閉じて、ゆっくりと開いた。
気付くと、僕は図書館の入口に立っていた。
「ほら、行くよ」
夏川さんは僕の手を取って図書館を出る。時間が限られているから、1秒でも早く行動しないと。
太陽は僕らを容赦なく照らし、遠くの陽炎がゆらゆらと揺れていた。
無駄に広い大学の敷地を抜けて、近所のコンビニでアイスを買うと、適当な日陰に座り込んだ。
「夏川さん、意外と手汗かくよね」
なんの気なしに呟いた一言に夏川さんはわかりやすく怒り、ずっと繋いだままだった手を引き離そうとする。
力は僕の方が強いから、夏川さんは中々手を離せずもどかしそうに手を振り回す。傍から見るととんでもなく滑稽だと思う。
「普通そういうこと言わないよね。なんならこの暑さで手汗かかない萩村くんが異常なんだよ」
「僕は汗かいてもわかりにくいってよく言われるんだ。だから、小学生の時かな。これくらいの季節にあった体育のマラソンで『お前だけ頑張ってない』って教師が言うんだ。ひどいよね」
「そのときの体育の先生の気持ち、わからなくもない気がする」
「えー、夏川さんは僕の肩を持ってよ」
アイスの袋を開けるために、久しぶりに手を離した。すっと抜ける風が気持ち良い。
耳を覆う蝉の声はもうすぐ聞こえなくなるのだろう。
「そうだ、あれ聴きたい」
夏川さんが言う『あれ』がなんなのか、僕にはすぐにわかった。
雨が降る夕暮れ、アパートの一室で二人でソファに寄り添って、イヤホンを片方ずつ付けて静かに聴いた。そんな記憶。
スマホに繋いだイヤホンの片方を、夏川さんに渡し再生ボタンをタップする。
蝉の声と、ゆるやかに侵食するクラシックギターの優しい音色。
グレゴリー・アンド・ザ・ホークのオーツ・ウィ・ソウ。
暑さは空へ飛んでいき、地面に埋もれるように、僕の意識は深海へ沈んでいく。
そんな風に、僕は12分34秒を何度も繰り返した。
途中で何度か彼女に確認した。
「そろそろ僕を好きになってくれた?」
彼女はその都度「全然。足りない」と首を横に振った。
いつしか僕は、あることに気が付いた。
僕の記憶の泉は、底を尽きたみたいに蘇ることがなくなっていた。
彼女が頑として時間を進めない理由を理解したのは、それから間もなくのことだった。
図書館の机は、古い木の匂いがして好きだった。
私が好きな年下のあの人も、たまにこんな匂いがした。
どこか古臭くて、どんくさいけど、子犬みたいにかわいい人。
「夏川さん」
永遠に進まない夢のような時間の中、その声は私がまだ小さい頃のお母さんの声を思わせる。
夕日が見える頃まで、私は公園の砂場で遊んでいる。何とかお城を完成させるために、手を泥だらけにして。
すると、背中から私を呼ぶ母親の声がするのだ。
「そろそろ帰るよ」
まだ、私のお城は完成してないのに。
「夏川さん」
諭すように、落ち着いた声音で彼は私を呼ぶ。
返事をすると、帰らないといけないのが嫌で、努めて聞こえないふりをする。
「どうやらこれで最後みたいだ」
私は顔を机にうつ伏せたまま、自然と流れる涙を袖に擦り付ける。彼にこんな顔を見られたくない。
「そうだね」
声が震えないように、喉の奥から絞り出した。
いっそ、聞こえなければいいのにとすら思った。
「そんな顔、しないでよ」
萩村君は薄く笑いながら私の手を取った。
こういうところが彼はずるい。普段は弱々しく見えるくせに、いざというときは無理やりなところが。
「さっきね、白兎がこう言ったんだ。『今回で進まないと永遠にここに閉じ込められるぞ』って。不思議だよね」
「正直さ、私はそれでも良いのかなって」
「それは駄目だよ」
私の言葉を遮るように、彼は言う。
悪いことをして怒られた子供のように、私は萎縮してしまう。
「萩村君、自分の人生は嫌い?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「だって、あなたの人生は私のわがままで決まった道にしか進まなくなった。たぶん、多くのことを犠牲にしてしまったんだと思う」
「まぁ、うん。ただ、この道だけが夏川さんに会えるのなら、僕は迷わず選ぶよ」
この人は、どれだけ私のことが好きなんだろう。
「夏川さん、目を閉じて」
小さな声で、仕方ないなぁと呟いた。素直になれない私の、精一杯の反抗。
最後の時間を、私たちはずっと手を繋いだまま過ごした。
イヤホンを片方ずつ付けて、あの曲を静かに聴いていた。
私は眠くなって、彼の肩に頭を預けた。
ふわりと香る古い木の匂いは、世界と溶けるようにいつのまにか消えていた。
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