凍えるほどにあなたをください

芹沢 忍

第1話

 冴えた空気を斬るように響く。


 ひゅーい ひぃゅーい


 寂しく、胸を抉る、それに耳を塞ぐ。


 古くなった獣道を敢えて選び、かずらは駆けた。裾の短い着物。人の剥き出した脛では下生えに負ける。


 薄闇の中、鮮やかな色を落葉が地に注ぐ。夜露に濡れた、それらを踏みしめると、枯れ葉と供に足を取られた。人の足では滑る場所が多かった。


 獣型けものがたの方が移動は楽だが、それでは牡鹿からは逃げられない。繁殖期の今は、匂いが薄れる人型ひとがたの方が逃げやすかった。


 速く、速く。急いで。

 村までは、あと、どれだけ走ればー


 切れ切れの息で、辺りを見回す。


 葛は想う。

 姉を殺した相手。

 憎い。

 だが、それ以上に惹かれていた。


 だから、自分を欲する同族から逃げるしかないのだ。しかし、この想いは自分を無理矢理納得させる為なのかもしれない。


 獣としての自分と人としての自分。本能は子を成せと獣の姿を強要する。繁殖期になれば自然と獣として暮らす。だが、自分は人型になれた。獣の摂理からはじかれたのだ。


 子を成せない身体なのだ。


 向かい合う現実は生き物として欠陥があるという事実。子供を残せない牝には群れでの暮らしは苦痛だ。決して蔑まれる事ではないが、仔鹿達を見る度に痛みが走るだろう。せめて一度でも子が成せていれば良かったのだが、初の繁殖期で獣型が解けてしまった。生まれ持っての不具だった。


 本当は現実から逃げている。

 解っている。

 それでも、あの男に逢ってみたい。


 想う気持ちは嘘ではなかった。


 ※  ※  ※


 我が種族は元は人であった。だが、病に弱かった。憐れんだ天御門あまみかど様が病を逃れられるようにと、脚の速い獣としての姿を下さった。我らは両方の生き方を尊重し、一番病に弱い時期を獣として暮らすようになった。それが葛の一族の祖である。


 獣として暮らす時期には人に狩られる。それも天命として受け入れる。しかし、必ずしも受け入れられるものでは無い。こと、身内を目の前で狩られたならば尚更だ。


 葛は双子であった。片割れは蔓葉つるはという名であった。彼女は既に常世を離れ、彼岸の住人になっている。生まれてから葛はずっと一緒に在った。蔓葉が死んだその時まで。


 仔鹿の時を過ぎたばかり、毛皮は冬に備えて厚く密度が増える頃。大人達は連れ合い探しを始め、まだ若すぎる葛達は、群れの外れへ足を延ばしていた。


 赤く熟れた実を見つけ、蔓葉と向かい合い、夢中で食んでいた。まだまだ身体は大きくなる。身体は大人達よりも食べ物を欲していた。

 

 ヒュッという風を切る音。


 驚き頭を上げると、甘い実の香りに不快な臭いが混じった。危険を感じて跳び退る。少し離れてから、葛は振り返った。蔓葉が茂みの前に踞り動けずにいる。


 蔓葉、蔓葉! 早くおいで!


 大きく叫ぶが、蔓葉は動かない。どうしてなのか葛には理解出来なかった。危険も鑑みず、葛は蔓葉の元へ駆け戻った。


 駆け戻り、そして出逢ったのだ。


 蔓葉の前に静かに佇む人。

 不快な臭いの元だった。


 数多あまたの獣等の臭い。

 真新しい血の臭い。

 それから死の臭い。


 蔓葉は小さく喘いでいた。胸に深く棒が刺さっている。それが獣を狩る矢だと知ったのは後になってからだ。新しい血は蔓葉から細く流れて止まらない。葛は凍りついたように動けなくなった。


「お前の連れか」


 男が言う。葛は黙って蔓葉を見たままだ。


「あっちに行け。ここから離れろ」


 離れられたら、ここにはいない。

 身体が動かないのだ。

 息が荒く胸が痛む。

 自分はどうしてしまったのだろう。


 男が葛に近付く。そうして、葛を動かそうと手を出す。しかし、葛は動かない。男が諦めたように溜め息を吐いた。


「悪いが連れは俺の獲物になった。これからの事は、お前には辛いと思ったのだがー」


 葛には何を言われているのか解らなかった。身体は岩のように頑なに動かない。だから目の前の光景を見るしかなかった。


 男がまだ息のある蔓葉に刃物を当てた。首の根元。血が多く通う場所だ。躊躇いも無く切っ先が蔓葉に沈んだ。脈動に合わせて命が溢れる。忽ちに赤い池が広がって、蔓葉の気配が薄れていく。


 蔓葉は去った。

 葛は一声ぴぃと哭いた。


 男は蔓葉の血が渇れるのを確認してから獲物を担ぎ上げた。命の名残が微かに男を濡らす。葛は引かれるようにして後を追った。男が自分を見た気がしたが、蔓葉と離れ難く葛は歩みを進めた。


 進んで行くにつれ、水の匂いが強くなる。男は川辺に向かっているようだった。細流せせらぎが聞こえる。知っている水場とは異なる淀みが見える。しかし男はその場を避けて、速い流れがある場所を選んでいるようだ。慎重に足場を選び、納得してから男は獲物を川へと浸した。流れで毛皮を洗い、それから小刀でぷつりと腹を割いた。腕を差し入れ手際良く中身を剥がして取り出した。器は川へ沈め、中身は対岸へ運んで行った。


 葛は蔓葉の残りと向き合った。流れに沈んだ空っぽな姿。力無く流れに揺れる耳。狩られた後はこんなにも空虚なのかと思う。ただ静かに流れに任せて。目の前のものは、もう、蔓葉とは違う。


 蔓葉は何処へ行ったの?


 じわじわと胸から重い物が込み上げてくる。急に奪われてしまった。足掻いているのを見ているだけだった。


 ぴぃと声を出す。

 当然だが応えは無い。


 足元の石を掻く。蹄に感じる硬さで、起きている事は事実だと判る。色々な感情が纏まらない。


「まだ居たのか」


 男の声だった。戻ってきたのに気付かなかった。それ程までに葛は混乱していた。


 男からは土の匂いが強くする。それから青い薬草の匂い。向き直り、葛は男に近寄った。あきれたように男が息を吐く。


「何故逃げない」


 わからない。葛は項垂れ、答えるように頭をゆっくりと左右に振った。男が一瞬顔を歪めた気がした。


「俺はこれから獲物を解体しなけりゃならない。お前はここにいても辛いだけだ」


 気遣う声は優しく響いた。姉を殺した相手だが、無闇に狩るような人間ではない。だからか。葛は男がその場を去るまで一緒に居続けたのだった。


  ※  ※  ※


 苦しい。人の身は駆けるのには不便だ。何度も足を取られては転んだ。獣であれば、山道で転んだりしないのに。忌まわしく思いながらも、決して獣型にはならない。向かうのはあの男のいる人里だ。獣でいたらどうなるか判らない。不安は募るが恐ろしくは無かった。ただ、あの男以外の狩人が自分を射るのだけは避けたかった。


 疲れた足を鼓舞して進む。朝日が昇りもやが発つ。日が目を射る。目をすがめる。そうして自分が立つ場所を知った。

 急斜面に穿つように大きな裂け目がある。その底は全てを飲み込むように暗く淀んでいた。背中が粟立ち身がすくむ。本能的に逃げ出そうと四肢に力を入れると、ふわりと身が軽くなる。人化じんかが解けたのだ。


 人とは違う軽さに葛は安堵した。しかし、危機感が増した。耳を大きく動かし音を拾う。頭を上げ空気を探る。それらの中から葛は見つけた。


 あの男の気配。それから微かに感じる姉の匂いらしきもの。それらの根源に向け葛は足を踏み出した。


 木々の隙間を抜けて日差しが注ぐ。木々が開けた場所に男がいた。


 矢筒と脚絆に見覚えのある毛皮。姉の残り香。無駄なく生かされているのが嬉しくもあり、憎くもあった。


 男が気付き、葛を見た。

 時が凝った。


 男がゆっくりと矢をつがえた。


 あの男の射る矢がこの身を貫く。血が流れ体は凍える。そうして潰えた私の命を、あの男は大切にしてくれるだろう。姉を大切に扱ってくれたように。私の毛皮はあの男を彩り、私の肉はあの男の身体となる。


 これ以上の深い交わりは無い。


 仔を残せない代わりに、あの男の命を繋ぐ。そんな関係で良かったのにー


 いざ、矢を向けられた今になって、葛は気付いた。自分に掛けられた優しい声。あの声で自分を呼んで欲しい。粗野な同族の男と違う、厳しく優しい貴方が欲しかったのだ。


 葛は男を見つめた。揺るぎ無い強い瞳。今、自分だけに向けられた真剣な眼差し。命を捕られる、そんな瞬間である筈だが、男を独占出来た事が、心底喜ばしい。


 男が矢を引き絞る。葛は全てを男に委ねるようにして瞳を閉じた。

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凍えるほどにあなたをください 芹沢 忍 @serishino

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