第3話 温かな家庭
「あのー念のため聞いときますけど、市役所に連行しようとしてないッスよね? 騙してないッスよね!?」
「いいから。黙ってついてきて」
二人はJRの線路沿いを歩いていた。奏多の言う通りこのまま歩き進めば、漂流物対策課がある市役所へとたどり着く。
しかし──玉川の足はその手前で止まった。急に九〇度右へ方向を転換する。そこにあったのは都営のアパートであった。
「ここが私の家だ。紛らわしかったかな?」
「いや……わかってましたけど! 黙々と歩いてたら流石に疑いたくもなるッスよ!?」
思わず玉川は笑っていた。どこかでいたずら心が働いていたようだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
家に帰ると、部屋の奥から声が聞こえた。どうやら起きて玉川の帰りを待っていたようだ。いそいそと玄関まで出迎えにきた妊婦。玉川の妻──園子であった。
「あれ、その子?」
「お、お邪魔します……」
園子を見るや否や奏多は歯切れが悪くなっていた。人見知りなのか、女性が苦手なのか。視線がおぼつかないでいた。
「あ、漂流者!」
「春川奏多って言います……その、漂流者です」
「そういうことだから。今日からうちで
それだけ言うと玉川はリビングのソファに腰をかけた。ジャケットを脱ぎ、堅苦しいネクタイを緩める。
園子は玉川の仕事をよく理解していた。言うなれば彼女も世界の裏側を知っている人種なのだ。そのため、余計な説明は必要ない。彼の仕事モードのスイッチはたちまちオフになった。
「ええ……俺が言うのもあれッスけど、そんな相談なく決めちゃうんッスか?」
「いいのいいの。この人頑固でなかなか意見変えないこと知ってるから」
「なるほど、確かに」
「あ、ご飯食べる? 買ってきたお惣菜だけど」
「おー食べる食べる。君も食べるだろう?」
「え、あ、はい」
玉川夫婦の有無を言わさぬ勢いに負けた奏多は頷いてしまう。玉川と一緒にダイニングテーブルへと座った。
「ごめんねーお客さんなのに惣菜で。今、お腹がこれだからなかなかね」
「いえ、お構いなく。唐突に決めたのは玉川さんですから」
テーブルに惣菜の唐揚げと白米を配膳すると、園子が玉川の隣に座った。しばらくは誰が話すわけでもなく、微妙な沈黙が流れた。
「あの……玉川さんとつき合うの大変じゃないッスか?」
静寂に耐えかねたのか、口火を切ったのは来客である奏多だった。
「そうかなぁ。頑固なところも魅力よ? よく言えばはっきりとした意思があるってことだし、私はそういうところが好きなの」
「いきなり惚気話をするんじゃないよ」
「それに優しさもあるのよ? もうずっと惣菜続きだけど、私を気遣ってか文句一つ言わないし」
「それは仕方ないことだろう。家事の負担は減らすに限る」
照れ臭くなった玉川はガツガツと唐揚げに手をつけた。下手くそな誤魔化し方だった。
「ほらね?」
「なんかほっこりするッスね。こういう食事……いいな」
「家族とご飯食べないの?」
園子が尋ねた。奏多がしんみりとした顔になったことに気づいたのだろう。玉川は箸を進めながら耳だけ傾けた。
「母は俺が生まれて間もない頃にいなくなったッス。父も……いないようなもんです。だから食事はいつも独りで」
「若いのに苦労してるのね」
「そんで物心つく頃には家事はだいたいできるようになってて、独りでいるのもなんとも思わなくなってたな」
「偉いわねぇ。その歳で一人でなんでもできるって誰でもできることじゃないわよ? 生まれてくる子も奏多くんみたいなしっかりした子に育ってくれるといいのだけど」
「いや……どうッスかね。確かに世間からしたら俺はしっかりした息子なのかもしれないですけど、俺みたいになって欲しくはないかな」
身の上話を語っていた奏多が口をつぐんだ。心の闇のようなものを感じた。玉川はすかさず、言葉を継ぐ。
「それ、君がパラレルシフトした理由に関係あるかい?」
「そう……かもしんないッスね。自分の世界に嫌気が差したってことは間違いないですから」
その言葉を聞いて思い出したのは二つ目の事件の漂流者、小林美桜のことだった。三つ目の事件の和泉天寧も自殺しようとしていたことから、世界に嫌気が差していたと考えていいかもしれない。
──同じ共通点の漂流者たち。この世界にきたということは彼にもなんらかの因果律があるのか?
しばらく様子を見るつもりで保護したが、彼が考察をやめることはなかった。自分の仕事が本当に意味のあることだったのか、考えずにはいられない。
「そうか。まあとりあえずしばらくはここにいていい。戻りたくなったら声をかけてくれ」
「はい、ありがとうございます。それまでは……」
奏多が恥ずかしそうに言い淀んだ。「それまでは?」と園子が尋ねて続きを促す。
「それまでは居候させていただく分、家事手伝いさせてもらうッス。園子さん大変そうですし、玉川さんも惣菜より手料理の方がいいかなって」
「それはありがたいね。是非頼むよ」
そう言って玉川ははにかんで見せた。
自分のやっていることは職務への背信行為だろう。我が身が切り捨てられる危険もある。けれどそんなことを忘れるくらい、家の中には暖かい空気が流れていた。
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