第4話 晴らしたい後悔

「和泉優くんだね?」


 翌日のことだった。玉川という市の役人が優のもとに訪れたのは。

 買い出しから帰宅した時、その男はマンションの前で待ち構えていた。手短に自己紹介を済ませると名刺を渡してくる。そこには『町田市漂流物対策課』という聞き覚えのない部署が書かれていた。


「聴きたいことがあるのだけど、少し時間をもらえるかな?」


 笑みを浮かべて物腰柔らかそうに振る舞っているが、敬語は使っていない。まるで聴きこみをする刑事のような雰囲気だった。


 ──この男は知っているのかもしれない。


 優は玉川を信用できなかったが、彼がきた理由に心当たりがあった。死んだはずの姉、天寧が現れたことだ。


「いいですよ。じゃあ近くの喫茶店でどうですか?  荷物置いたらすぐいきますんで」


 玉川が快く頷いた。場所を教え、急いで荷物を置いて出る。天寧にはまだ知られたくはなかった。自宅ではなく、喫茶店を指定したのもそのためだ。

 飲み物を注文し、優は彼と向き合う。聞きたいことは山ほどあったが、まずは相手の出方を伺う。


「話に応じてくれてありがとう。信用してくれたのかな?」

「まさか。『漂流物対策課』なんて聞いたことありませんし」

「じゃあ、私が訪れた理由に心当たりがあるわけだ」


 いきなり核心を突かれ、言葉を失った。嘘をついても仕方ないようだ。


「そうですね。けど俺の話をする前にあなた方の話を聞かせてもらうのが筋では? 『漂流物対策課』がなにをしていて、なにを調べているのかがわからないとどこから話せばいいかわからない」


 それが精一杯の反撃だった。自分の手の内が露呈した以上、相手の手の内も把握しなければ公平ではない。なにより作家和泉勇矢として『漂流物対策課』という存在に興味があった。


「字のごとくだよ。漂流物……この世界に存在しなかったもの、存在するはずがないものに関しての対策をする部署だ」

「この世界に存在するはずがないもの?」


 玉川は手の内を明かしても余裕があるのか、呑気にアイスミルクティーを啜っている。彼の言う漂流物が死んだはずの姉を指していることはすぐに理解できた。


「君は並行世界の存在について信じるかい?」

「まあ、多少は信じていますよ。これでも執筆活動してるんで。そこらへんの知識はよく調べるし、好きな分野ですから」

「それなら話は早い。我々が言う漂流物とは並行世界からの転移──パラレルシフトしてきた物や人のことだ」

「どうりで」

「驚かないんだね」

「まあ、予備知識がありますから。並行世界からの漂流物を対策しないといけない理由もなんとなくわかります。オーバーテクノロジーの漂着だったら大変だ」


 並行世界がどれくらいの規模のものを指すか優にはわからない。どの程度にせよ、この世にないものが存在すれば『矛盾』が生まれる。タイムパラドックスと同じ理屈で、なるべく避けるべき事象なのだろう。

 天寧の存在なんて最たる例だ。死んだはずの世界で別世界の彼女がいたら、いずれ大きな矛盾を生むのは容易に想像できる。


「ここまで話せば私がきた理由もわかるだろう? 君、なにか漂流物……あるいは漂流者を知っていないか?」


 優は一瞬、言葉を紡ぐのを躊躇ためらった。玉川の話を鵜呑みにしたわけではない。だが、現状を自分一人で解決することができないのもわかっていた。

 目の前に現れた天寧はここにいるべきではない。自分は姉のいない世界で生きる強さを持たなくてはならない。

 運ばれてきたコーヒーを一口啜すする。ガムシロップを入れたのに、苦味だけが舌を駆け抜ける。彼は意を決して口を開いた。


「死んだはずの姉と再会したんです。けどちゃんと体があって、幽霊なんかじゃない。家族や知人に聞いても姉が死んだ事実は残っていて……なにより姉自身、死んだことを覚えていない。それ以外は生きている頃とほとんど変わらないのに。姉が……あなたの探している漂流物ですね?」

「間違いなく。おそらく君のお姉さんが死んでいない世界から漂着してきたのだろう」

「自分でもそうなんじゃないかって思ってました」


 突然現れた死んだはずの姉。その理由は優が予想したものであったが、的中して嬉しいという感情はなかった。かと言って悲しみもない。言いようのない気持ちが胸を締めつける。


「ほとんど変わらないというと……君に対して違和感なく接してきたのかな? この世界の年代に違和感を覚えていなかったかい?」

「ええ、そんな感じです。年に関しては特になにも。月がズレているみたいなことは言われましたけど……それがなにか?」

「いや、非常に稀なケースだから確認をね。お姉さんはこの世界とかなり近い並行世界、しかもズレが少ない時間軸から転移してきている。失礼を承知で尋ねるけど、お姉さんの死因は? 亡くなったのはいつ頃?」

「一年前に自殺で亡くなりました。鬱状態だったんじゃないかって言われてます」


 優は自然と拳を握り締めていたことに気づく。無力さ、やるせなさ、後悔。天寧を思い出すたびにいつも湧き上がってくる感情だ。


「なるほど……近い世界とはわかっていたが、からきているわけか。分岐点は随分最近だな」

「そう……でしょうね」


 薄々、優も気づいていた。あの天寧は遠い別世界の元気な天寧ではないと。彼女は同じ闇を抱えていて、必死に踏ん張っていた。


「姉をどうするつもりですか?」

「『漂流物対策課』にある次元エレベーターでもとの世界に帰す。それが我々の仕事だからね」

「それで帰って……姉は幸せに生きられるんですか? 姉が抱えているものは帰れば解決するんですか?」

「それはわからない」


 玉川の言葉を聞いた途端、唇が震え出した。彼の答えは至極真っ当だ。天寧の未来を知っているのはきっと本人だけなのだろう。


「じゃあこのまま黙って見過ごせと!? 死ぬのがわかってるのに!!」


 優はつい声を荒げてしまった。ほかの客からの視線が痛いほど伝わってくる。


「和泉くん……」

「別世界の姉なのはわかってます。彼女になにかしたってこの世界は変わらない。起こった事実はくつがえらない。そんなのはわかってる……わかってるんだ」


 声の震えは止まる所を知らなかった。それでいて頭だけは冷静だ。


 ──こんなことをしても俺の世界は変わらない。自己満足なのかもしれない。けど……!


 そんなことは理解している。理解していながら溢れる言葉を彼は抑えられなかった。


「けど! あま姉はあま姉なんだよ! どんな世界のあま姉でも俺にとってただ一人の姉に変わりはないんだ!」

「気持ちはわかるけど──」

「ずっと後悔してたんです。どうして俺は姉の自殺を止められなかったんだろう。どうして気づけなかったんだろうって」

「死ぬ間際の人間ほど死期を悟らせないために立ち回る。心配させまいと取り繕う。気づけなくても無理はない」

「そんなのわかってるんですよ! 俺の姉なんだからつらい時こそ平気を装うに決まってたんだ! なのに……なのに俺は筆を置いた。あま姉は俺の小説が好きだったのに」


 自作が一次選考に残らなかったことをすぐに弱音として吐けなかったように、天寧も仕事の大変さを愚痴ることができなかったのだろう。真面目ゆえに強がることで解決しようとしてしまったのだろう。こんな形で姉弟であることを自覚はしたくなかった。


「自分の言葉は届かない、無力だって決めつけて諦めた。だからあま姉は死んだんだ。自分の言葉が姉を支えているっていう自覚なく諦めたから! 俺は……自分が許せないんですよ、今でも。俺が諦めずに物語で支えていたらこんなことにはならなかった。けど今回は気づけたんだ」


 玉川は返答を迷っているのか、閉口していた。

 ここで言葉を届けなければなにも変わらない。必死に訴え続ければなにかが変わると証明しなくてはならない。希望という名の『呪い』をもう捨てたくなかった。

 優は畳みかけるように言葉を連ねる。


「俺は物語をつづることを……言葉を届けることを諦めちゃいけない! あま姉の死を止めるのが俺の役割なんだ。そうじゃないんですか!?」


 どうして天寧が並行世界から自分のもとへやってきたのか。優はずっと考えていた。


 ──あま姉は俺に救われるためにこの世界にきたんだ。


 その答えはすぐに出ていたが、なかなか飲みこめずにいた。本当にそうなのかという猜疑心さいぎしんと上手くやれる保証がない不安感がまだ胸に残っていたからだ。天寧が告げた『呪い』に応える自信がなかった。

 けれど今ならはっきりと言える。


「この世界は変わらなくていい! けど! せめて! 二度も見殺しになんてしたくない……俺の言葉で幸せにしてから帰したい! 誰かにささやかな希望を抱かせるのは間違ってることなんでしょうか……?」


 やはりすぐに返答を述べなかった。玉川も思うところがあったのだろう。人知の及ばぬ未曾有みぞうの事態に唯一無二の正解なんてあるわけがないのだ。

 振り絞るように彼は答えを口にする。


「それは私にもわからない。この世界の歪みを正せばなにも影響はないのかもしれない。帰った先で未来を選ぶのは彼女の可能性だからね」

「だったら……!!」

「けどそれは推論の域を出ない。我々は危機を回避するための仕事をしているんだ。見過ごしたことで大きな分岐点を生み出すことになるかもしれない」


 そこには仕事に真摯しんしに向き合う男の姿があった。玉川にも自分の立場というものがある。簡単に首を縦には振れない。


「一週間でいい!! 俺に……俺に立ち向かうチャンスをください! お願いします……! 俺はもう見殺しになんてしたくない。希望を持つことから逃げたくない。今度こそ……今度こそ俺の力で姉を助けたいんだ」


 優はテーブルに頭を打ちつけて頼みこんだ。自信はないが、やらなくてはいけない。希望と向き合った先に、自分が目指していたものが見えると信じて。


「これもまた宇宙の因果律か……わかった。一週間だ。それ以上は待てない」

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