第1話 姉の優しさ

 夢か現実か。帰宅後もわからないまま、箸を進める。優は自分の知っている天寧だと仮定して自然体で接することに努めた。

 唯一違うのは髪の毛の長さだ。姉は生まれてからずっと長い髪が特徴だった。同性に羨ましがられると自慢していたくらいだ。

 目の前にいる天寧の髪は肩にかかる程度であった。なにがあったのか、彼女が何者なのかは問わない。聞けば消えていなくなってしまうような気がしたのだ。

 頭がせわしなく思考しているせいか、舌に乗せた白米の味もわからない。そんな様子を不審に思ったのか天寧が問う。


「どーしたの、優くん? なにかあった? ……って聞いたら答えにくいか」

「別になにも……ないけど」


 姉が帰ってきた驚きもあるが、賞に落ちた悔しさも残っていた。自殺したという事実が消失したと錯覚しそうになるからだろう。いつものように小説のことを話したい気持ちが強くなっていたのだ。


「そっかそっか。つらかったねー」


 天寧の手が優しく頭に宛てがわれ、ふわりと声が耳朶に触れる。泣いている子どもを慰めるように、そっと。


「なんで……なんでそう決めけるんだよ。まだなにも言ってないだろ」

「わかるよ。何年姉弟きょうだいやってると思ってんのー。優くんはカッコつけさんだからねー。つらい時こそ普通に振る舞おうとするし、わざと笑うもん」

「別になんでもないし、平気だし。ただ今日は食欲ないだけだし。心配すんなよ」

「ほらまたそういうふうに強がってー。姉弟なんだから遠慮しなくていいのにー。うん……? ということは……小説のことかなぁ?」


 ギクりとし、箸が止まる。ずっと相談したいと思っていた。天寧が死んでから一年。誰にも話せず溜めこんできた鬱憤うっぷんを聞いて欲しかったのは本心だ。

 そこで心のせきは壊れてしまった。原因はどうでもいい。目の前に亡き姉がいるという事実に優は堪えきれなくなった。


「姉貴には敵わないってことですか……そうですか」

「ふっふーん! やっぱりね。そっかー小説のことかぁ」


 優としてはなるべくなら弱音は吐きたくなかった。小説家は夢を与えるのが仕事だ。同じ言葉でも、愚痴なんて誰も欲していない。

 以前も同じようなことがあった。その時の天寧は……


「うーん……上手く言えないけどさ。優くんは私のことを一番のファンだって思ってるかもしれないけど、私はその前に優くんのお姉ちゃんなんだよ?」


 と彼をなだめた。その一言が腑に落ちたのだろう。唯一弱音が吐けるとしたら、ファンである前に肉親である天寧に対してだけだと思うようになった。彼女は弱い自分を受け入れてくれる。


「また落ちた。一次選考にすら残らなかった」

「うんうん」

「誰も俺の物語を欲してないのに、なんで俺は書いてるんだろうってなって……筆を折りたくなった」


 折りたくなるのはいつだって自分の言葉が無力だと痛感した時だ。言葉が届かないということは作家としての存在意義を失うことに等しい。


「優くんの物語を欲してる人ならここにいるよ?」


 天寧が自身を指差す。きょとんとして小首を傾げていた。


「それは……そうだけど」

「つまり私以外のファンが欲しいと?」

「まあ……そういうこと」


 本当に生きていてくれたら、どんなに気持ちが楽だったか。この奇跡が永遠に続いてくれと優は願いたかった。姉がいればまだ書く意味を、自分の存在意義を見出せるのだから。


「俺の文章に……言葉に力はないのかな。誰にも届かないのかな」

「そんなことない! 絶対力はあるはず! 今は多分、みんなが知らないだけだよ」

「けどみんなに知られるには賞や公募に出すしかなくて……それで落とされてるんだからやっぱ……」

「一回目ダメでも二回目ならいけるかもしれないし、二回目ダメでも三回目は成功するかもしれないよ? 大事なの挑戦し続けることなんじゃないかな。一度ダメだったことでも、別の方法なら上手くいくってこともあると思うよ?」


 天寧の言葉が痛く胸に響く。優は俯くことしかできなかった。

 彼女が示したのは茨の道だ。ダメになるたび別の方法を探して、成功するまで続ける。鋼の意思を持つ者しかそれはできない。


「どうして……折らせてくれないんだよ」


 目に見える敗北に挑戦しようとする心ほど厄介なものはない。将来に絶望してしまえばどんなに楽か。ここで終わればもう苦悩はない。自分を焦燥に駆らせ、なのだ。


「だって本当に折りたいって思ってないでしょー?」


 思わず顔を見上げた。本当にそうなのかと優は自身に問いかける。悩んでいるのは希望を抱いている証左なのではないのか。


「なにより私はまだ読みたい。読ませて欲しい。そのためならいくらでも協力するよ? 愚痴でもなんでも聞くし。私はずっと応援してるから!」


 一番言葉。しかし今の優にとってその言葉は書き続けなければいけないという重責だ。『呪い』なのだ。


「今日だけは八つ当たりしてもいいと思うし、全部全部人のせいにしたっていい。ほら、ここで悪口聞くの私だけだしー? それでスッキリして前向いて書けるようになるなら私は聞くよー?」

「この話はもういいよ。心の整理させて。ごちそうさま」


 姉の優しさが胸を締めつけた。苛立ちをなるべき抑えようとしても、不躾ぶしつけに吐き出すしかなかった。

 目の前の天寧はおそらく死んだ天寧と同一人物ではない。それを頭では理解していても姉は姉なのだ。自分の執筆に理解があるのならなおさらだ。


 ──その『呪い』をかけるならなんで死んじまったんだよ、あま姉。どうしてあの時言ってくれなかったんだよ。


 わがまま過ぎる想いが優の心に巣食っていた。もう『呪い』をかけられるのはうんざりだ。

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