ダム
耳の脇で砂を噛んだような音がした。
外は雲一つない晴天だった。昨夜半端にしめたカーテン越しに差し込んでくる光が眩しい。目が覚めた途端ベッドの中が暑くて、早々に起き上がる。この部屋には時計がないのでテレビをつけた。日がすでに高かったので予感はあったが、家を出ようと思っていた時間の十分前だった。なんとなく億劫でアラームをつけなかった弊害がばっちり出ていた。
六月の下旬を過ぎたが、まだ梅雨入りのニュースを聞いていない。それどころか週間天気予報を見る限り明日から週末まで雲一つ無い晴天続きだ。それでも今日の降水確率は一応十パーセントあるらしい。そうこうしているうちに三分経っている。日焼け止めは塗っていきたいので、寝起きの、支配権の行き渡っていない体を鞭打って出ていく仕度をする。具合が悪くなったことにして、今日の予定をすっぽかしてしまおうかな、とつい思ってしまった。先日短くして、さらに癖に磨きがかかった髪に櫛を通す。
講義のない土曜日、いつもなら正午過ぎまで二度寝の余地もなく眠っているはずだった。だけど仕方ない。今日会う友人は長い付き合いになるが、会うのは数年ぶりというちょっとぎくしゃくする相手だ。変に遠ざけて予定を蹴るようなことはすべきじゃない。
チューリップを逆さまにした形のやわらかくて大きい帽子をかぶると玄関に置いた鏡を一瞥して家を出る。それに。それに、さっぱり会わなくなったけど昔は毎日のように絡まっていた、好きな友人の一人だったのだ。
私が待ち合わせ場所の銅像前についたとき、真菜実はすでにそこで待っていた。
少女が鳩を捧げ持っている銅像の名前は知らない。この辺りで会うときの待ち合わせによく使われる場所で、真菜実以外にも誰かを待っているふうな人間が銅像の周囲に立っている。時計や携帯電話を見ている人々のなかで、真菜実は銅像の真下に仁王立ちしていた。視線で雄弁に咎めてくる様子が、中学生だった当時とまるで変わっていなくて、私は甘えた気持ちでへらへらと笑いながら彼女に近づいた。
「真菜実ちゃん、おはよう」
「恵利。社会人は遅刻出来ないんだよ。知ってる? ・・・・・・おはよ」
ていうか『ちゃんづけ』で呼ばれるのなんかむず痒いんだけど、と真菜実は言った。はにかむというには少し馴れ馴れしいような、気恥ずかしい笑顔を二人で浮かべる。
真菜実とは住んでいる場所が近かったことから、小中学校を共に通った幼なじみだった。その頃私たちは毎日のように互いの顔を見ていた。
会わない日の方が少ない、というくらい私たちの生活圏は重なっていて、好きとか嫌いとかを差し置いていた。
真菜実は当時の私が、特に理由のないどうでもいい嘘を日常的についていたことを知っているし、私は中学生になったばかりだった真菜実が彼女の母親に内緒で、前の父親と会っていたのも知っている。友人同士というよりも年の近い親戚に近かったかもしれない。お互い教え合ったわけでもないのに、身内の事情を共有していた。特に、得意げな顔も出来ないようなやつを。
私が都心の高校へ進学することを決めたのは、選べるのだからそうしようと思っただけでそれ以外の理由はない。私たちが通っていた中学校の三分の一は、地元の公立高校へ進学していた。近いし、進学先で出会うのもよく知った顔ぶれだ。そして地元の高校へ進学した三分の二程度が、卒業後、地元で働き口を見つける。すぐさま働きたい生徒は迷いなくそちらへ進学するし、あまり偏差値の高くない学校だったから、ここしか選べないという生徒もいた。真菜実は早く働きたがっていたし、私はしたいことがなかった。だから、親のすすめもあって都心の高校へ入学した。
「だって、会うの久しぶりでしょ。どんなふうに喋ってたなんて全然思い出せないよ」
「会ったのは、ついこの間じゃない。那月の子どもを見せてもらった時」
「まあ、そうだけど。でも、那月ちゃん家に行くまで真菜実、も来るって知らなかったし。その前に会ったのが成人式の同窓会だから、二年前でしょ。あの時は特に喋ったわけでもなかったしさ。中学卒業以来全然、会ってなかったじゃん」
「・・・・・・そうだね、全然会わなかった」
真菜実の声の調子にまるで咎めるような響きを聞きつけたが、気のせいだと思った。だいたい、私にも真菜実にも、一番の友人と呼ぶべき人は別にいた。
実家から市内の高校へ通っていた私は、朝は早く出て行き、帰ってくる時間は遅かった。だから遊びほうける時間は今よりなかったけれど、毎日似たような顔ぶれとばかり会っていたから新鮮だった。高校はいろんな場所から人が集まってきていて、自分たちの間では当たり前だったことがそうじゃなかったりして、文化圏の違いというものがあるのを知った。今思えば普通のことなんだけど、当時は衝撃的だったのだ。それに、行動範囲と人間関係が広がるのは純粋に楽しかった。
「もうばりばり働いてんの?」
そう聞くと、真菜実はちょっと目を眇める。「ばりばり働いてるよ」と恵利の口調を真似して、片頬だけを吊り上げて笑った。
「昨日も早出の上に残業だったし。でも、遅刻しないで来たでしょ」
そう言われると心なしか真菜実のアイシャドウできらめく目元が、たるんだように見えてくる。でも一番印象に残っているのが学生時代の彼女なのだから、多少そう見えるのも当然かもしれない。カジュアルなスーツ姿だって全然見慣れない。
「なんだっけ、建設会社の事務だっけ? まだ、二年目でしょ?」
「人少ないんだもん、関係ないよ。使い走りで忙しい。使う暇がないから、お金は貯まってる。」
明るい髪色に、とれかかったパーマを真菜実は指でくるん、と巻いた。ジーンズに草臥れたTシャツ姿の私を上から下まで見つめ、相変わらず男の子みたいな服着てんね、と言った。もう寝癖がとれているといいな、と思いながら帽子を目深に被り直し「これはラフな方」と弁解してみる。
「お昼、まだでしょ。もう食べちゃわない。あたし朝ご飯食べてないで来たのよ」
「私もまだ。ねえ、おごってくれんの?」
「そんなわけないでしょ」
馬鹿じゃないの? ほとんどスーツみたいな恰好をした真菜実の、辛辣さが懐かしくて私はついに噴き出してしまった。彼女がむっつりしているのは、つられて笑うのを我慢しているからだと分かっている。
「そういえば、那月ちゃんはよばなかったんだ」
駅構内にある洋食屋で私はハンバーグのランチセットを頼んだ。週末だから待たされると思ったのだが、タイミングが良かったのかすぐに店内へ案内される。真向かいに座った真菜実は名前が長い(覚えきれなかった)パスタを頼んだ。それからちょっと変な顔をして、
「だって、那月は子どもがまだ小さいじゃない。誘えないよ」
父親に預ければいいのに、と思ったけれど考えてみれば私は那月の夫が誰かを知らない。那月は中学生時代の友人だ。ただ真菜実は、小学生から那月と交流があったらしい。真菜実の友人として那月と私は知り合った。
特別、遊びに行くとかいう感じでもないもんね、と私は言った。
「那月ちゃんの相手って、高校同じ人?」
黒い鉄板に肉汁が弾ける音を響かせながら、ハンバーグが運ばれてきた。
「いや、その時パートで働いてた職場で知り合った人だよ」
「そうなんだ」
じゃあ言われてもわからない人だ。私は机の端に置かれたナイフとフォークを手にとった。
「赤ちゃんすごいかわいかったよね。柔らかくて赤くて」
大学のオープンキャンパスがあったので、講義が数日休みだった。その時予定もなくお金もなかったので、一人暮らしのアパートから実家に帰省していた私は、散歩がてら向かったスーパーで、買い物をしている那月と会ったのだ。
その時、彼女が今も実家に住んでいて、そしてすでに子どもがいることを知った。「子ども、見に来ない?」。那月は笑うと目が頬に隠れて見えなくなってしまう。愛嬌のある表情が羨ましかった。彼女が持っている買い物かごには、紙おむつや瓶詰めのジャムみたいな幼児用のご飯が入っていた。赤ちゃんに何を食べさせたらいいかって、保健の授業では習っただろうか、と思った。単に覚えていないだけかもしれない。
そしてその日の午後、私は那月の家に子どもを見る為に訪れ、同じく那月の家に来ていた真菜実に会ったのだった。
「子どもの名前、なんていったっけね」
那月が生んだ生後三ヶ月にも満たない赤ちゃんはコットンの服を着て、人形みたいに小さかった。やさしくて素朴な甘い匂いがした。抱っこもさせてもらった。手の形に、そうあるべきみたいに赤ちゃんは収まっていて、こんなに小さな子がいつか自分で靴を履き、ランドセルを背負って、制服を着て、そんな事を誰の手も借りず当然のように出来るように、なんてとても思えなかった。
「心愛ちゃん」
真菜実はフォークにうまく麺を絡められなくて、ちょっと口で迎えにいきながら食べている。
「ここあちゃんかあ。なんか傾向が私たちのときと変わってるよね」
「そうね。あたしたちの名前の趣味は親の世代のものだし。ここあちゃんとか、ああいう名前って小さい時に自分につけてほしかった名前だよね」
「確かにそうかも。子どもの頃に、親にいちごちゃんとか、きらりちゃんとか、かわいい名前にしてほしかったって言った覚えある」
「全然、そういう柄に育たなかったね」真菜美は憮然とした態度で言った。
洋食屋から出ると、真菜実が車は駐車場にとめてあるからと言った。
「えっ、真菜実、車運転すんの」
「あのね、車がなきゃあたしたちの住んでるとこなんて移動手段がないじゃない」
彼女の車は、現在はすでに新しいタイプが出ている、一つ古い型の軽自動車だった。中古車だと言っていたけど、状態が良いのか、とてもそうは見えない。真菜実が乗り込んだのに続いて扉を開くと、車内から彼女の家の匂いがして私は思わず目を瞬いた。
大学に入学してからの二年間を過ごしたあのアパートを出たのが、まるで遥か昔のことのように思える。あれが、たかが今朝のことだったなんて。今日の夜には自分はまたあの部屋に戻り、週明けは再び大学の講義を受けているはずだ。それがほんの一か月かそこらのことで、ずっと彼女との学生生活が続いていたような気がする。乗り込んだ途端、真菜実とはち合い続けた学生時代に何もかもが戻ってしまうような気がした。
「シートベルトちゃんと締めてよ、恵利」
生真面目な声は、学生の時から変わらないけれど中学生の真菜実は車の運転など出来ないし、髪なんて染めていなかったしパーマもかけていなかった。青臭い汗の匂いは見る影もない。
「酔ったらいうね」
ハンドルを握る真菜実の指の背には太い皺が何本かあって、母親のものとよく似ていた。真菜実は「吐く前に言いなさいよ」と言って鍵をまわす。私は助手席で尻の落ち着く場所を探しながらシートベルトを引き出した。
真菜実に話しかけられたのは、那月がお茶を出すねと言って席を立った時だった。
「恵利って、成人式来てたの?」
「え。ああ、うん。成人式いたよ」
声を掛けられるとは思わなくて、咄嗟に反応が出来なかった。那月の家を訪問してから既に数時間が経過していた。彼女に話かけられたのは最初に通されたリビングで会い、「あれっ」「わあ」と短く声をかけあったぶりだった。同じ部屋で那月の子どもが眠っているので声は自然と控えめになる。
「気づかなかったわ。高校があっちだったから、地元のじゃなくて市の成人式に出るんだと思ってた」
「ううん。戸籍とかこっちのままだし、成人式のハガキも実家に届いてたから」
そう言って真菜実を見たけれど、彼女は極限まで音量を下げられたテレビの方を向いたままだった。私は眠り込んだ心愛ちゃんにそっと近づいて、緩く開いた手に小指を突っ込んでみる。大人の爪程度しかない小さな指でも、反射的に握り込むのを見てついハエトリグサを連想した。
「恵利って今何してんの? 学生?」
「うん、大学生」
「大学生かあ」
横顔をつくつくと視線が刺しているような気がして振り向くと、真菜実は机の上で腕を組んで猫みたいに静かな目でこちらを見ていた。お湯を沸かしている音と、陶器がぶつかり合う音が聞こえる。
那月はまだ戻りそうにない。学生だったら、まだ時間あるでしょ、と真菜実は言った。
「今週末、ちょっと付き合ってもらえない?」
まだ心愛ちゃんに指を握り込まれたままでいた。
真菜実の誘いを断るほどの理由がなかったし、サークルやアルバイトもしていないから講義が終われば自由時間みたいな毎日で、貴重な休日でもなかった。真菜実の薄い目蓋がちょっと痙攣していた。
だから「いいよ」と言った。那月はそれから十五分後くらいに台所から戻ってきた。紅茶をきらしたとかで、私にだけ緑茶が出た。
「この道、前からあったっけ」
真菜実が運転する車は、駅を出て実家に戻るような道を辿り、やがて私たちの通っていた小中学校を通り過ぎた。住宅街を過ぎて国道を逸れ、今は私もわからない道を走っている。けれど所々に現れる看板や風景には見覚えがあった。
「ずっと整備してたけどこの間、開通したのよ。小学校のとき、遠足で麓まで上った丘みたいな、低い山があったでしょ。そこを均して。知らなかった?」
「そうなんだ。全然知らない」
道は青々と生い茂った草木に囲まれていて、時々熊出没注意の看板を目にした。山道に入ってからは、カーブのゆるやかな上り坂がずっと続いている。車は二十分に一度すれ違う程度だ。空が午前中より白っぽくなっていて、大して眠くもないはずなのに肌がぼんやりと熱い。私はクーラーを調節しながら、どこに行くんだっけ? と尋ねた。さっきも聞いた気がするからやっぱり少し寝ぼけているかもしれない。だらしなく座っているせいで、窓から見える風景が微妙に低い。
「堰堤よ。ダムよ」
そう言って真菜実は聞き覚えのあるダムの名前を告げた。多分、小学生の時だ。学校の遠足で真菜実とそこを訪れた。
「ああ、ダム」
ダムダム、と復唱する。ちょっと酔ってきたかも。そう言うと、もうつくからと真菜実は慰める。「カーブ続きだとそうよね、気持ち悪くなるわよね」という声は今日一番優しい。だいぶ走り続けている気がするが、コンビニには出会わない。
時折、カミキリムシの触角の形をした自転車が車体すれすれを通り過ぎた。カーブの道を上り続けていると遊園地の回るコーヒーカップに乗っている気分になる。つい想像して、気持ちの悪さが加速する。
それから数分もしないうちに、真菜実は車を止めた。アスファルトはひび割れていたり、地面を突き破って生えた雑草で隆起していたが、消えかかった白線や砕けた縁石がいくつかあったのでここはやはり駐車場らしい。
地面はじりじりとした熱を発していたし、車から出たことで草の青い匂いは強く濃くなっていたが、水を含んだ冷たい風が吹いて心地良かった。上へ引き伸ばすように背伸びをすると、鼻の頭がぢん、と痺れる。
雲の厚くなった空を、燕が虫みたいに飛んでいる。駐車場は周囲より小高い場所にあり、同じくひび割れて雑草だらけだがテニスコートや、フットサル場もあった。水飲み場もあることにはあったが、虫の死骸や落ち葉だらけで機能していなさそうだ。確かに子連れで来るのはちょっと厳しいな、と思った。
「車酔い、どう」
大して広くない駐車場をぐるっと歩いて戻ってくると、真菜実がばつの悪そうな顔で車のボンネットに腰掛けていた。駐車場には他にもワゴンが一台停まっていたけれど人のいる気配がなかった。自販機で水買ってきたから、とペットボトルを渡される。
「ありがとう。もう平気」
良かった、と真菜実は言う。普通に話しているはずなのに辺りが閑散としているせいか音が周囲に散って、聞こえるか聞こえないかくらいに小さい。地球の人口が三十人くらいになったこんな感じなのかもしれない。遠くに車は走っているし、人の気配だってあるけど、真昼であるにも関わらずここは驚くくらいに静かだ。
耳元を通り過ぎた虫の羽音にぎょっとして飛び上がる。雀でも、鳩でも、カラスでもない鳥の声が聞こえた。これからどうすんの、と聞こうとした時、真菜実が「少し歩こうか」と立ち上がった。
「みたいものがあって……。ここからそんなに離れてないの。このダムの上を渡って向こう側だから」
「こんなところに? 何を見たいの?」
「……」私の問いかけに応えるように真菜実は笑いかけたけど、何も言わなかった。
駐車場を出て、貯水湖を渡す炎天下のダムの上を歩いていく。ゆるやかに弧を描いた一本道で、行く先は見えているけどそれなりの距離がある。もし夜にここを歩くとしたら相当怖いだろうなと思った。
ダムは想像していたものよりずっと大きかった。貯水湖は視界に収まりきらないほどで、遠くにもう一本橋が渡してあったが、ここからではボールペンほどの大きさにしかみない。あそこを車で通ってきた、と真菜実が指差すが記憶にない。
「これ、人が飲む水を貯めてんのかな」
緑色だけど、いいのかな。水をせき止めているコンクリートで出来たダムの上から湖を見下ろす。水は藻のような深い翠色で、もちろん底なんて見えるはずもない。ダムの高さはそれなりにあった。四十メートルは下らないだろう。弧を描くような形をしていて、真下を見るとさすがに背筋がひやりとするので、私はなるだけ遠くへ視線を投げた。
真菜実は髪をかき上げる。彼女の黒っぽい服装は見ているだけで暑そうだった。半袖を着ている私でさえ大汗をかいているのに。
「どうかな。多分、産業用に使われるやつだったと思うけど」
人工湖の反対側には、放流された際に水が流れる路であろうコンクリートの放水路が連なっている。大雨などで貯水湖がいっぱいになると、門のように連なった水路から放水される。子どもの頃、一度見た記憶があった。放水時は滝が並んでいるかのようで特別感に興奮したものだ。ダムを挟んで右手の貯水湖は翠色の水で満たされていて、左手の放水路は灰色に乾ききっている。粒のような燕が随分低い場所を飛んでいた。
「真菜実、顔色悪いよ。大丈夫?」
ダムの上に日陰は無かった。湖の上を渡りきるまで黙々と歩いたが、十分近くかかっていた。午後になるにつれ雲が多くなり、太陽は隠れているがそれでも暑い。熱っぽい湿気が海綿みたいに体に密着している。真菜実も時折水を飲んではいたけれど、今はふうふうと病んだ呼吸をしていた。渡ってきた道の端で、木陰になってる縁石の端に座らせる。顎に伝うほど汗をかいているのに触れた手は水菓子みたいに冷たかった。
被っていた帽子をとってばたばたと風に煽ると、真菜実に被せる。はア、と舌を吐き出すように息をついた。
「いい、大丈夫。ちょっと目眩がしただけ」ごめん、と真菜実は俯いた。すぐに立つからと唸るように言った。私も彼女の隣に座って落ち着くのを待った。
「ねえ。今日じゃなくてもいいんじゃない。真菜実、すごく気分が悪そうに見えるよ。また今度見に来たらいいじゃん」
「今度って? 今度って、いつ」
適当言わないでよ。陶器を叩きつけるような、高い、張り裂けるような声だった。手首を掴んでいる手はぶるぶると痙攣している。しゃっくりのなりそこないのように喉を引き攣らせながら真菜実は深く息を吸い、落ち着いて振舞おうとしている。
どうしたの、と言う私の声もつられたように震えた。静けさが今はただ恐怖を煽るものでしかない。
「ごめんね。具合が悪いんじゃないの。だから、お願いだから、もう少しだけ付き合ってよ」
一人じゃ行けないの。ほとんど叫ぶように中学生の姿をした真菜実が言う。一番一緒にいた時のように剥きだしなのに、私はやはり彼女がどうして打ちひしがれているかを知らない。焼くように冷たい指先が渾身の力で私の手を掴んでいる。「わかった、行くよ。だから離して」。掴まれた場所の感覚がなかった。真菜実が手を離した途端、どっと血が巡るのがわかる。中学生だった二人に戻ったみたいだった。真菜実が弱っているんなら、私はなんともない。
ダムを渡った向こう側の道は、生い茂り放題の木々で薄暗かった。そこらじゅうが湿気っていて、枯れて落ちた草を踏んでもなんの音もしない。掘り起こしたような濡れた土の匂いがした。真菜実は、今は影のように静かだ。
「どこに行きたいか、教えて貰わないとわかんないよ」
私が困ってそう言うと、真菜実は親に嘘をつかれた子どもみたいな目つきをした。でも知らないから、聞くしかない。彼女の自分を削り取るようなヒステリーも、皮膚に爪痕が残るほど私を引き留めた理由も、何も思い当たるものがない。私はその時を一緒に過ごさなかった。真菜実だって私の高校にはいなかった。
「・・・・・・このまま、真っ直ぐ行って」
もうすぐ突き当たるから、と足下を睨んだまま言った。
言われた通り歩き続けると、鉄板で封鎖された小さなトンネルの前に行き着いた。ここまではほとんど獣道で、車はおろか自転車でも通ることは難しいだろう。穴は三メートルあるかないかの高さで、塞いでいる鉄板には苔が生えている。人が通ることは無理そうだ。黒黒とした幹の太い木立が辺りを取り囲んでいる。トンネルの手前には足首ほどの高さに、黄色と黒の立ち入り禁止のテープが張られていた。木々の隙間から、歩いて渡ってきた灰色のダムが見える。空っぽのカップ酒や、瓶の破片が落ちていた。木の根元には、袋だろうか、ビニールらしきものが引っかかっている。
引き摺られるかのようにくっついて歩いた真菜実がいつの間にか隣に立って、命綱に縋るかのように私の手首を握っていた。
どうせなら手を掴めばいいのに。でも学生であった時でさえ、彼女と手を繋いだ記憶がなかった。指が白くなるほどの力で掴んでいる真菜実の指先からふと足もとに目を落とし、自分が踏んでいるものが枯れ葉だけではなくその中に花弁も紛れていることに気付いた。周囲にそれらしき花は見えないが、はっとするほど白く瑞々しい百合の花だ。思わず足をどける。よく見れば木の根元にも枯れきって小枝のようになった花束の残骸が引っかかっていた。雨風に晒されてひどく汚れているが、封を切られていない缶入りの炭酸ジュースが二つ転がっている。
あれほどさえずっていた鳥の声が聞こえない。ぽん、と彼女の肩を押したら弾けてばらばらになってしまいそうだった。私には封鎖されたトンネルの手前の、開けた場所でしかないここで。
「雨が降って来たよ」
先ほどから葉を叩くような、かすかな音が聞こえていた。頬にぬくい水滴が落ちた。雨粒の音がじわじわと大きくなって、増えていく。もう間もなくバケツをひっくり返したような雨になるに違いない。渡ってきたダムへ引き返すことを思うと一瞬心細くてたまらなくなったが、私も真菜実もとっくに中学生ではなかった。心配した両親が迎えにくることもない。
「真菜実。帰ろう」
耐えるように立ち尽くす彼女の隣で、私は辛抱強く待つ。
真菜実が初めて出来た恋人にふられた日を知っている。プールを休んだのが生理でもなんでもなくて理由のないずる休みだったことも、子どもが実はあまり好きでないことも、那月とひどい喧嘩をした時声を枯らすほど、大声で罵りあったのも知っている。私はかつてあなたの友人の一人だった。真菜実は私の友人の一人だった。今だってもちろんそうだ。掴まれているほうの手にあらん限りの力を込めて拳を握る。力んだ手首が真菜実の手を少し押し返した。
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