揺蕩う猛火
淳一
揺蕩う猛火
魔王が斃れた、という話はあっという間に世界中に広まった。首都を含めた主要都市にはきっとその日のうちか、翌日には。私が住む辺境な土地にすら、その事実が起こってから三日と待たないうちに情報が届いた。
村では歓喜の声があちこちで聞こえてくる。それもそうだろう。もう突如として現れる魔物の群れに怯える必要がなくなるのだ。少し外れた隣村に行くのに、護衛を雇って怯えながら移動する必要もなくなったのだ。魔物の群れに襲われて壊滅した村などいくらでもある。この村は
辺境だけれど、まだ首都に続く主要道路に面していたから、首都の交通網の保護という名目で守られた。けれど、そこから外れた、本当の辺境の地にあった村々は、跋扈する魔物の群れに対処する術もなく、ひとつ、またひとつと消えていった。生き残った者がいればその事実は広まったが、生き残った者がいなかった村は人知れず消えた村だ。私が知らないだけで、そんな村などいくらでもあるだろう。
だから、その恐怖がなくなったことは、それはとても喜ばしいことで、何もわかっていないような子どもが大人たちの熱気に当てられて飛び跳ねるのを見ては、頬が緩む。
次に話題になったのは、その魔王を斃した勇者の存在だ。いったい誰が、と人々の関心を一手に引き受けるはずの立役者は、しかし何日経っても情報として届くことはなかった。首都ではみんな知っているのだろうかと、ここが田舎だから情報が遅いだけなのだろうかと、何日も待って、ひと月待って、首都に出稼ぎに出ていた人が戻ってきて、首都でもその存在は不明だということがわかった。どうやら、魔王が斃れたという報を届けた人物は、実際に魔王と対峙したわけではなく、しかし魔王を斃しにその居城に足を踏み入れて、既に息絶えた魔王の姿のみを見たのだそうだ。そこにあったのは、魔王の死体のみでほかに人の気配はなかったそうだ。
誰かはわからない。
けれど、魔王は斃れた。
世の中は、ずっと平和になった。
ああ、と、その話を聞いて私は思った。きっと、この話は月を跨げば消えてしまう。立役者の、英雄のいない美談も冒険譚も存在しない。私たちの生活の根源的な恐怖であったはずの魔王という存在は、毎年の凶作への怯えと同程度にまで矮小化されて、語られることもなく消えていくのだろう。
だから私は、この話が完全に消えてしまう前にと、叔父に言った。故郷に一度行ってみたい、と。魔物も消えた。故郷までは朝に発てば一日で戻って来られる距離だ。叔父はひとりで大丈夫かと尋ねてきたが、私は大丈夫だと応えた。
翌朝、日も明けきらぬ内に、私は家を発った。この村が守られた唯一の理由である大きな道路を歩いて、途中から脇に逸れる。この道路から外れてしまえば、途端に首都の守りの手から零れた。この先にも人々は住んでいたにも拘わらず、だ。もちろん、それは仕方のないことなのだろう。守りきるには限界がある。あの村でさえ、魔物に襲われたことは一度や二度ではない。それで死んだ人もいる。ただ、村としての形が最後まで失われなかっただけの話だ。
それでも、整理のつかない気持ちというものはある。
私の故郷は、この先にあったのだから。
きっともう、かつての原型などかけらも留めてはいないだろうけれど。
ただの偶然だった。両親が首都に出張に行くことになった。けれど、仕事は忙しそうで私を首都にまで連れて行っても面倒を見る時間はなさそうだと言った。だから、私は故郷で一緒に暮らしていた祖父母のもとに残るか、それとも、今住んでいる親戚の家に厄介になるかのどちらかを選ぶことになった。祖父母のことは好きだったが、首都に連れて行ってもらえないという不満が村を出てみたいという欲求になり、私は親戚の家に行った。それから僅か一週間も経たない内だった。村が壊滅したという話が私のもとに届いたのは。
生き残ったのは僅か三人。ひとりは重体で報を告げると同時にあの村で息絶えた。もう二人は首都に行った。ひとりは村中でも利発な青年だった。たまに手紙が届いて――つい最近も魔王が斃れたという報と同時に喜びに満ちた手紙が届いた――元気そうであることがわかっている。もうひとりは、同年代くらいの少年で、彼の行方はわからない。青年に手紙で聞いても首都に着いてからは別行動でわからないらしい。
最後に見た少年の顔を思い出す。
小さい村だったから、同年代の子とはよく一緒に遊んだ。あの子とも遊んだ。きらきらとした金色の髪と、青色の目をしていた。別段、特異な色でもなかったけれど、私は小さい頃の彼の輝かしいまでのその髪と瞳の色をよく覚えている。真夏日の空と、陽光に反射して金色に輝く向日葵の色。どうしてこんなにも印象的に残っているのだろうと疑問だったけれど、魔王が斃れたという報を聞いて気が付いた。
村が壊滅したという報を届けに来た彼の顔は、それはもちろん命からがら逃げきってきた後だったから憔悴していたというのもあるけれど、それ以上にくすんでいたのだ。あの鮮やかな色を、誰かが上から灰をぶちまけて台無しにしたかのようにくすんでいた。そのくすんだ灰色の中、目の奥に燻った炎が揺らめいていた。
村があったはずの場所が見えてきた。建物もほとんど破壊され尽くして、しかもあれからもう何年も経ってるから風化が進んで、名残は残っているけれど面影ももう残っていない。
足を止める。すっかり草木に覆われた故郷を見る。きっと、あと数年もすれば、この爪痕も消えるのだろう。自然は驚異だ。あれだけ人々を震え上がらせた魔物の所業さえこうして土に還してしまうのだから。
少しだけ村の中に入る。今となっては配置もよく覚えていない。けれど、村の中心に花畑があったのは覚えている。あの花々も、魔物に踏み荒らされて残ってはいないのだろう。そうとはわかっていながら、唯一覚えているその場所に向かう。
しかし、その場所には、先客がいた。
花畑に寄りそうように横になって眠る青年がいた。成長して精悍な顔つきになってはいるものの、その顔には見覚えがある。
駆け寄ろうとして、やめた。ボロボロになった鎧が、彼が何かと死闘をした後であることを示していた。その足で、まっすぐにここに帰ってきたのだろう。多分、ひと月はかかったはずだ。
閉じた瞼の下の瞳の色は見えない。けれど、洋上に黒煙を上げていたあの火はもう、消えたのだろう。くすんでいた金色の髪は、かつての輝きを取り戻して風に揺れていた。
揺蕩う猛火 淳一 @zyun1
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