バスボールの双子
回めぐる
第1話
扉を開けると蒸気が視界を白くした。暖かさに身震いした。
深夜の浴室は静かだ。身動ぎせずにじっとしていると、世界はこの四角い部屋だけで完結しているかのような錯覚を覚える。
俺はバスボールのパッケージを破った。洗面所の片隅にひっそりと眠っていたものだ。全八種、プラスシークレット。ひと昔前に少し流行ったアニメのフィギュアが出るらしい。俺はこのアニメをよく知らないので、どれでもよかった。
寒々しいほど白く輝く照明に照らされた浴槽。凪いだ水面に、黄緑色のバスボールを落とした。ぽちゃん。泡を吹き出しながら、水面に黄緑色の液体が広がっていく。死に至る劇薬のように禍々しい。
バスボールが溶け切らないうちに、俺も浴槽に入った。まず爪先から。臑、膝、腿、性器、骨盤、臍、胸、肩甲骨、肩。ひたりひたりと体を沈めて、全身をぬるい液体に委ねる。張り詰めていた緊張感から放たれて、息をついた。
バスボールはどんどん溶けて輪郭を変えていく。そっと握って、泡になって弾け消えていく感触をつかんだ。つかんだと思ったら擦り抜けた。いや、擦り抜けてはいない。手の中に収まってはいるが、絶えず溶けて小さくなっていくので、上手くつかむことができないのだ。しゅわしゅわしゅわしゅわ。細かな泡々はお湯の中でも刺すような冷たさを保っていた。
ふと、一週間前に別れた彼女のことを思い出した。彼女と目が合うと、炭酸飲料水のような甘く軽やかな痛みが弾けた。ぱちぱち。しゅわしゅわ。最後に会った時の彼女は、ひどく青ざめた顔で、炭酸が抜けきっていたけれど。最近、妙によそよそしいと思っていた矢先、唐突に向こうから別れを告げられた。俺は彼女のことが好きだったからショックだったけれど、俺は追い縋ってわけを訊くことができるような人間ではなかったので、黙って頷いてしまった。彼女はあっさりと俺の前から消えた。
胸の辺りに針が刺さった痛みを感じて、意識をバスボールへと向けた。黄緑色の入浴剤はもうすっかり溶けきっていて、洗剤のような独特な匂いが浴室を満たしていた。手の中に残ったのは、小さなボールカプセル。開けると中からは小さな双子のフィギュアが出てきた。黒髪と白い肌。少年は白いシャツと黒いズボン、少女は白いワンピースを着ている。少女の方は少し彼女に似ているなと思った。
突然、少年の方が起き上がって、俺の手の中から這い出てきた。黒々とした瞳と目が合う。鼻を鳴らして笑った。
「まぬけ面」
浴槽の縁に立つ少年は、百円かそこらのフィギュアとは思えないほど精巧に作られていた。それどころか、肌に生身の人間のような瑞々しさすら持っていた。試しに触れてみようと指先を伸ばすと、「気安く触るな」と全身で威嚇された。
「不躾だな。一体どんな権利があって僕に触れるんだ」
「お前は俺のバスボールから出てきたフィギュアだから、俺のものだろ」
「君の? このバスボールは君が買ったのか?」
そう問われてみると、確かにこれは俺が買ったものではなかった。彼女がその昔に箱買いしたものの余りだ。彼女はアニメが好きだった。このキャラクターの名前はなんだっただろうか。浴槽の床に放っておいたパッケージに手を伸ばしてみたが、浴室に蔓延する白い湯気のせいか、視界がぼやけてよく読めなかった。
「僕の名前はアヤだよ。そっちは僕の双子の妹」
「なるほど。最近のフィギュアは喋るのか。よくできてるんだな」
「君、顔だけじゃなくて頭までまぬけなんだね。そんなわけないでしょ。僕が喋ったり動いたりして見えるとしたら、それは君の脳みそが作り出した幻覚だよ」
幻覚の少年は俺をせせ笑った。なんて自分に厳しい幻覚だろうか。俺が無意識のうちに年下の少年に蔑まれ見下されたいと願っているとでもいうのか。実に馬鹿馬鹿しい。
「マチ、マチ。ほら、マチちゃんもおいで」
アヤに声をかけられて、少女の方も俺の手中から飛び出した。顔形も体格も、ほとんどアヤと瓜二つだ。
マチは感情のない丸い目でじっと俺を見つめた。「あなたは、だあれ?」
その問いは、むしろ俺の方がこの双子に投げかけたいものだった。深夜の幻覚として片付けるには、彼らはあまりにも鮮明すぎた。一体この小さな生き物はなんなのか。しかし、そんなことを真面目に考え込むのも馬鹿らしいので、俺は少女の不躾な視線から逃れて湯に身を深く沈めた。
「あなた、目を逸らすのね」
少女がぽつりと呟いた。小さくこぼれ落ちた言葉だったけれど、非難の響きを伴っていて、俺の心臓はどきりと跳ねた。
「…………は? なんだよそれ」
「あなた、目を逸らすのね。わたしたちを無視して、いないもの扱いするんだ」
わたしたちを見ていてよ、と少女は訴えた。それが無性に鬱陶しく感じられた。うるさいな。一体どんな理由で、俺はお前らなんかを気に掛けなければならないのか。
「おい、マチを泣かせるなよ」
少年の方が苛立ちを露わにした。俺もなぜか腹が立って仕方がなかった。知るかよ。お前らのことなんて俺には関係ない。
「関係ない? 関係ないって、君は……ああ、君は」
気がつくとフィギュアの少年は、一般的な男子中学生くらいのサイズまで大きくなっていた。風呂の縁から、湯船に浸かる俺の方へと飛びかかってくる。飛沫が上がる。少年のぎらついた黒目が俺の眼球、さらにはその奥の海馬まで貫いた。
「君は、最低だ。無関心は罪だ。どうして君なんかが僕らの、」
細い十本の指が俺の首を包み込んだ。親指がぐっと喉仏を押しつぶす。息ができない。
「なんで僕らをアヤマチなんて呼ぶんだ、それが許されるなんて思えるんだ、なんて傲慢な、許せない許せない」
殺される、と瞬間的に理解した。このままでは憎悪に絞め殺される。やられる前にやらなければ、俺は死ぬ。
少年の両肩を掴む。あれだけ俺の首を締め上げていたくせに、少年の体は軽く、呆気なく引き剥がすことができた。俺は少年を浴槽に沈めた。それは容易い行為だった。濁った黄緑色の液体に飲み込まれる直前で、少年が何かを言った気がしたが、水音が邪魔をした
。
浅い浴槽に沈んだ少年は、二度と浮かんでこなかった。どこかに行ってしまったようだ。
浴槽の縁に立っていた小さな少女は、潤んだ黒目で俺を一瞥してから、後を追って黄緑色の海に飛び込んだ。浴室は再び静かになった。
別れた彼女がプールで入水自殺したと聞いたのは、その翌日のことだった。
バスボールの双子 回めぐる @meguruguru
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