第五章 フェアウェル・スクラッチ

第29話 第四棟破壊志望

 モニターの向こうでポイントが踊る――


 いや踊って貰っては困るんだ。僕は頭を振って、気合いを入れ直す。ついでにマグカップを……さっき飲み干したんだっけ? 何もかもがあやふやだ。

「朋葉、おかわりいる? それよりも寝てきたら?」

 声を掛けてくれたのは、稲部さんのスタジオのチーフ・アシ、楠瀬くすせさん。

 前髪をヘアバンドで持ち上げて、黒縁の眼鏡を掛けている小柄な女性だ。もちろん化粧っ気はなく、格好もスウェットにジャージというわけで……漫画家のスタジオと言うことで当たり前と言えば当たり前の格好なんだけど。

 前は「眠気に負けて、原稿の上に突っ伏さないように化粧をする」なんて漫画もあったけど、それももう完全に時代遅れだろう。

 突っ伏してしまえば化粧が原稿を汚し、結果として締め切りに間に合わないという危機感が眠気を払う――という絡繰りなんだけど、今はそれをやってもモニター汚れるだけだし。そもそも突っ伏せないし。

 そんなわけで楠瀬さんはの格好は、時代に合い、しかも合理的という――何だか先祖返りしただけという気もするけど。

「すいません。それじゃ、コーヒーください」

「はいよ」

 楠瀬さんがマグカップを持ち上げて、キッチンへと消えた。

 さて、この間に描きかけの第四棟を仕上げないと。この第四棟は「キャンパス×コンパス」の舞台となっている軽岩大において後から建てられた、という設定だから他の棟の表面処理が転用でき無いんだよね。

 しかもややこしいデザイナーズマンションのようで、その上、曲線を多用してるものだからパースが非常にややこしい。

 ……稲部さんがノリだけでデザインしたに違いない。

「この第四棟、爆破予告とか――いや、実際に爆破……」

「それ良いね」

 物騒なことを、わざわざ声に出して僕がストレス発散していると、戻って来た楠瀬さんがそれにノってきた。ここだけ切り取ると完全にテロリストだな。

 ……漫画家稼業が危険視されるのも、わからないではない。

「そうだよ! 一度粉々にしてしまえば……」

「稲部さんが、さらにややこしい建物を書いてしまう可能性」

「今度こそそんな事はさせない。真っ当な建物にしてみせる」

 一転。今度はカウンターテロへの決意を固める楠瀬さん。よほど第四棟への恨みがあるらしい。気持ちはわかるけど。

 で、その諸悪の根源であるところの稲部さんは、編集と打ち合わせで外出中だ。現在の時刻、午前二時なんだけど。やっぱり無茶苦茶な生活であることは間違いない。

 僕は淹れて貰ったコーヒーを啜りながら全体を確認。……ああ、ここのディティールがヤバいな。

「ああ、そこ為朝ハチローのカットインが入るから、大丈夫」

 相変わらずコマ割りが宇宙だ……だけど、

「本当に大丈夫ですか? 稲部さんがまた気まぐれで……」

「そんな事はさせないから。まったく朋葉がいるからって、いつも以上に無茶苦茶するんだ、先生は」

 チーフ・アシの苦悩という奴だね。中間管理職って、こういう感じなのかな?

 技術の発展は、さらに漫画家にジタバタする余地を与えてしまったようだ。レイヤー分けで画面構成が容易になった事で、背景を効率的に手抜きすることが難しくなっている。

 もちろん、一カ所だけ手抜きする方がかえって難しい時もあるんだけど、今回は――

「――いや、やっぱりやっておきます。見込まれたわけですし、この回が載る時ってもしかしたら動きが見えるんじゃ?」

「アニメ化の話? そんな事になるかなぁ? だって“キャンコン”だよ?」

 楠瀬さんが訝しげな表情を浮かべた。楠瀬さんも僕と同じで「キャンパス×コンパス」のアニメ化は難しいと考えている人だ。僕も「無理じゃないかな?」という意見に変わりはないんだけど、ちょっと気になる事もある。

「父さんの時と、動きが似てる気がするんですよ」

「アニメ化の時の? ああ、それはねぇ。あたしにはわからないし、確かにここのところ賀谷さんと随分打ち合わせしてる気もする」

 楠瀬さん、というかこのスタジオにアシスタントとしてやって来てるのが、合計で三人で全員が僕の履歴を知っている。「やすはらなおき」の子供で「海と風の王国」を実際に描いていたって事も。

 それを伝えておかないと、まず……“いじめられる”なんて事は無いだろうけど、随分微妙な空気になってしまう事は間違いない。

 それでアシスタントを仕切る楠瀬さんとは、知り合ってからそろそろ三年になるのか。

 だからこそ、僕も無精ヒゲをまったく気にしないで、原稿に取りかかれるというわけで――ああ、でも第四棟の見開きとか! 

「……編集との間に漫画以外の連絡事項が増えるんですよ。父さんにもそんな時期がありましたし」

 怒りを飲み込んで僕は楠瀬さんに説明を続ける。ちなみに賀谷さんというのは「キャンパス×コンパス」の担当編集。

「そのとき、朋葉小学生でしょ? よく覚えてるね」

「父さんは、ほら……家が大好きでしたから」

 正確には“母さんが”なんだけど。それなのにしばらく見ない時期があったんだよね。それが過ぎるとテレビでアニメが始まって、一緒に観たことを覚えている。

 そんな風に説明を続けると、楠瀬さんもだんだんアニメ化の可能性があることを受け入れてくれたようだ。

「……もちろん深夜アニメなんだろうけど」

「そうでしょうね」

 そこは間違いない。

「もしかして……」

「まぁ、そのぐらいの気構えで良いと思います。その可能性が現実ほんとうになるとすれば、このタイミングで話持ちかけた僕はラッキーなんだろうな」

 実は今、現役の漫画家――つまりは稲部さん――に「海と風の王国」を手伝ってもらうという無茶をお願いしているところだ。

 やっぱりラストの見開きは僕では描けそうも無くて。

 それで苦し紛れに稲葉さんにお願いしたら、交換条件でこういう事になった次第だ。

 いや、交換条件にもなってない。僕と稲部さんでは時間の価値の格差がありすぎる。それに、僕のアシスタントが本当に助けになるのか――

「あんたも忙しくなるんじゃないの? “海風”載るんでしょ?」

 楠瀬さんが、そんな風に話題をスライドさせた。

 全然、関連がないわけでもないけれど……楠瀬さんの気分転換に付き合うか。

「ええ。何だかそういう話になってしまって。一応、人に見せるように描いたつもりなんですけど」

 未だに、この展開には首を傾げる。

 小谷さんが英橋館と取引した結果なんだけど、まさか「続編」が交渉材料になるとは思ってなかったから、未だに戸惑いっぱなしだ。

 次の打ち合わせは……あれ? いつだったっけ?

 ゴールデンウィークが終わってからだから……

「うん。面白かったし納得も出来た。あたしもファンだったし」

 そうは聞いていたけど、何だか周りに「海と風の王国」のファンが多すぎるような気がする。作者の息子だから気を遣って、という可能性もあるんだろうけど。

「朋葉がああいう方針にするって決めたらしいけど、あたしもそれで良かったと思う。実際にあれから時間経ってるんだし」

「ええまぁ、それは確信してました」

「なら自信持ちなさいよ。あれはほら……金を取るのに相応しい出来だと思うわけよ」

 不躾な表現だったけど力強い励ましだと思う。だけど僕が気にしているのは、そういう理由じゃ無くて――

「ねぇ、朋葉。先生が描く予定の見開きさぁ……あれってやっぱり?」

「ええ。多分、楠瀬さんが考えてるとおりだと思いますよ。やっぱり伝わるものなんですね」

「それなら朋葉。尻込みしてる場合じゃ、ないと思うよ。選べる身分でもないしさ。チャンスだと思わないと」

「……その理屈はわかる気がします。でも。そう簡単に割り切れないですよ」

 そんな僕の“抵抗”に対して、楠瀬さんはニヤリと笑って見せた。

 その笑みの意味は、僕のこだわりに呆れているのか――それとも「アンドレア」らしいとでも思っているのか。

 とにかく、これで僕たちの気分転換はお開きとなった。


 ――さぁ、稲部さんに渾身のアシスタントを頼むために完璧な第四棟を。

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