第52話 第三戦 カリラ 前

 第三戦は昼の食事休憩を挟んでからとなった。

 観客たちは流された血に熱狂の中にあり、きっかけがあれば暴徒と化す恐れがあった。それを食い止めるための中休みである。

 リリーは控室に戻り、ウドの作ったスープを口にして体を温めていた。

 塩気の強いスープと暖炉で体を温めている。


「美味くはないな」


 リリーが言うと、ウドは笑う。


「腹いっぱい食う訳にはいかんでしょう」


 ふと、リリーは押し黙った。

 怪訝な顔でウドは言葉を待つ。


「そういえば、そんなこと長くしてないな。腹いっぱい食って、頭が痛くなるまで寝たい。うん、今度、それをやろう」


 楽しい思いつきだ。

 修行を始めてから、剣士になろうとしてからそんなことついぞしていない。

 十歳を過ぎてから、そんなことをした記憶が全くない。


「お嬢様、そんなことしたら、動けなくなりますよ」


「そんなことは分かっている。だからやりたいんだ。食いすぎるなと師匠に言われ続けて、ずっとそれを守っていた。しかし、たまにはいいだろう」


 今になるまで、真面目に守っていた。

 苦しくなるまで食ってみたい。


「たまにたまにが毎日になって体が動かなくなるンです」


「ぬう」


 唸ると、ヴィクトール叔父の苦言を思い出す。唸るのをやめろと、細かなことに苦言を呈していた。

 熊のような厳つい男が、貴婦人のようなことを言ったものだ。


「ウド、少し一人にしてくれないか」


「へい、ようがす」


 ウドの町方言葉も聞き慣れたものだ。

 ウドが退室してから、リリーは涙を零した。心は平静なのに、涙が出る。

 人を斬るというのは、辛いことだ。

 なんでこんなことになったのか。

 師を斬ったあの日、自らを斬るよりも辛いということを知った。それなのに、繰り返した。

 悲しみよりも、自分がより強くあることを優先した。そして、正しさを得るために力を振るうことに何の疑問も抱かなかった。

 命を誰よりも粗末に扱わないと、その尊さに気づくことは無い。そして、気づいたとしても尊いものとして扱えるものでもない。尊いと知るからこそ、それを壊すことへのためらいがなくなる。


「勝ったのに、辛いか。知っていたというのに」


 泣き言など漏らさなかった剣士のリリーは、いつの間にかいなくなった。人食い姫と呼ばれても、そこにあるのはただの小娘に過ぎない。

 水瓶から水を汲んで、顔を洗う。

 控室の安全はウドが調べてくれているおかげで、飲み食いは安心して行えた。このような決闘の場で最も怖いのは毒殺である。

 今だけは、ここで暖を取ろう。

 すぐにまた、冷たく寒い外に出ることになる。






 カリラは黒騎士と共にいた。

 最後になるかも知れない戯れに、肌を重ねる。

 ジーンの抱き方は、触り方が優しい。

 騎士というものは、女を抱く時に必要以上に力を入れる者が多いというのに、ジーンはそうではなかった。

 男芸者のような触り方は意外で、カリラは前戯の時にいつも笑いそうになる。


「ジーン、どこで覚えた?」


「ん、何がだ」


 そう言って唇を塞いでくるので、こいつは少し嫌なヤツだとも思う。

 色の道をカリラは修めている。

 三十を過ぎた辺りから男が好きになった。とはいえ、血の狂熱を冷ますための獣の交わりは嫌いだ。

 大都市の娼館で男芸者や吟遊詩人をよく買った。

 物好きなご令嬢の護衛を務めた際には、そのご令嬢と秘密の関係を持ったこともあり、色欲の奥深さに魅せられていた時期がある。

 今思えば、強さに対して何もかもが見合わず、自棄な気持ちがあったのだろう。

 無双の強さを持ちながら、その手に掴めるのはわずかな金銭のみ。いくら強かろうと、番犬としての称賛を得るのがせいぜいか。

 そんな自棄のおかげで、今がある。




 侯爵家で芸を見せた後、是非にと引き止められて逗留することになった時も流れに身を任せていた。


 どうでもよかったのだ。


 三十も半ばに至り、士官は叶わず。

 女の身で武芸者として名を馳せたが、それは限られた場所で名を知られたに過ぎない。

 殺し屋や闇狩りに名を知られたところで、薄暗い噂の的がせいぜい。何一つ、夢見た栄光の足がかりにも手がかりにもならん。

 侯爵家の用心棒というのは、良い収まり所かもしれぬと思ったほどだ。

 決して騎士にはなれないだろうが、ここで武芸の達人として上品に振舞っていれば飯の心配をせずともよい。

 不便であったのは一つだけだ。

 達人などと誉めそやされてしまうと、男を買うなどもっての他となってしまう。

 それ以外は居心地の良いねぐらであった。


 何が珍しいのか、侯爵閣下とそのご家族はカリラの修行を眺めて愉しまれる。


 壺の上で剣を振るというのは、危険なだけであまり意味の無い修行だ。

 身体の重心を崩せば転がり落ち、動くのをやめても転がり落ちる。幼い日から行ったこの修行で、どれほどの仲間たちが転がり落ちて死んだか。

 幼い日、カリラは師匠に買われて深山幽谷の朽ちかけた砦に連れていかれた。

 そこにはたくさんの子供たちがいて、皆が剣の修行を行っている。


 怪物や魔を打ち倒すために作られた息吹の剣は、理外の剣である。


 魔人や魔物を打ち倒すための剣だ。

 その歴史は古く、幼い日から理念や歴史を叩き込まれたが、カリラは全て忘れることに決めていた。

 自然と合一し世界の力を借りて振るう剣だというが、それは嘘だ。ただ、世界に吹きだまるよく分からない力を扱うに過ぎない。

 自然など、ただ周りにあるというだけだ。そんなものが人間に力を貸すはずがない。

 厳しい修行に耐え、自らの師を斬り殺して免許皆伝を得るに至って、その考えはより強固になった。

 こんなもの、闇狩りや細作が使う邪術邪剣と何一つ変わらない。

 世を昇るものではない。ただの大道芸でしかないではないか。

 農村を襲う魔物を、血と汗に塗れて倒しても得られるのはわずかばかりの金銭と、怪物を見るような蔑みのこもる視線のみ。

 魔物や盗賊を斬り、時には人買いの用心棒もやる。全ては路銀のため。

 放浪しながら魔物を狩るのが宿命などとは思わなくなった。ただ、食うために剣を振る。

 そんな生活をしている内に、色々なことを覚えた。

 剣の達人らしさを演出できる喋り口や、顔つき。自己演出というものが大事だ。

 人は外見で人を判断し、人はそれに見合う行動をするようにできている。卑劣な者は卑しい顔をし、高貴な者は気品を備えている。


 剣の達人は、あまり笑わない。

 剣の達人は、いつも剣の理を考えている。

 剣の達人は、義に厚い。

 剣の達人は、善き行いをする。


 そんなものに、皆が騙される。

 カリラという女のそれは、身に染み付いた癖であった。

 侯爵閣下の邸宅は居心地がよい。いつものように振舞うだけで、彼らは畏怖や尊敬の視線をくれる。

 動物を愛でるのと同じことだ。

 あれらを可愛いと思う瞬間はあっても、獣が獣として生きているだけだ。勝手に人がそれを愛でるだけ。

 捻くれた性格だというのに、半年もいれば甘くなる。


 どうにも、心地よすぎたらしい。


 ご令嬢が誘拐された時、敵の力量はある程度分かっていた。

 なぜなら、リリーがかどわかされた時、見てみぬふりをしたからだ。

 一流どころの暗殺者が五人以上。他にも腕利きの悪党がたくさん。少なくとも十人以上の敵がいた。

 一人では歯がたたぬと気づかぬふりをしていたというのに、嘆く侯爵閣下と夫人を見ている内に癖が出た。

 馬を借りて、彼らの痕跡を追う。

 魔物を狩るために培った技術のおかげで、痕跡を追うことができる。リリーの匂いを追い、馬の足跡を追うのは魔物を追い詰めるのと同じ要領でやれた。

 どうしてそのまま逃げてしまわなかったのか。

 嫌だな、と思っていた。

 魔物よりも人は強い。

 打ち捨てられた砦がアジトになっていたが、見張りを斬るところまでは上手くいった。

 帰りたいな。

 見張りですら、そこらの騎士よりも手練れと来た。

 でも、斬ってしまったのだから、いまさら逃げられはしまい。


 あの子があんなに見てくるからだ。


 何が面白いのか、惰性で続けているだけの修行の様子を伺う子供。

 そんな目で見られたら、逃げられなくなる。

 正面から押し入ることで、屋内での斬り合いになったのは僥倖であった。

 刃を振り回すのに適さない屋内であれば、有利に戦える。

 達人を気取るのだから、狭い場所で剣を自在に遣うことくらいできるさ。

 想定よりも人数が多い。

 体力の消耗を避けるため、一太刀で仕留める。

 思ったよりも、体が動く。

 飯の心配をせず体を鍛えるだけの半年間が活きた。

 食うや食わずの体では、長い時間の戦いなどできようもなかっただろう。

 カリラは生来から血に酔うことがない。

 戦いの狂熱に呑まれない心をしている。刃を振り回していても、頭の中は冷え切っていた。

 だから、斬り結びながらも後悔している。

 死にたくない。

 命をかけるほどの義理などなかったというのに。

 番犬として雇われているだけで、命をかける責任がどこにある。

 鋼糸使いの暗殺者と対峙すれば、その思いも強くなる。

 噂には聞いたことがあったが、糸などで首を落とす業が実在するとは。こんな化け物相手だというのに、体が勝手に勝ち筋を見つけた。

 糸を剣の背で受けて絡めとり、そのまま体ごとぶつける突きで相手の心臓を一突きにする。

 剣を引き抜けば、呼吸の乱れと頭の芯からくる痛み。

 極度の疲労だ。

 腕がだるくて、構えを解いた。構えもせず剣をぶら下げているというのに、打ち込んでくる者がいない。

一人で二十人近くを膾斬なますぎりにした怪物に対して、残る数名の敵方は呑まれていた。

 不意に、笑いたくなった。

 こんなにも、強くなっていたか。今の今まで気づかなかったが、どうやら自分はとんでもなく強くなったらしい。


 どうしてかな。

 ああ、そうか。


 こちらを見る子供の目。

 これがあったからか。

 みんなの期待する剣の達人をここでもやってみるさ。

 敵はあと三人。

 なあに、まだ体は動くし、やれるだろう。やれなくても死ぬだけ。

 死にたくないな。


 疲れ切ったせいか、頭がまともに回らない。

 相手の懐に入るのも無防備に歩くのみ。だが、それで充分だった。体には力が入らないのに、どうにも相手の隙が分かる。だから、一方的に斬れる。

 百戦錬磨の細作であろう首領らしき男が何か叫んだ。

 今はそれも耳に入らない。

 背後からの気配には、剣を放り投げる。回転させずに真っすぐ剣を飛ばすのは難しい。こちらに刃が届く寸前に投げられた剣は相手の喉元に真っすぐ突き刺さる。

 ははは、できたじゃないか。

 残るは最後の一人。


「おい、子供は人質にするなよ」


 なんでそんなことを言ったのかは分からない。

 どうやら、首領らしき男はそれで覚悟を決めたようだ。

 短剣を両手に構えて迫ってくる。

 しまった。剣を投げてしまったせいで、丸腰だ。

 左からの短剣をかわしながら、肘の外側に掌を叩きつければ関節を壊した手応え。しかし、右の短剣は太ももに突き立てられた。

 にやりと首領は笑う。

 その笑みは一矢報いたことを誇る笑みだ。嘲笑ではない。だから、カリラも笑んだ。

 首領の首に両手を回して、骨をへし折る。

 短剣からは妙な匂いがしていて、毒だと分かった。太ももに突き立てられた短剣は、引き抜けば出血、抜かねば毒が回り死ぬ。

 なるほど、大したヤツだ。道連れにしたつもりか。

 魔物狩りに使う薬剤を口に入れてから、太ももをベルトで縛った。少しだけ悩んでから、短剣を引き抜く。さあ、運がよければ死なないだろう。

 子供を侯爵閣下に送り届けねばならない。

 馬鹿なことをしたよ。

 故郷の言葉で、口に出して言う。もう、あの国に戻ることは無い。それに、あそこに家は無い。失ってしまったものは、二度と手に入らない。

 子供がしがみついてくる。

 貴族の子供らしい乳臭い匂いだ。


「無事でよかったよ」


 子供になんと声をかけていいのか分からなくて、そんなことを言った。

 子供や動物というものが苦手だ。

 あれらは何を考えているか分からないし、突拍子もないことをする。それに、自らの胎に命が宿ることは無いから、見たくない。

 息吹を会得し、魔物や魔人を打ち倒す業を得るための厳しい修行は、女の幸せなど得られない体にしてくれた。

 子供の体は温かい。

 こんなに人の体というのは暖かいものなのだろうか。

 男と褥を温め合うのは、冷たいもの同士が身を寄せ合うのと同じことだ。相手の身体も自分と同じくらいの温度に感じるから、温もりは感じない。

 寒くてたまらなくて、子供を抱き上げた。

 血の海と化した砦を出て、馬に跨る。自らの前に子供を乗せて、馬を走らせる。


「寒くないか」

「温かいよ」


 そうか。

 わたしの体は、石のように冷たいものと思っていた。

 どうしてか、不意に泣きたくなった。

 理由は分からない。

 喜びでもなければ、悲しみでもなく、ただ、やるべきことをしたという気持ちがある



 侯爵閣下と夫人に子供を送り届けた。

 侯爵家の家人は喜んでいる。使用人たちまでが喜んでいた。そして、わたしを怪物のように見ない。

 強い番犬を見る目でもなかった。

 面映おもはゆくて、顔を背ける。

 毒を受けたことを告げて、毒抜きをしたいと言って必要なものをあつらえてもらった。

 蒸し風呂で薬湯を飲み、汗を出し続ける。これで毒を消せないのであれば、死ぬだけだ。手持ちの解毒薬を飲んでいるから、生き残れる目はあると思うことにする。

 いつ死んでもいいと思っていたのに、死にたくない。

 侯爵閣下に夫人、あの子供はわたしのために泣いてくれるだろうか。

 それは、愉快な想像だった。


 蒸し風呂に入り、薬湯で体を温める。

 これも息吹の師より教えられた解毒法だ。

 毒で朦朧とすればするほど、過去の嫌な記憶が甦る。

 息吹の師にわたしを売った母親の顔、修行の最中に死んでいった仲間たち、師を斬ってからの放浪の日々、魔物を狩って路銀を稼ぐこと、かがり火のゆらめき。

 記憶はいつも曖昧だ。

 ただ、どれも孤独や後悔に満ちている。

 今までどれほど殺したか。どれほどの憎悪を背負っているか。

 とても、嫌だな。

 朦朧としながら、毒が抜けるのを待つ。

 悪夢はぬるい泥のようで、心地よい。血だまりで生きてきたのだから、これは血を吸った泥だろうか。

 ここにいるのはとても心地よい。

 いつものねぐらに戻ってきたことが分かる。

 足を止めてよかったのに、歩き続けた。あてもなく、目的も無く、放浪に放浪を重ねる日々。

 傷が熱を持っている。

 化膿して蛆が湧いたら終わりだ。


 薄暗いサウナ風呂に光が射した。

 使用人が薬湯の入った薬缶を持ってきたのだろう。


 小さな手が、薬缶を抱えて震えている。

 子供の手だ。

 ほっそりとして柔らかそうな、貴族の子供の手が薬缶を取り落とさないよう一生懸命に力を入れている。

 薬缶を受け取り、熱した石にかければ鼻を抜ける香りと共に蒸気が立ち昇る。

 あの子供か。

 名前はなんといっただろう。

 鬱屈とした気持ちが、晴れた。

 子供はわたしを見ているのだろうか。

 いまは、そっちを見れない。

 そんな目は、怖い。

 わたしはそんなにいいものじゃない。


 何日経っただろうか。

 数日でやつれた気がする。

 太ももの腫れが引かない。このまま膿むと死ぬ。生きながら傷口に蛆が湧くのは地獄だ。どうにもならなくなる前に自害せねばならない。

 頭の芯に鈍痛が居座っていた。

 わたしは誰に格好をつけているのか。

 死にたくないと泣き喚いてもいいのに、潔く死ぬことで称賛されたいと思っている。

 侯爵閣下なら、それなりに美談として語り継いでくれそうだ。

 栄達したかった。

 世に出て知ったのは、剣など見世物か用心棒の得手に過ぎないということだ。

 血筋に算盤勘定と口達者。それらが持てはやされる太平の世に、剣など役に立たぬと知る。

 魔物や魔人もまた、滅び去る宿命の中にある。だから、息吹の剣も同じように滅ぶ。寄生虫は宿主と共に死ぬものだ。

 世界への愚痴ばかりが頭の中で回る。


 大嫌いさ、こんな世界。


 あいまいに数日が過ぎた。

 朝か夜かも分からぬ目覚めの中で、妙な匂いを嗅いだ。

 膿み腐れる匂いではない。

 腫れあがっていた太ももの嫌な赤みが薄れていた。まだ痛いが、傷口が塞がろうとしている。

 傷口に妙な匂いがある。嫌いじゃなくて、懐かしい気がした。

 赤ん坊の匂いだと分かった。

 生命の匂いだ。

 蒸し風呂に光が射す。

 子供の手が薬缶を差し出していた。

 なんでそんなことをしたのかは分からない。

 子供の頭を撫でていた。

 そんなことをしたのは初めてだから、おそるおそるといった様で、触った。さらさらとした心地よい手触りの髪だ。

 力加減が全く分からない。

 なんだか不思議な気持ちだ。

 いままで、優しいものや美しいものに触れてはいけないと思っていた。

 子供の足音が去ってから、忍び笑いを漏らす。

 ほとんど諦めていたのに、まさか生きる目があるとは。

 これから、どうしようかな。


 それから数日で蒸し風呂を出ることができた。

 致死毒は抜けて窮地を脱したが、体の動きは鈍った。

 足は少し遅れる上に、息を吸い込む量が減っている。その上、視力も落ちた。はっきりと見えていた飛ぶ鳥の羽の動きが、ぼんやりとしか見えない。

 だというのに、人の隙間はよく見える。

 なんだかよく分からない。

 鳥でも斬ってみるかと剣をふってみたところ、簡単に斬れそうになり慌てて軌道を逸らした。

 強くなったという気はしない。

 全くもって分からない。

 ただ、体力が落ちたのは確かだ。それに、壺の上に登ろうとしてこけてしまった。

 ただの中年女に成り下がったか、このわたしが。

 侯爵家は以前にもまして良くしてくれた。


「以前と同じという訳にはいかぬ。これでは用心棒は務められん」


 するすると言葉が口を突いて出る。

 ここにいるのは、なんだか恥ずかしい。

 そんなにいい人間じゃない。

 そう思っていたのだが、侯爵閣下ときたら恩人を追い出すなど家名に傷がつくとまで言ってくれるものだから、またぞろ居座ることになってしまう。

 壺の芸はできなくなった。

 仕方がないので初歩の修行である歩くことを繰り返した。

 子供の時から意味が分からない修行だと思ってきたが、今はなんとなく分かる。

 体の動かし方を作るためのものだ。

 剣なんて重いものを持って、ぐるぐるぐるぐる飽きるほど歩いていれば誰でも嫌になる。嫌になれば少しでも楽をしたくなって、疲れない歩き方を覚えるものだ。

 この歩き方をいつでもできるようになったら、次は剣を振る。

 これも同じだ。疲れない剣の持ち方と振り方を覚えればいい。

 修行というのは順番が逆なのではなかろうか。

 いや、違うな。

 正しい型にはまった動きを一通り覚えてから、自分の身体を把握する。最後に自分でそれを調整する。それが正しいのだろう。

 身体をどうやって動かすかを得るために、こんなに時間を必要とした。

 もう三十代も終わろうとしている。

 才能が無いからだ。


「ふふ、ははは」


 修行を楽しいと感じるのは初めてだ。

 歩いて、剣を振る。

 頭の中で造った相手は、今まで出会った敵たちだ。

 シリッドの鎖術を遣う細作、連接棍フレイルを用いる教会騎士崩れの山賊、吸血鬼、空を飛ぶ魔物、生屍人デバウラー透明吸血犬ティンダロス

 どれも、生き残れたのが不思議なくらいの難敵であった。

 それらを思い描いて作り出した想念ですら、容易く斬れた。

 ただ、とんだりはねたりといった動きは辛い。あの毒は身体を内側から引き裂いてくれた。息吹の呼吸法ですら、毒を受ける前より二段は下がる。

 まあいいさ。

 今ならそう簡単に負けない。

 強くなるというのは、こういうことか。

 そんなことで、しばらくは身体を整えることに専念した。

 侯爵の護衛には人を雇うように進言している。

 一人でやれることなどたかが知れているし、強い相手とぶつかることはしたくない。金で買える最高の殺し屋が相手なら、金で買える最高の護衛をたくさん用意するのが最も良いからだ。

 日々はそれなりに平穏だった。

 そろそろ出ていこうかな、と風狂に誘われる度に侯爵閣下が引き止める。

 それもよいかな、などと思ってしまうのでずるずると世話になってしまう。


「剣をおしえてほしいの」


 あの時の子供、侯爵閣下の幼い娘がそんなことを言う。

 馬鹿なことを言うものだ。

 こんな棒きれにどれほどの意味がある。

 何度も断った。

 侯爵閣下に告げ口もした。

 それでも子供はやってくる。

 多少は痛くしてもよいというので、断り方を考えた。


 剣を教えていいけど、今から痛いと言ってはいけないよ。


 子供は神妙な顔で頷く。

 柔らかそうな肌をしていて、手を動かすのがためらわれる。

 そうも言えないため、できるだけ優しく柔らかな頬を張った。


「はいっ」


 涙目で子供はそんな大声を出した。

 痛いと言ってはいけないということへの返答なのだろうか。子供の考えていることは全く分からない。

 どうしたらいいんだろう。

 剣の達人というのは、こんな時にどうするのか。

 もちろん、達人は約束を守る。


「いいよ。今から師匠と呼ぶように」


 だから、そんなことを言ってしまった。

 侯爵閣下はお怒りになられるだろうか。

 ああ、どうしよう。どうしよう。大変なことをしてしまった。

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